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十六本目:上段、火の位

「僕が大将?」


 八咲にそう告げられ、思わず目に力が入った。


「ああ。理由は二つ。一つ目、まだトラウマを完全に克服できていないのであれば、気休めだが少しでも良い刺激があった方がいい。私と刀哉の試合を見て、心に火を着けておけ」


 要はモチベーションを上げておけ、ということか。確かに、その方が一番の問題であるメンタルにも多少良い影響はありそうだ。


「二つ目。事の発端は君のトラウマだ。だから君が落とし前をつけ給え。要は、この勝負は君が退部を押し付けてきた部長を倒すことで、初めて勝利と言えるのだ」


 確かに。全ての流れは僕のトラウマが引き金となって起きていることだ。部長を倒すことで、トラウマを克服した姿を見せることで、ようやくこの話に決着がつくのだ。


「分かった。やるよ」

「良い返事だ。期待しているよ達桐」

「ぜってぇ回すからな。ぶちかませよ、剣司」


 犬歯をむき出しする刀哉の目も、いつになく爛々と燃えていた。


 刀哉の強さは言わずもがな、八咲の強さも僕は知っている。直接稽古をしたワケではないが、この約二ヶ月で八咲が一本を取られているところは一度も見たことがない。


 ……時々、稽古を抜けてしんどそうにしているのは見たことあるけど。

 この二人がいれば、不思議と勇気づけられるような気がする。


 先鋒・刀哉。中堅・八咲。大将・僕。五人の団体戦で最低人数の三人しかいない場合、次鋒戦と副将戦が省略される。


「試合を始めます──互いに、礼っ!」


 審判をすることになった、レギュラー以外の三年生の声で僕らは礼をする。


「お願いしますッ!」


 対戦表を見る。三年生レギュラー陣はやはりというか、大将に五代部長、そして中堅に八咲の胸倉を掴もうとした副部長を出してきた。


 あの先輩はやたらと暴力的なんだよな、八咲は大丈夫だろうか……と思ってちらりと見たら。


「人の心配より、自分の試合に集中したまえ」


 あっさり見抜かれた。余計なお世話だったらしい。こういうところが頼もしくもあり、だけど同時に可愛げのない性格だよなと思ってしまう。


「先輩ッ、頑張ってください!」


 その時だった、相手側から声援が聞こえ、意識が引っ張られる。


 先鋒の刀哉と、三年の高木先輩が試合場で蹲踞──腰を落として息を合わせる動作──をするところだった。 刀哉の背中には赤色の帯。これは自分のチームを表す印である。三年生たちは白の帯がついているだろう。


