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十九本目:無窮の空

「やってみろ、一年坊主が」


 互いの体を弾き合う。足の裏が床板を踏みしめる。防具を纏って増えた体重がアキレス腱にみしりと乗る。


 懐かしい。ふくらはぎの張る感覚、親指の付け根ではなく、足の甲の中心で床を捉える。呼吸が聞こえる。無駄な情報が強制的に遮断される。視界には竹刀と、相手だけ。


 空気が目を襲ってくる。違う。僕が体を弾丸に変えた。体が空を貫き、部長の面を捉えるべく疾走する。手首に掛かる竹刀の重さ。肩の軋み。


 ああ、全てが愛おしい。


 何年も離れていた故郷に帰ったような気分だ。馴染む。しっくりくる。僕の居場所はここだと、足先から脳天まで駆けて高揚が突き抜ける。


「コイツッ」


 僕の動きに部長が翻弄される。体重が偏る。微かなズレが致命傷になるまで抉るんだ。


「小手ェッ」


 乾いた音。でもダメだ。鍔に当たった。右手に力が入ってしまった。竹刀は左腕だけで振るものだ。右手は添えるだけ。力むな。


 でも楽しいんだ。ああちくしょう、久しぶりなんだ。テンションを抑えろったって無理に決まってる。部長の打突が見える。


 防ぐまでもない。一歩下がる。抜いて余計な力を使わせる。残心。部長の足捌きはさすがの一言だ。鋭い。


 間合いを切れない。連続の打突が来る。回避は難しい。竹刀の側面で弾く。体を入れ替える。部長も残心を取り切らずに次の攻防に備えてきた。


「メ、ラァァァッ」


 構うものか。切っ先の攪乱を混ぜる。反応してきた部長の竹刀を叩き落とし、跳ね上がった自分の竹刀をそのまま打突へ連携させる。


 部長の舌打ちが聞こえた。体がぶつかる。間合いは一足一刀──一歩踏み込めば竹刀が届く、剣道において最も重要な間合い。


 足腰をキめる。打突するための土台を一瞬で構築する。


 飛来する面打ち。できるだけ前で受ける。竹刀同士の接触は軽く。面を打たせないだけでいい。一瞬でも威力を殺したら、真下へ打突を放てばいい。


「胴ォォッ」


 剣道における返し技の一つ、返し胴。音は文句なしだが軽いか。旗が一本しか上がっていない。

 まだだ。まだ打てる。狙える。ここで攻めて──と足を動かそうとしたら、


「うッ」


 膝が笑った。太股が痺れたように重くなる。足が前に出ない。

 どうしてと思ったが、考えれば当たり前のことだった。


 僕は今中学時代の財産で剣道をしている。

 竹刀のキレと感覚は辛うじて生きていても、体力はそうじゃない。弱った足腰が全盛期の動きについてこれなくなった。


 打突を繰り出すが、足が抜けたような感じになった。力が入ってない。そんな気の抜けた僕の打突に檄を飛ばすように、部長が一際強く弾いた。体勢が崩れる。防御が間に合わない。


