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十四本目:硝子と世界の殻

 次の日。部活を休んだ。連絡は誰にも入れなかった。八咲にも、刀哉にも話せなかった。


 当たり前だ。僕の都合でみんなに迷惑を掛けながら部に滞在していたんだ。なら、向こうの都合で退部させられても文句は言えない。僕が文句を言ってはいけない。


 二人に見つかる前にサッサと家に帰った。電気なんか点けない。手も洗わなければうがいもしない。制服の学ランも脱がずにベッドへ飛び込んだ。布団を被った。息を止めた。目を瞑った。存在を消した。心臓を止めたかった。世界から自分を断絶したい。なかったことにしたい。この閉じた闇に引きこもって生涯を終えたい。溶けたい。消えたい。闇と一つになってどこかへ流れたい。死にたい。死にたい。死にたい。僕の努力なんて何の意味もなかったんだ。僕がいくら努力したところで世界は変わらない。現実は変わらない。僕は壊れていて、一度壊れたら二度と復活なんか認められやしないんだ。


 頑張ったところで、なんの意味もないんだ。


 誰かに認めてもらいたくて頑張っていたんじゃないけれど、もうやる気が削がれて竹刀を握ろうとすら思えない。


 ごめん刀哉、ごめん八咲、ごめんなさい先生。僕がいくら頑張ってもダメみたいです。僕はお荷物で、役立たずで、邪魔者で、臆病者で、使えないでくの坊──。


「やれ、刀哉」

「あいよ」


 ……、なんか、ぼやけた声が二人分聞こえた気がした、瞬間。




 鼓膜をつんざく破砕音。

 僕の閉じこもった世界が、砕け散った。




「おーう、朝だぞ剣司。起きろや」


 驚く間もなく、硝子の欠片を踏みしめながら誰かが僕の布団を引っぺがした。

 誰だ、と思ったけど、聞こえてきた声からすぐに分かった。


「と、刀哉……」


 竹刀を肩に担いで、呆れたようにため息をこぼす刀哉。そして──。


「すまないな、窓ガラスの弁償は刀哉にさせると約束しよう」

「おぉい! やれっつったのおまえだろうが沙耶ァ!」


 八咲 沙耶。裏手でツッコミを入れる刀哉を華麗に無視していた。


 刀哉が暮れようとしている夕陽を背負っている。そして、出来た影の中で八咲が腕を組んで仁王立ちしていた。眼光だけは嫌でも分かった。思考が読めない。


 ようやく思考が状況に追いついたらしい。かえって冷えた頭が、二人の行動はおかしいと断言した。怒りで頭が沸騰してきた。


「……なんだよ、おかしいよおまえら。窓ガラスを割ってまで、入って来るなんて」

「私だってこんな手段は取りたくなかったぞ。しかし、何度ケータイやインターホンも鳴らしてみても反応がなかった。だから強硬手段に出るしかなかった。君に責があると思うが?」


 相変わらずの暴君っぷり。頭にきた。


「だから、なんで! おまえたちはここまで僕に関わってくるんだよ!」


 もう放っておいてくれ。そんな拒絶の意思を込めて枕を投げつける。八咲は躱そうとしなかった。僕の弱さからも、醜さからも決して目を逸らそうとはしなかった。まるですべてを受け入れると言わんばかりの表情だった。なんだ、なんなんだよコイツは。


 僕の荒い息が狭い世界に木霊する。やめろ、やめてくれ。僕の世界はこの八畳の部屋だけでいい。広げないでくれ。窓ガラスを割ってまで、この世界から連れ出そうとしないでくれ──。


