次の日、全ての授業が終わった直後のことだった。
剣道場の中心で、女子男子合わせて三十八名の部員をまとめている剣道部主将の五代 皇巳は苦虫を十匹ほど噛み潰したような表情で佇んでいた。一度深く息を吸い、
「……おまえら、何を言ってるのか分かってんのか?」
冷戦沈着かつ、いつだって穏やかな声色だった部長にしては珍しく、苛立ちを隠そうともしない怒気を含んだ声だった。いつもの部長を知っているからこそ、心臓が慌てだす。
おまえら、とは誰を指すのか。筆頭である八咲が小さな胸を張り、
「ああ、分かっているとも。我々は達桐の退部に断固反対する。たとえ三年生が引退するまでだとしても、たかだか一部長が生徒の部活動への参加権を剥奪するなんて横暴、認められるはずがないだろう?」
体格差は熊と子どもくらい違う。しかし、それでも八咲は毅然とした態度を取り続ける。
「達桐も同意の上だ」
「人はそれをパワーハラスメントと言う。達桐に選択の自由があったと思うか? いいや、ないな。選択できないように外堀から埋めていったからだ。そもそも、こんな茶番じみた議論なんぞ無意味だろう。話は平行線──となれば、やることは一つだ。違うかね?」
そう、八咲は放課後、僕と刀哉を連れて剣道場の扉を蹴破り、開口一番でこう告げたのだ。
──勝負だ。我々が勝てば達桐の退部を取り消せ。負ければ二度と敷居は跨がないと誓おう。
五代部長は「話にならんな」と一蹴する。八咲を無視し、時間の無駄だと言わんばかりに部活動を始めようとするが、
「ビビッてんスか、部長さん」
刀哉のその声が、五代部長の足を止めた。
「沙耶に負けたから、直接戦っても勝てねぇから、部長って権限振りかざして逃げようとしてるようにしか見えねぇんですけど」
刀哉が左肩だけ落とし、斜めから見下ろすように挑発する。
「安い挑発だな霧崎。底が知れるぞ」
五代部長が呆れたように頭を掻き、
「そもそも、おまえたちの行動が部全体の迷惑になっていると何故考えない? 今こんな不毛なやりとりをしている間にも時間は失われていく。俺たちの稽古の時間はおまえたちに奪われているんだよ。言葉にしなければ分からないか? 邪魔をするな。八咲と霧崎はサッサと着替えて防具を着けろ。達桐は失せろ」
苛立っているからか、早口になる部長。周囲の部員たちも暗に頷いているのが感じられる。
僕たちを除いた部員全員がこう思っているだろう──いい加減にしろ、と。
正論だ。紛うことなき正論だ。間違っているのは僕らで、悪役は僕らだ。
「ハッ、笑わせるな」
しかし、八咲がそんな空気を一瞬で斬り捨てた。
「断言してやる。勝つか負けるかでしか物事を見れていないおまえたちが、いくら稽古を積み重ねたところでロクな結果など出やしないよ」
爆弾に火を点けるかのような発言によって、明らかに部員たちの目付きが変わった。
だが、なおも八咲は飄々とした態度でねめつけるように顎を上げ、
「癪に障ったか? 逆鱗に触れたか? 図星を突かれて苛立ったか。この程度の軽口で感情を荒立てる。だからおまえたちは弱いんだよ」
「八咲、テメェ──」
三年生の一人が目尻を吊り上げ、八咲の胸ぐらを掴もうと手を伸ばす。
「待ってください」
その手を、僕が止めた。
「達桐……ッ」と三年生がぎょっとした目で僕を見る。ああ、よく見たらあの日、僕に部室の掃除を命令した先輩だった。確か副部長だったっけ。
「八咲や刀……霧崎の態度が悪いのは謝ります。ですが、納得いかないのは本当です。少しずつかもしれませんが、僕は前に進んでいるんです。確かに今の僕じゃみなさんの戦力にはなれないですが、やっぱり、だからといって部を辞めさせられるのは、おかしいと思うんです」
力が拮抗する。副部長は歯を食いしばるが、それでも僕が押し返す。
舌を打った先輩が手を振り払う。八咲が髪をかき上げ、僕に言った。
言ってやれ、と。ああ。だから僕が火蓋を切る。
「だからお願いします。勝負してください、五代部長。僕たち三人と──先輩たち五人で」
瞬間、道場内に動揺が広がった。
「三対五?」「最初から二敗のハンデ?」「バカじゃねぇの?」「調子乗りすぎ」
──剣道の団体戦は五人で行われる。しかし、剣道部が盛んではない高校の場合、五人より少ない人数で団体戦に挑むこともあるのだ。団体戦に臨むに当たって必要最低人数が三人であり、その場合、二敗した状態での戦いとなる。
つまり、一敗も許されない。二回引き分けでも終わる。三人側は、全員が必ず勝利しなければならない。
これだけの条件を突き付けられたら、さすがに避けては通れないだろう。八咲が昨日提案した作戦だ。これで勝負を避けたら、それこそプライドが許さないはず。
心の底から思う。八咲は無茶苦茶で、破天荒で、暴君だと。
「……分かった。そこまで真っ向から挑まれたら、避ける方が士気に関わるな」
五代部長が副部長の肩を掴み、下がらせる。狙い通り、乗ってきた。
「いいだろう、俺たちだって全国を狙ってる。おまえら程度を倒せずして、全国なんぞ語れねぇわな。おまえらが勝ったら達桐の復帰。俺たちが勝てば──」
みし、と音がした。同時に副部長が呻き声を上げながら顔を歪ませた。
「霧崎、八咲。部の和を乱した罰としておまえらも揃って退部しろ」
「上等だよ」「受けて立つぜ」
一切の躊躇なし。この二人は微塵も勝利を疑っていない。
生唾を飲み込んだ。僕たちが勝つには、僕の勝利が必須となる。まだ完全にトラウマを克服できていない状況だが、やるしかない。
僕のためだけじゃない、刀哉の、八咲の、桜先生の、僕の大事な人たちのために。絶対勝つ。この勝負だけは、負けられない。