「メぇアァアッ!」


 トラックが突っ込んでくるような打突。全身の肌が粟立つ。必死に体を捻り、有効部位だけは避けた。


 でも、次に迫りくる残心は避けようがない。体当たりで地面に倒れた。


 審判の制止が掛かる。部長が手を差し伸べてくれる。お礼を言いながら掴み、立ち上がるが、足に力が入らない。


 それだけじゃない。呼吸が辛い。肺の皮が引っ張られるようだ。やっぱり半年のブランクは鉛となって体を蝕んでいる。


 さっきまではトラウマを克服したことでハイになっていたんだ。

 対して部長は一切息が切れていない。姿勢も体幹が安定した立ち姿で開始の白線まで戻っていく。


 要所では確実に狙ってくる精度、そして何より不動明王を想起させる圧力はさすが部長と言わざるを得ない。これが──全国を狙うという責務を果たさんとする男の姿か。


 強い。部長はどっしりと根を下ろした大木のように、分厚い強さを誇る。

 不安が滲み出てきた。一年坊主で、半年もブランクのある自分が勝てるのか。


「始めッ」


 そんな僕の不安を他所に、試合が再開される。


 細かな体重移動、竹刀を腕ごと床と平行に持ち上げての牽制。下ろす際に相手の竹刀を弾いての様子見。左右への足捌きによる攪乱。


 先ほどまでの流れで互いの小手調べは済んだ。力量もおおよそ把握できた。だからこそ決定的な一歩は踏み込まない、踏み込めない。


 間合いの探り合いを続ける。呼吸が詰まる。瞬きもできない。その直後に首が飛ぶような気がするから。


 飲み込まれる。部長の圧力に。部長の厚みある剣気が僕の心を侵食する。僕の不安を増大させる。僕の不安とは即ち──敗北。


 一瞬、最悪のイメージが脳裏を過った。


 直後。


 床板が爆発した。そう錯覚させるほどの強い踏み込み。五代部長によるものだった。

 筋肉の起こりを一切見せないまま、一瞬で竹刀を斜めに振りかぶるようにしながら、一気に間合いを詰めてくる。


「──ッ!」


 虚を突かれた。反射的に竹刀で面を守りながら大きく後退してしまう。


 動物の防衛本能に近い。思考が追いついているわけではなかった。

 不安の浸食に心が負け、悪いイメージが部長の踏み込みによって炸裂した。


 面を守らねば。もはや剣士にとって反射とも言える機能で面を守った。しかし面打ちは飛来しなかった。僕は今手元を上げている。胴を晒している。


 思考が追いついたときには、すでに遅かった。


「ドォオオラァアアアアアアアアアッッ!」


 まるで猛獣が咆哮するかのような気勢の声と共に、振り上げられた部長の竹刀が僕の左胴へと襲い掛かった。稲妻めいた轟音が響いた。内臓にまで衝撃が伝わってきた。


 逆胴。本来、胴打ちというのは相手の右側の胴を打つのが通常だが、その逆を狙った打突。


 炸裂音、打突の気勢、残心、気剣体どれを取っても文句一つない、敵ながら見事と言わざるを得ない一撃だ。白の旗が三本上がる。審判に躊躇は一切なかった。


「胴アリッ」


 審判声が響くと同時に、二、三年生側から歓声と拍手が沸き起こる。


「分かるか達桐……これが部を背負って戦ってきた俺の剣だ」


 すれ違いざまに、部長が言葉を突き付けてくる。ぐうの音も出ない。まだ腹に衝撃が残ってる。まるで五代部長がこの剣道部で積み重ねてきたモノを叩きつけられたような。


「……強い、なぁ」


 悔しさとか、そんな感情は湧いてこなかった。これは純粋な敬意だ。総勢三十名を超えるこの剣道部をまとめ、背中を見せ、導き、戦ってきた男の剣だ。重くないはずがない。


 それに比べて、僕は、僕たちは、なんて幼稚でワガママなんだろうか。

 自分たちの都合で部員に迷惑をかけて、ワガママを言って。


 そもそも八咲は、どうして部長に勝負を挑んでまで、僕の復帰を望んだのか。一緒に稽古をするという『夢』のためなのは分かってる。でも、違和感はあった。


 焦っているようだったから。


 八咲を見る。当たり前だけど僕の違和感を解消してくれるワケがない。

 ただ、信じていると言わんばかりに、僕をまっすぐ見つめていた。


「……変なヤツ」


 普通、取られたら何か声を掛けるだろ。武道の応援となったらマナー的にはよくないらしいけど、部活動となったらそんなマナーなんてあってないようなものだし。


 なんであんな、透き通った目ができるんだろう。

 なんであんな、自分を貫こうとすることができるんだろう。


 誰が敵に回ろうとも、自分を決して曲げないというその信念が、どうしても眩しくて。

 手を伸ばしてみたいと思ったから、僕は八咲の言葉に乗って戦っているのか。


「そう、か」


 僕は濁っていたんだ。

 自分のためと、八咲の夢のため。


 二つを原動力にしていたから、どっちつかずでブレているのかもしれない。部長の背負ってきたものに負けてしまうんだ。


 ならば。今僕がどっちに魂を捧げるべきかは、迷う余地なんかなかった。


 八咲。君は本当に不思議な女の子だ。

 不思議というより、おかしいというべきか。


 異常、狂気、正気の沙汰じゃない。ハッキリ言ってやることなすこと、考え方とか思考の方向性とかがイカれているとしか言えない。


 君が本当に分からない。それでも、僕は君ほどまっすぐに進もうとする人を知らない。

 だから、そうだ。僕は知りたい。君のことを。君の夢をもっと聞きたい。君を知りたい。


 君のために、僕は剣を振ろう。今ここで振るう剣を。この世界で君に捧げよう。

 なぁ、どうか頼むよ。その透き通った瞳で、見ていてくれ。


 息を吸う。息を吐く。竹刀を振りかぶり、ゆっくりと頭上から降ろしていく。


「──」


 もう一度息を吸って、止めた。

 瞬間、世界が白と黒に包まれた。


「二本目ッ」


 五代部長と竹刀が白い。それ以外が黒い。白線が見える。世界が竹刀と部長だけになる。隔絶された。他には何もいらない。八咲はきっと、僕が描く剣閃を見ていてくれるだろうから。