「始めッ!」の合図と同時に、先鋒の刀哉が一礼し、上段の構えに移る。


 刀哉の長身は上段を扱うのにうってつけの体格だ。ただし、上段を公式試合で使うには高校からという制限がある故に、中学時代は稽古を積むだけに留まっていた。


 しかし、刀哉の構えは何十年と稽古を重ねたような練度が滲み出ている。入学してからだけではない。あの事件以降も、相当な密度の稽古を重ねたに違いない。


 竹刀の握りは左手が柄頭で、右手は鍔元。基本的に手の位置は中段と共通だ。竹刀の柄は両手では埋まらないほどに長く、左手と右手に挟まれて隙間が生まれる。


 上段の構えは柄の隙間を額の少し上あたりに持ってくる。その位置はつまり、中段における『竹刀を振りかぶっている状態』とほぼ同じになる。するとどうなるか。


「ぜぇあッ!」


 鋭い気勢と共に、刀哉が予備動作を見せずに飛び出した。

 高木先輩が後手に回る。受けた瞬間、微かに衝撃で動きが止まった。


 上段の強みはこれだ。中段において打突とは、『振りかぶって、振り下ろす』という二段階の動作がどれだけ速く竹刀を振っていても必ず行われている。


 しかし、上段は『振り下ろす』という一つの動作だけで一本を取ることができる。予備動作がほとんどないようなものだ。


「ぐっ……」


 高木先輩が自分の間合いに踏み込む前に打たれたことで攻めあぐねる。


 先輩が後手に回ったのにはもう一つ理由がある。構えによる間合いの差だ。上段は中段に比べて、体を半身にして打てる。


 すなわち間合いが中段よりも遠い。


 二人の間にある体格差ももちろん関わってくるが、同じ体格にしたとしても上段の刀哉の方が間合いは遠くなる。


 一つの動作で打突が繰り出せる。中段よりも遠い間合いから打てる。


 この二点が、上段における最大の利点と言えるだろう。

 だが、上段は利点だけではない。


 ビュンッ! という皮膚が裂けるような風切り音と共に、再び刀哉が打突を放つ。しかし、今回は確実に見切ったのか、高木先輩は受け流すようにして竹刀を捌いた。


「チッ──」


 刀哉の反応がワンテンポ遅れる。次の打突が出る高木先輩に対し、今度は刀哉が後手に回った。竹刀の重さに振り回されているような感じだ。


 これが上段の欠点。一度打突をしたらリカバリーが難しい。


 より遠くに竹刀を振ろうとしたら、打突する際に竹刀を握っているのは左腕一本になるからだ。


 全力で振り下ろした竹刀を片手で支え、引き戻すのは容易ではない。中段は常に両手が竹刀に掛かっているので、竹刀のリカバリーや振りの幅は上段に比べて融通が利きやすい。


 間合いが広がる。睨み合うような緊張感が道場を包んだ。

 刀哉がいくら体格で有利を取ろうが、やはり僕と同じ高校一年生でしかない。試合経験や戦略の引き出しも、高校剣道で揉まれてきた高木先輩より少なくなる。


 一瞬だけ心の底から滲んできた不安に足を組みなおした瞬間、


「君は心配性だな。刀哉だぞ。彼の強さは君が一番分かっているだろうが」


 本当に読心術でもあるんじゃないのか、と疑いたくなるくらい正確に八咲が僕の思考を読んだ。ぎょっとして思わず思い切り振り向いてしまう。


「刀哉は大丈夫だ。彼ほど先鋒向きで、勝負強い剣士を私は知らない」


 先鋒。団体戦の中で最初に戦う剣士。即ち一番槍。


 試合において最初に戦う人間は勢いをチーム全体にもたらさなければならない。ならば実力は当然として、求められるものは果敢に攻めるという気概──。


「ッシャオラァアッッ!」


 瞬間、刀哉の全身がバネのように伸びあがった。竹刀が加速する。右の蹴り足から一直線に力が伝わり、まるで噴火のように高木先輩に炸裂する。


 大きく身体を仰け反らせ、辛うじて回避した先輩だが次の足がついてきていない。

 巨体に見合わぬ速度で刀哉が体当たりを繰り出し、先輩の体勢をさらに崩した。


「ぜぇあラァッッ!」


 唸る竹刀。炸裂する刀哉の引き面。爆弾の破裂したような音が道場内を埋め尽くす。赤の旗が上がった。副審の三年は紅白の旗を腰の前で交差した。一本ではないという意思表示だ。


 しかし、もう一人の審判が確かに赤の旗を上げていた。当然だろう。一本にならないはずがない。


 ──実は、剣道で打突が一本かどうかを判断するのは非常に曖昧で、『気剣体』が一致しているかどうかが重要になる。


 気。これは打突を打とうと思って全力で打っているか、ということだ。打突後の残心──一本を取っても油断せず次に備えているという気構えや動作──も気に含まれる。


 次に剣。これは打突がしっかりと相手の有効部位を切り落としているかどうか。一本とは真剣なら確実に致命傷を与えられる打突を指す。


 最後に体。これは打突の際にしっかりと体全体で斬っているかどうかだ。簡単に言えば腰が入っているかどうか。真剣を以ってしても、人体に致命傷を与えるのは難しい。だから正しい姿勢、正しい体重や力の掛け方をしているかどうかが見られる。