「私たちには、君が必要だからさ」

「だからなんでだよ! 刀哉はまだしも、八咲はこれまで僕となんの関わりもなかっただろうが! 君は私を信じろと言うが、どうやって君を信じたらいいんだよ!」


「……それは」


 八咲が珍しく言い淀んでいる。言いたくても言えない、そんな様子だ。


「剣司、沙耶は」


 刀哉が八咲を庇うように前に出るが、八咲が「刀哉、いい」と遮った。

 そして、無言で僕のベッドに膝を立てて上がってきたと思ったら。




 八咲が、ゆっくりと、ゆっくりと、僕を抱きしめた。




「──は?」


 その疑問は、八咲の抱擁の意味不明さもそうだが、そもそもどうして僕は彼女の動きを止めることができなかったのか。それに対する疑問も含まれていた。


 何故かは分からない。分からないけど、八咲を止めてはいけないと思った。


 心音が伝わってくる。とくん、とくん、と。小さくも確と、八咲の鼓動が伝わってくる。

 八咲は、僕の体だけではなく、僕の心まで包み込もうとしているようで──。


「……夢が、あるんだ」


 そんな状態のまま、八咲が、ぽつりと言葉を漏らした。


「他の人からしたら小さくて他愛のない、くだらない夢かもしれないが、私にとっては……いや、私と刀哉にとっては、大事な夢なんだ」


 『夢』。


 確かに八咲はそう言った。かつて刀哉と僕が、約束し合った舞台を目指して稽古を続けていたように、八咲にも、『夢』が──。


「な、なんだよ、それは」


 八咲が抱擁を解く。ベッドから降り、身だしなみを整えた。


「なんだよ、言えよ」


 刀哉が手をピクリと動かした。八咲を庇うべきか、迷いが見て取れた。

 やがて、歯を食いしばるような表情を見せて刀哉が手を下げたのと、同時。




「君と、稽古がしたい」


 八咲が、ぽつりとそう言った。




「……え、」

「三人で、稽古がしたいんだよ。防具を着けて、一人が審判をして、代わりばんこで、思う存分、疲れ果てて道場に寝っ転がるまで。時間を忘れて、どこまでも……」


 八咲が自分の胸に手を当てて、心臓を掴むように拳を握った。切なそうに目を閉じて。微かに震えているように見えた。


「それも道場ではない。高校の部活で、だ。中学時代はあまり部活動ができなかったのでな。恥ずかしい話だが、そういう部活っぽさや青春っぽさに憧れがあるんだよ」


「……なんで部活できなかったんだよ」


「あー、それは……あれだ、人数不足だ。私と刀哉だけではさすがに部の存続を認めてくれなくてな。廃部になってしまった」


 確かにそれは、八咲でもどうしようもないことだろう。


「ん? でも、刀哉はあの大会出てたよな」

「当時の顧問がな、中学の剣道のお偉いさんに無理言って俺だけ出してもらったんだ。沙耶は全国にはあまり興味ない、ってんで辞退したけども」


「そ、そうだったのか……」


 それにしても、『夢』か。それが八咲の『夢』。でも、その内容はありきたりで、当たり前で、どこにでもあるような、普遍的なものだった。


 確かに僕がトラウマを克服する必要はあるものの、特別な内容ではない。なのに、どうして、八咲はこんなにも──大事そうに語るのか。


 子どもが大事にしていた宝物を、見せるような。


「だから君が必要なんだよ。君じゃなきゃダメなのさ、どうしてもね」


 だから、八咲は僕にトラウマを克服してほしいと願うのか。刀哉を従えて、暴君となって剣道部に入り、先輩にも反抗しようとした。


 すべては、描いた『夢』のために。


 どこにでもあるような光景を、現実にするために。

 八咲は自分と刀哉の掲げた『夢』へ向かって、ただひたすら純粋に進んでいるだけだった。


 だから、部長に剣道部を辞めてくれと言われてすごすご引き下がった僕を説得しに来たんだ。

 そんな姿が、中学の頃の僕を見ているようで。


 刀哉と全国を懸けて戦うという約束を、何よりも大事に胸に抱きしめていた、僕。


「剣司、沙耶の言っていることは本当だ。おまえのことをよく話していたからな。ある時沙耶が言ってくれたんだ。『私たち三人で稽古できたら、それはとても楽しいだろうな』、ってよ」


 刀哉が補足してくれる。刀哉は冗談を言うことはあっても噓を吐くことはしない人間だ。長い付き合いなんだ。そこは間違いないだろう。


「怒れよ、達桐。私はこんな小さな夢のために、君を振り回していたんだからな」


 怒る? バカ言え。


「は、はは」


 無性に笑いが込み上げてきた。怒りで? 違う。呆れて? 違う。


「……なんか、しっくりきた」


 納得がいったのだ。どうして八咲が僕にこだわり、刀哉といっしょになって構おうとしてくれるのか。結局八咲は、僕のためと言いながらも、自分の利益のために行動していたんだ。