 それだけあればいい。他は捨てろ。僕を捨てろ。剣になれ。純粋に、無垢に、研ぎ澄まして、研ぎ澄まして、一振りで良い。それで折れていいから。




 僕よ、剣になれ。

 八咲のための、剣になれ。




 この時、僕は気付いていなかった。息が止まっていた。瞬きも。ひょっとしたら心臓も。人としての機能を捨て、剣として生まれ変わる。


 唯一捨てられなかった機能は、汗を流すことだけだった。


 部長   が、 前、     に         出          。


「メェェエエエエンッッ!」


 白と黒の世界が、蒼に包まれた。

 僕が飛び出した先は──雲一つない、無窮の空だった。

 全細胞が反応──いや、反射した。


 飛び出そうとした部長のさらに先を取る。振り抜いた。渾身の打突。確かな手応え。残心を取り切る。部長の体を弾き飛ばさんとし、


「メ、面アリッ!」


 上がる赤旗。三本。八咲と刀哉が惜しみない拍手を送ってくれていた。それ以外の音は消えていた。部長たちを応援していた先輩たちがあんぐりと揃って口を開けていた。


 その時だった。僕の体に稲妻が走った。

 全身が歓喜している。眼前に広がる無窮の空を自由に飛び回れる──至高の喜びに打ち震えていた。


 なんだ、今の感覚は。自分でも何をしたか分からない。ただ、自分が自分じゃなくなったような、新しく生まれ変わったような。


 答えの出ない問いを自分に投げかけていたら、同時だった。試合終了のブザーが鳴った。


 一本同士。引き分け。次鋒と副将は二本負けだから、取得本数も、勝利数も同じだ。


 ふらついた足取りの部長と開始線で竹刀を合わせ、蹲踞して納刀。立ち上がり、三歩下がって試合場を出る。未だに呼吸が荒い。思い出したように、足から力が抜けた。


 倒れそうになったところを、誰かが腕を回してくれた。


「見事だったよ、達桐。最後の一本は本当に素晴らしかった。思わず見惚れてしまった」


 完全装備の八咲が、僕の体を支えていた。


「後は任せ給え」

「え、でも、引き分けじゃ」

「おいおい、完全にスコアが同じなら──代表者一名による代表戦だろう」


 あ、そうか。だから八咲が……って、あれ、刀哉は?

 と思ったら、首に衝撃。


「やるじゃねぇか剣司ぃ! 復活したな! 苦労掛けさせやがってこの野郎~」


 誰だと思ったけど、こんなことをするヤツは世界に一人だけだ。面と小手を外した状態の刀哉が僕にヘッドロックをかましていた。やっぱりか。


「ゲホ……ぼ、僕も無我夢中で、何が何だか……」

「いや、マジで良かった。今までおまえの剣は散々見て来たけど、一番気持ちが乗ってて、一番かっけぇ打突だった。そうだよ、アレが、俺の倒したい相手の達桐 剣司だ」


「──」

「おかえり、剣司」

「刀、哉」


 胸が疼く。言葉を失う。何を言えばいいか、分からない。

 だけど、この瞬間、僕はようやく──ようやく、刀哉に許されたような気がして。


「は? おい、何泣いてんだ剣司おまえ!」

「う、うるさい。なんか、もう、泣けてきて……」


 もう分かんない。感情ぐちゃぐちゃだ。分かんないのに涙と鼻水が止まらない。拭うために面を外そうとしたら、


「仲良しなことは結構だが、代表戦は私が出るぞ、文句ないな」


 八咲が首を不敵に鳴らしながら、振り返らずに告げた。


「ああ、いいぜ。でも……やれんのか?」

「心配無用だよ刀哉。達桐の祝いをせねばならんからな──瞬殺を約束しよう」


 待ちきれないとばかりに白線のすぐ後ろで立つ八咲。睨むは先ほどまで試合をしていた五代部長。


 試合直後で疲弊しているかもしれないが、実力から言っても五代部長が出るしかない。それがレギュラー陣にとって最も勝率が高いから。


 だけど、圧倒的に有利な状態で大将戦まで持ち込まれた挙句、僕相手に引き分けた事実で部長は精神が打ちのめされているはずだ。そんな状態で八咲を相手にできるはずがない。


 そう。もう、この試合は決着している。


「クソ……クソ、おまえら」


 それが分かっているから、五代部長は面越しにこちらを睨みつけてくる。


「抜き給えよ、五代部長。せっかくの逢引きで乙女を待たせるとは、紳士失格だぞ」

「八咲ィィィ……」


 結果は、火を見るよりも明らかだった。



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