──僕が剣道部に入ってから一か月が経った。何回も何回も吐いては倒れを繰り返してきた。呆れたようなため息が寝ても覚めても耳朶に張り付き始めたころだった。
早朝。桜先生の道場で竹刀を佩く。雀の軽やかな鳴き声と、自転車のタイヤが地面を転がる音だけが聞こえる。
空気をめいっぱい吸い込む。ヒノキの透き通った薫りが体を巡る。が充満していた。陽射しが強い。床の反射で目が眩む。自分の指先にまで意識が広がる。
「いいですよ」
目の前には桜先生。竹刀を中段に構えて、僕を不安そうな目で見ている。
「はい、お願いします」
竹刀を抜き──構える。
「……ッ」
加速する血液。汗が額を伝う。心臓がうるさい。胸が締め付けられる。足が震える。歯の根が合わない。切っ先を視界に納める。目の前が赤く染まる。血の色だ。あの日の光景が、フラッシュバックする──。
「ぐっ、ぅう……」
力が抜けそうになる。膝から崩れ落ちそうになる。
ふざけるな。ここで崩れたら何も変わってないだろうが。右手を離し。、自分の腿を殴りつける。痺れるような痛みを喝と捉えたのか、足はこの瞬間だけ震えを忘れたらしい。
何度も踏鞴を踏む。頭が揺れる。それでも。目だけは、逸らさない。
自分の罪から、自分の過ちから、自分の弱さから、僕は。絶対に、目を。
「が、ぁああああああッ」
金縛りにあったような上半身に鞭を打ち、僕は大きく竹刀を振るった。
刀哉の幻影を斬るためではない。僕自身の心にへばりつく泥を振り払うために。
竹刀の風切り音が空に響いた瞬間、僕の赤く染まった視界は、一気に晴れていった。
「あ、あ──……」
耐え、た? 吐いてもないし、倒れてもない。気を抜けば今にも膝から崩れ落ちそうだけど、それでも今僕は二本の足で地面を踏みしめている。
耐えた。耐えたんだ。あの日以降、一度だって僕はこのトラウマに抗えたことはなかった。
でも、今日、今、僕は確かに。
「やっ……」た、と空に向かって叫ぼうとした瞬間、
「──見事です。剣司君」
透き通った、柔和な声。この心を包み込んでくれそうな優しい声色は。
「桜、先生」
そこでようやく現実を認識した。先生は僕の振り下ろした竹刀を事もなげに掴んでいたのだ。
慈愛に満ちた表情で、微笑みかけてくれていた。
「よくぞここまで進みましたね」
「……あ、せ、先生……すみません、ケガは」
「大丈夫ですよ」
今でも気を抜いたら倒れてしまいそう。それを察したのか、先生が肩を貸してくれた。
同時、僕の膝が限界を迎えた。
「す、すみません」
「いいのですよ。大きな一歩を見届けさせていただきました。それだけで」
先生の支えを解く。先生の爪が、僕のシャツに一瞬だけ引っ掛かった。
「ですが、まだ、完全な克服では、ない……」
「……確かに。でも、決して、無理をしてはいけませんよ。焦る気持ちも分かりますが、慌てることなく、ゆっくりと、前に進んでください。あなたが誰かに責められる謂れはないのです。何があろうと、私はあなたの味方ですから。それだけは、忘れないでくださいね」
一瞬、大きな羽に包まれたような柔らかさを覚えた。
それは先生の掛け値なしの愛情だった。曇りなき先生のまごころに──涙が出そうになる。
痛感する。刀哉だけじゃない。八咲も、先生も、それぞれ思うところは違えど、僕が再び剣を握ることを待ってくれている。僕は一人ではないと、確かな心で伝えてくれる。
心が折れ、剣を捨て、つながりは絶たれたと思っていたけれど。
「はい、ありがとう、ございます」
どうやら、心のつながりというのは、剣でも斬れないらしい。
自分のためだけじゃない。どれだけ腐っても、燻ぶっても、手を差し伸べてくれる人はいる。心を向けてくれる人はいる。それだけは、忘れてはいけないことだ。
少しずつ春のまどろんだ空気から陽射しが強くなりつつあるこの季節。
確かな成長と変化を噛み締めながら、僕は汗を拭う。
「君の努力もそうですが、一人でここまで?」
「い、いえ、刀哉や八咲が、手伝って、くれて」
「八咲?」
あ、しまった。先生は八咲を知らない。
「八咲 沙耶っていう、とんでもない女の子が、いまして」
フルネームを聞いた瞬間、先生はハッとした顔で僕を見つめ、
「……彼女は、今、君の所属する剣道部に?」
「え、ええ。知ってるんですか?」
「はい。ちょっとね……」
へぇ、先生と八咲は知り合いだったのか。まぁ、この辺で道場っていったら桜先生のところくらいしか思いつかないし、ない話でもないな。
「あ、ちょっとごめんなさい」
すると、道場の端に置いてある桜先生のスマホが鳴った。剣道で相当な実績を残してこの人だ。指導や取材が引っ張りだこなのだろう。
「……よし」
今日も頑張らないと。ゆっくりでもいい。一歩ずつ、前に進むんだ──。
欠片を拙い手つきでつなぎ合わせ、なんとか形を取り戻しつつある僕の心。
罅も目立つ。元の形に戻るにはまだ長い時間が掛かるかもしれない。
それでも、と少しずつ見えるようになった希望を抱きしめて、また欠片を探していく。
そんな僕のボロボロの心は。
十二時間後、つまり部活終了後。
呆気なく、また粉々に打ち砕かれることになる。