──三回。
僕が剣道部に入部してから一週間、保健室のベッドに潜り込んだ回数だ。
道場で「安静にしていろ」と呆れたように部長から言われた回数はその倍以上にのぼる。
八咲から強制されるように竹刀を構えては、吐いて倒れて介抱されてを繰り返していた。
入部する時はいつかトラウマを──とは思っていたものの、思い上がりも甚だしいとはまさにこういうことなんだなと痛感した。
「はぁ……」
すっかり現実の厳しさに打ちのめされてしまった僕は、道場の倉庫の中で部の備品を整理している。
埃の舞う汗臭い倉庫の奥に手を伸ばし、息を止めながら古ぼけた道具を引っ張り出す。
カビの生えた胴だ。紐を握っていたらいきなり千切れて、僕の爪先に落下した。痛い。反射的に跳びはねてしまう。
竹刀の元となる竹の入ったドラム缶にぶつかった。耳を塞ぎたくなるような音が部活棟に響く。ああ、やらかしてしまった。床を滑る竹を無力に眺めていると、
「……何しているのかな、達桐。私が教師の手伝いで外している間に」
八咲がいた。一本の竹を片足で踏みながらイラついたように僕を見下ろしていた。
「稽古はどうしたのだ」
「あ、ああ……先輩から言われてさ。じゃあ掃除してろ、って……」
「そうか。その先輩は誰だ? 名を教え給え。斬り捨ててくれる」
竹刀を腰に佩き、武士さながらの覇気を醸し出しながら踵を返す八咲。
喉が干上がる気がした。何をする気だこのバカ。
「待て待て待て。いいんだよ、僕が道場にいたって迷惑かけるだけだし。この一週間で僕が何回倒れたと思ってるんだ。今日も倒れた。そんな僕が部活にいたって迷惑なだけだ。だから僕から先輩に言ったんだ。これ以上は迷惑がかかるから、何か雑用をさせてくださいって」
「……どうして君はそうやって自分を貶すんだ」
肩を掴んだ瞬間、八咲は眉間に深い皺を刻みながら振り返った。
「──え」
「自分で自分を貶して、何になるというんだ。誰が得をするんだ。いいや、誰も得をしない。君もだ。君の言っていることは、誰も幸せにならない。毒なんだよ、君の言葉は。それを聞かされている周囲の気持ちを少しは考え給えよ」
八咲の顔は真剣で、必死だった。どこか珍しいものを見たような気がして、呆気にとられる。
「トラウマを克服する気はないのか」
「……ないよ」
半ば、ヤケクソで吐き捨てた。
「トラウマを克服することこそ、君の言う、刀哉に対する最大の償いだとしてもか」
「……どうしようもないんだよ、これは」
一瞬、八咲が口を閉じた。
「この一週間で思い知ったよ。もう直しようがない。直し方が分からないんだから」
「達桐」
「第一、どうして刀哉も君も僕にこんな絡むのさ。放っておけばいいじゃないか。刀哉は……決着をつけるんだ、って息巻いてるから僕に剣を握らそうと躍起になっているんだろうが、君はそうじゃないだろう。ついこの前知り合ったばかりだ。僕に構う理由がない」
「そうか。そう思うのも無理はないな」
「……どういうことだ?」
「私には君のことを気に掛けるだけの理由がある」
それは。いったい。自分の目に力が入るのを感じた。
すると、どこか揶揄うような顔で八咲が笑い出し、
「ふ、女性にやたらとそんな視線を向けるもんじゃあない。体が熱くなるだろうが」
「なっ……だ、誰が」
顔が熱い。絶対赤くなってる。クソ、やられた。
「おねだりしてるところ本当にすまないが、今は話せない。しかし──私は君の理解者だ。それだけは忘れないでくれ」
「事情は話せない、でも味方であると信じてくれって? 無茶苦茶だな……」
「はは。ごもっともだよ。しかしだね、じゃあここで饒舌に話したところで、君はその話を信じるかな?」
それは、そう。気持ち悪くてとてもじゃないが信じられないだろう。
コイツは暴君だ。誰も手綱を握ることができない暴れ馬だ。
何が何でも自分の思う通りに物事を進めようとする。そして、障害が立ちはだかったら舌と剣を用いて力づくで打ち破る。
たとえそれが先輩であろうが、ひょっとしたら、先生でさえ関係ないのだろう。そんな存在を暴君と言わずなんと言う。
「信じ、られないな……」
「今はそれでいい」
ただ、と八咲が足元の竹を拾ってくれた。
「私は本心で、君にまた剣を振ってほしいと思っている」
──それだけは、信じてくれないか。
八咲はそう言って、僕に竹を渡した。竹刀として完成していない、未熟な竹を。
その手は、やはりこの前見た時と同じように傷だらけで。
初めて会った時に言われた言葉を、分け与えてくれた心を思い出した。
「一人が難しいなら、私がいる。刀哉がいる。君の復活を待ち望んでいる人間は少なくともこの世に二人もいるんだ。君は一人じゃない。だから──頑張ってはみないか」
……どうして八咲が僕にこだわるのか、その理由は結局分からずじまいだ。
でも、刀哉だけじゃない。八咲も、僕がまた剣を振ることを願っている。
先生は無理することはない、と剣から離れることを認めてくれたのに、どうしてこの二人は。
分からない。分からない、けれど。先生が僕を慈しんでくれたように、刀哉が僕を望んでくれたように、八咲も僕のことを想ってくれていると、そこだけは、信じてみようと思った。
「ありがとう、八咲」
まだ、トラウマを克服するなんて大きな声では言えないけれど。
「君は……いったい、何者なんだ? どうして僕なんかに構うんだ?」
「それは言えないな。乙女のヒミツを暴こうとするなよ、この助兵衛め」
ニヤニヤと。飄々としながら、されどミステリアスに八咲は微笑む。
まるで幻のように、掴もうとしては隠される素顔。暴きたい謎は多すぎるけど、今のままじゃあ、トラウマを克服しないままじゃあ、教えてくれそうにはなかった。
「分かったよ、こんちくしょう」
この一週間、ずっと気が進まなくて苦しかったけど。
「吐いたら介抱してくれよ」
「任せ給え。なぁに、私の父親は酒飲みだった。吐いた潰れたに関してはお手の物さ」
「酔っ払いといっしょにしないでくれ……」
「これは失礼」と八咲が笑った。小さく、可憐に、桜が咲くように。
だけど、花びらを雨が打つように、ぽつりと微かな翳りが見えたような気がした。
そこで気付いた。八咲が自分のことを話すのは、これが初めてだったということに。