 八咲の行動や思考は暴君そのものだ。

 でも、無秩序でもなく、支離滅裂でもなく、八咲の中にある整合性は語ってくれた『夢』に帰結する。その『夢』こそが八咲の行動や思考の理由なんだ。


 今まで不気味だった。理解ができなかった。他人のために無償でここまで干渉しようとしてくる人なんか見たことがなかったから。


 桜先生ならまだしも、ついこの前に会ったばかりの人間に対して、特別な意味もなく接してくるというのなら、もはやソイツは異常者だ。


 その八咲に対する不透明さが、少しだけ鮮明になった気がした。


「『夢』、か」


 そうだ。かつは僕も夢見ていた。刀哉と最高の瞬間を描く『夢』。星の瞬く夜空に想いを馳せる幼き時代のように、無邪気に手を伸ばしていた。


 いつからだっただろうか。そんな『夢』に雲が掛かって見えなくなってしまったのは。言うまでもない。


 あの日、刀哉の腕を折ってしまった日。あの日から、僕の中にあった希望という希望は全て水泡のように消えてしまった。


「意外だったよ。君のような暴君に、そんな可愛げのあるところがあったなんて」

「だから言いたくなかったんだよ、まったく……」


 腕を組みながらそっぽを向く八咲。夕陽に照らされた頬はそれでも分かるくらい紅潮していた。八咲のことが少しだけ分かった。この子は純粋なんだ。ただ穢れなく、曇りなく、自分の目的へ──夢に向けて、ただひたすらまっすぐに邁進する子なんだ。


「ま、確かにここまでしちまったからにゃあ、話さなきゃ筋は通らねぇわな。沙耶を抱えて二階まで上がってくるのはしんどかったぜ」


 散らかった窓ガラスの破片を見渡しながら、刀哉が苦い顔をした。


「なんだね、私の体が重いとでも言いたいのか。ならば言わせてもらおう。乙女の体一つ楽に抱えられず何が男だね、この軟弱者が」


 げし、と八咲が刀哉の脛に蹴りを入れた。


「アァオッ! いってぇ! 脛はやめろ脛は!」


 マイケル・ジャクソンみたいな声を上げる刀哉。「しかし、まぁ」と脛を抱えてケンケンしながら、刀哉が僕に向けて笑って見せた。


「女に恥ずかしい思いをさせたんだ。なら、いっちょ気合い入れて、根性あるところ見せるのが男ってもんじゃねぇ?」


 心臓が、一際強く高鳴った。


 刀哉だけじゃない。八咲の『夢』のためにも。小さくて当たり前な日常かもしれないが、僕たちにとってはあまりにも遠く、手に入らない光景だ。僕が今のままなら。


 もう、あの日の一件は僕だけの話じゃなくなっている。刀哉はリベンジを望み、桜先生も応援してくれている。そして八咲は、僕と刀哉の三人で稽古することを、夢見ている。


 かつての僕と同じように、夢見ている。


 じゃあ、この八咲に、今の僕のような気持ちを、挫折を、味わわせるのか?

 一度、刀哉との『夢』を壊した。僕は、八咲の『夢』も壊すのか?


「……それは、ダメだよな」


 ならば、立ち上がらなければならない。僕だけなら折れていただろう。このまま小さな世界に閉じこもって、闇の中に心を沈ませて二度と浮き上がって来なかったはずだ。


 でも、違う。僕だけじゃない。目の前には、小さな女の子と、大きな男。二人とも魂に熱い剣を宿し、瞳を爛々と輝かせる。


 眩しい。煌めている。僕も君たちみたいになれるかな。

 ただ背中を追いかけるだけじゃなくて、手を差し伸べてくれるというのなら。


「ああ、その通りだ」


 僕と世界を隔てていた窓ガラスは砕け散っている。

 吹き込んでくる風が、僕の血を加速させていた。まるで背中を押すように、世界へ一歩を踏み出せと、エールを送ってくれるかのように。


「刀哉、八咲」


 世の中が理不尽なのは痛いほど分かった。

 でも、だからと言って、前に進むことを止める理由になんかなりやしない。


「教えてくれ。僕はどうしたらいい?」



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