 刀哉の打突は、どう見てもこの三つの要素が完璧に揃っていた。


「うむ、さすがだ」


 瞬く間に一本。称賛の拍手と共に八咲がそう呟いた。やっぱり刀哉は強い。いつでも太陽のように輝いて、その豪剣で道を切り開く。滲み出ていた不安は遥か彼方に吹き飛んでいた。


「二本目ッ!」と主審が鋭い声を上げ、試合の再開を告げた。


 試合は二本先取だ。刀哉はもう一本取らなければならない。

 淀みない動作で上段に構える。漲る気勢からは一切の隙など窺えない。


 高木先輩に向けて上段を構える刀哉。重石を乗せたようにどっしりと動かない。まさに威風堂々。


 空気が気魄で麻痺している。刀哉の長身から繰り出される上段の威力はまるで火山弾だ。全身の膂力が乗った一撃が当たった箇所を焼き焦がし、次の行動を遅らせる。それを繰り返せば相手は刀哉の圧力に呑まれるだけだ。


 覇気が陽炎のように揺らぎ、立ち昇る。審判しているこっちが冷や汗をかくほどの集中力だった。


 まるで鎖が解き放たれるのを今か今かと待ち侘びている猛獣だ。陽炎となった闘気が、百獣の王のたてがみを連想させた。


 高木先輩の目に、今の刀哉の姿はどう映っているだろうか。少なくとも──人間を相手にしているとは思っていないだろう。


 ここは白線で囲われた檻の中。相対するは百獣の王が持つ爪牙。生半可な覚悟で飛び込めば、腸まで食い千切られる。


 ──上段は、別名『火の位』という。燃え盛る炎で己を焚き上げ、立ち昇る陽炎がより剣士の姿を大きく見せる。攻撃に特化した捨て身の構えだ。


 腕を頭上に構えているということは、胴も喉も曝け出しているのだ。これが実戦だった場合、その無防備の恐怖は剣士を縛る。


 しかし、そうなってしまえば上段は上段足り得ない。

 どんな相手に何をされても動じない、まさに鋼の精神力と胆力が要求されるのだ。


「うぁああああッッ!」


 荒々しい雄叫びと共に、高木先輩が刀哉の喉をめがけて飛び込み突きを放った。

 対上段において効果的なのは左小手を狙うこと。そして次に決まりやすいのは突き。


 先も述べたが、上段は攻勢に特化した故に胴も喉も曝け出している。

 突きは全ての打突において最速の技だ。しかも結果を残してきた剣士の打突である。空気を貫く剣先がまっすぐ刀哉の喉に吸い込まれていく。


 しかし、刀哉は目を逸らさない。迫りくる致死の攻撃を限界まで見極めていた。

 その場から体を前進させながら、刀哉が首を捻るだけで突きを躱した。


「見さらせボケ……ッ」


 失速する突き。対して焔が加速する。火を纏って唸りを上げた。

 ぎし、と刀哉が歯を噛み締める。みしり、と手首の軋む音がした。

 振り翳した焔の信念は、天井知らずに燃え上がる──。


「オォオオアァッ!」


 頭蓋が割れたのではないかと錯覚するほどの衝撃が迸る。

 近くに立つこちらにも震動が伝わってきた。まさに大地を割る噴火の如き一撃だった。


「がぁ──……」


 高木先輩がくずおれる。竹刀を放り出して、ばたりと床に倒れ伏せた。

 上がる赤い旗。今度も二本だったが関係ない。文句なしの一本だ。

 天を刺すように上げられた刀哉の竹刀は、勝利を示す鬨の咆哮だった。


「面アリ! 勝負アリッ!」


 決着を告げる主審の声。先鋒戦は刀哉の二本勝ちで幕を閉じた。




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