──教室に風が吹き込んでくる。昼食後の五時限目は、いつだって生徒たちにまどろみを運んでくる。
そこに数学のお経じみた授業が流れてくるもんだから、これで昼寝をするなという方が無理な話だ。睡魔の手招きに逆らえない。瞼が重くなっていく。
「……む」
ホイッスルの音がした。睡眠の谷に転げ落ちる寸前で留まる。居眠りしなくてよかったという安堵と、気持ち良く寝れそうだったのにという不満が僕の中でケンカしていた。
どこかのクラスが外で体育をしているらしい。百メートル走だろうか。
笛の音に混じって野次を飛ばす男子の声、応援する女子の声が窓越しからでも微かに聞こえてくる。グラウンドが日差しに照らされて真っ白に見える。
だからか、八咲の綺麗な黒髪が、映えるように僕の目線を奪ったのは。
でも、八咲は他のクラスメイトに混じって応援をするでもない。野次を飛ばすでもない。グラウンドと同じくらい白く眩しい体操服に身を包み、ベンチに行儀よく座っていた。
走らないのか──と思ったが、ふと、思い当たることがあったのを思い出した。
おそらく、八咲は体が弱い。
体力がないのか、それとも何かの病気か、八咲は激しい運動が苦手な傾向にある。
三年生との試合の時、中堅戦を瞬殺したにもかかわらず苦しそうにしている姿が脳裏に焼き付いて離れなかった。
だとしたら、剣道は身体的に向いていないんじゃないか、と思ったけど、すぐにその思考は浅はかだったと思い直す。
剣道は激しい。試合時間は五分と数多ある競技の中でも短い部類だろうが、その五分のうち、一瞬でも気を抜けば敗北につながる。
少しも気を抜けないという意味では、緊張感と消費する体力量は他の競技とは比にならないだろう。
裏を返せば、剣道はよっぽど強ければ一瞬で試合を終えることのできる武道でもある。
あの中堅戦がそうだ。試合時間はたったの五秒。打突の数は二発。それで八咲は二本を取って勝利した。
入学式の時に見た八咲も十分強かったが、あくまで稽古の一環だ。あえて無理をせずに長引かせていたとも解釈できる。
さらに言えば──
となると、あの中堅戦こそが八咲の『本気』だったのだろう。
体力は多い方がいい、打突はたくさん打つ方がいい。速く動ける方が強い。そんなスポーツじみた考えが昨今の学生剣道にはある。
僕も、中学時代はそうやって剣道をしてきた。
でも、八咲はむしろ逆の道を進んでいる。削って、削いで、削ぎ落として、研ぎ澄まして磨き上げて、極限まで無駄をこそぎ落とした剣。
硝子のように綺麗で、透き通っていて、触れたどんなものも差別なく斬り落とすが──脆い。
普遍的な学生剣道の考えが技を増やしたり、体力を付けたり、筋肉を鍛えたり、言うなれば『足し算』であることに対し、八咲にとって剣道とは、『引き算』なのかもしれない。
いったい、誰から剣を教わり、どんな剣に触れてきたらあんな剣道が完成するのか。
文字通り次元が違うのだ。僕や刀哉、部長がやっているような剣道とは、まったくもって異なる姿。八咲の剣道を理解できない限り、誰も八咲に勝つことなどできないのだろう。
八咲 沙耶は何者なのか?
十分な実力者といえる刀哉を完璧に従え、僕たちが歩んできた剣道とは全く違う道を歩んできた異質な存在。それらの正体は依然不明だが、僕の中には八咲がある違和感があった。
今回の一件で、八咲がどうして僕のことを気に掛けてくれるのかは分かった。それでも介入しすぎだとは思うが、自分の『夢』に対して忠実に動いていたというのは八咲の暴君っぷりから考えてもまだ納得できる。
どれでも、僕の中にはどうしても分からないことがあった。
どうして、八咲は──……。
っていうか、僕はさっきから八咲のことばかり考えてるな。運動場にいる八咲は清潔な体操服にニーソックスと少し暑そうな格好でずっと日陰にいる。髪型は珍しく後頭部でまとめたポニーテールだった。
日本人形みたいだとはずっと思ってたけど、座ってる姿もどこか幻想じみた雰囲気を醸し出していた。
一度瞬きをしたらふと消えてしまうんじゃないかという不安感というか、儚さというか、八咲の存在そのものが実は幻なんじゃないかとか、そんなことをふと考えてしまうような。
「っ……」
すると、唐突に八咲がこっちを見た気がした。心臓が高鳴る。咄嗟に首を下に向ける。まさかバレた?
いや、別にやましいことはしてないんだけど、なんだろうかこの罪悪感は。っていうかずっと窓越しに見てるって客観的に見てキモすぎるな。
しまった。そこまで頭が回らなかった。自分が八咲を見ていたことがバレてないだろうかとか、ひょっとしたら気持ち悪がられるかもとか、変に被害妄想が働く。不安を駆り立てられる。
八咲に嫌われるんじゃないかって、そんな嫌な妄想ばかりが膨らんでくる。
嫌われる? 僕は八咲に嫌われることを恐れているのか? どうして?
いや、まぁそりゃ人から嫌われないに越したことはないだろうけど、どうしてか、特別八咲には嫌われたくないなと強く思っている自分がいる。
なんだろう、この感情は。今までの人生で抱いたことがない。八咲のことで頭がいっぱいになる。なんだこれは?
ええい、仕方ない。意識を切り替えよう。そう思って黒板の方を向いたら、あれ? 先生がいない。
「達桐ぃ、そんなに体育が恋しいか? でもこの時間は数学なんだごめんな?」
隣から怒りの滲んだ声が。
「……すいませ」
言い切る前に、すぱーんという清々しい音が教室に響き渡った。