「──なんだ八咲、知り合いか?」
八咲が僕に微笑みかけてから、少しだけ空気が沈黙した。しかし、野太い重低音の声がそれを破る。声の主は、五代 皇巳部長で間違いないだろう。
「おっと、稽古をつけてもらったのにすぐ挨拶に向かわないとは、とんだ失礼をしてしまった……すみません五代部長」
「なに、かまわん。俺はちゃんとした師範でもねぇんだから、かしこまる必要はない……それにしても、強いな八咲。最後の相面は完全に見切られた」
フ、と強面の顔が柔らかく緩む。
この人が五代 皇巳か。ガタイが良いとは思っていたが、そのガタイに似合う、岩石のような顔をした人だ。眉は力強く逆八の字になっており、口元もどこかへの字になって口角が下がっている気がする。
それに目付きがすごく鋭い。あの目で睨まれたら恐怖で震え上がるだろう。色黒で、髪はツーブロックの短髪。まさに武道家のお手本のような相貌だ。
実力は先程の稽古で十分わかった。巻き技を繰り出されても慌てず次の動きに対応する冷静さは見事だった。
体格、スピード、竹刀コントロール、判断力、どれを取っても確かに五代部長はレベルが非常に高いと思える。
しかし、真に驚くべきはそれを真正面から打ち破った八咲だ。
予備動作なしで繰り出した巻き技、その正確性。竹刀を巻き込むと言ったが、まっすぐな竹である竹刀を使って相手の竹刀を巻き取るというのは難しい。
その巻き技を難なく成功させる技量、面から小手打ちに切り替えても確実に小手を打ち抜ける軌道へ修正できる手首の強靭さと柔軟性。
面という狭い視界でずらされても即座に対応策が打てる判断力。小さい体で五代部長を弾き飛ばす体当たりの強さ。
──そして、相面の完成度。
この前まで俺と同じように中学生で、しかも女子とは思えない強さだった。
「それで、霧崎に連れてこられたおまえが新入生か? 俺は部長の五代 皇巳だ」
五代部長の視線がこちらに向く。鑑定するような目つきに晒されて、体に力が入る。
「五代さーん、コイツ、達桐 剣司っていうんすわ。俺の幼馴染っす。まさか同じ高校に入学してるとは思わなかったですけど。爆笑っすわ」
「ほう……ん、達桐?」
──ピク、と僕の中で一瞬だけ時間の止まる感覚がした。
マズイ、この流れは。
「……霧崎、おまえ、ソイツに腕折られたんだろ」
ざぐり、と容赦のない一言が僕の心を斬りつけた。
「折られた、とは思ってないっすけどね。春休みに稽古来させてもらった時も言ったっすけど、アレは俺が悪かったんすよ。自業自得っす。今コイツはちょーっとナヨナヨしてっけど、いずれは最高に滾る剣道をしてくれますよ」
「またそれか、いい加減にしろよ刀──」
「うるせぇよボケ」
哉、と言い切る前に、僕の両頬は刀哉の大きな左手によって鷲掴みにされた。
「萎えること言ってんじゃねぇよ。俺がどんだけの地獄を踏み越えて戻ってきたと思ってんだ。すべてはおまえとケリを着けるためだ。俺の九ヶ月の努力を無にする気か? あ?」
左手を振り払う。クソ、顎が軋んだぞ。なんて握力してやがるコイツ……。
そんなこと知るか、と言うこともできた。おまえの努力なんか知ったことかよ、と。
でも、それを言ってしまえば、僕の中にある何か大事なものが壊れる気がした。
それだけは言っちゃダメだ。絶対に……。憶測だけど、憶測でしかないけれど、刀哉は僕の想像を絶する苦痛を乗り越えて、今ここにいるのだから。
やるせない感情を握りしめて、俯くのが関の山だった。
沈黙が挟まる。外からは登校してくる生徒の明るい声が聞こえてくる。
床板が軋んだ。誰かが体重を乗せ換えた。
「達桐、本当に剣道部に入る気はないのか」
その時だった。凛とした声が沈黙を切り裂いた。誰かと思えば、八咲だった。
「刀哉から話は聞いている。あの試合は私も見ていた。どちらに非があるというものでもなかったよ。断言する。刀哉が気にしていないのだ。そこまで自分を責めなくてもいいだろう」
桜先生にも同じようなことを言われた。そうだ、その通りなんだよ。外から見たら、関係のない第三者から見たら、それが正論で普通なんだろうさ。でも、そうじゃないんだ。理屈じゃなくて、道理じゃなくて、僕自身の心が許してくれないんだ。
「……八咲は優しいんだね。でも──」
だからと言って割り切れるほど、竹を割ったような性格ではないから。
「達桐、君には剣の才がある。それを腐らせるほど勿体ないことはないと思うが。私たちも協力する。トラウマを克服しようじゃないか」
八咲が髪を揺らしながら、音も立てずに僕の近くへ歩み寄る。
……にしては、ちょっと、近くないか。睫毛の一本一本まで見えるようだ。瞬きをするたびに、パチパチと音が聞こえてきそう。蝶の翅のように可憐だった。
「そうだぞ剣司。何度も言ってるけど、俺はおまえを恨んでないし、根に持ってもねぇ。おまえが自分を責めていたように、俺だって自分に省みるべき点があったんだ。どっちが悪いとかじゃねーんだよ。だからさ、もういいだろ」
「……」
「そんなんじゃ息が詰まって倒れちまうぞ。もっと楽にいこうぜ」
刀哉が
外した視線の先には、八咲がいた。また距離が近い。少し仰け反った。
ずい、と上目遣いで僕の表情を窺ってきたと思ったら、手に何かが当たる感触が。
「ほら、本当に剣道を諦めているのなら、この手はいったいどういうことかな?」
八咲の手だった。僕の手を握り、掌をまじまじと見つめ出した。
「凄まじいマメだ。君がこれまで積み重ねてきた努力の痕がここに刻まれている。敬意を表すよ。君がどれだけ口では己の剣を否定していても、このマメが必死に君の剣を守っている」
柔らかい指が僕のマメをなぞる──と思いきや、触られて分かった。八咲の手も相当にボロボロだ。高校生の女子の手とは思えないほど、皮膚の固さと力強さが伝わってくる。
小さくて細いのに、重々しい努力の痕跡が、僕から言葉を奪った。
「美しいよ、君の手は。だからこそ、失われてほしくないのだ」
八咲はずっと僕の手を優しく包んでくれていた。それだけで伝わってきた。心の底から、僕に再び剣道をしてほしいのだと。
出会ったばかりの子がここまで言ってくれるのは、正直戸惑いも大きいけど、嬉しさが勝つ。
認められたような気がして、壊れかけている心を包んでくれたような気がして、思わず涙がこみ上げてきそうになった。
「八咲……」
まっすぐに見つめる八咲の目が、嫌でも僕の視線を釘付けにした。
綺麗だ。稽古後で火照った顔も、僕を見上げる目も、すべてが整っている。
彼女が振るう剣を見た時、一瞬だけ期待した。八咲と剣を交わすことで、きっと希望が見えてくるんじゃないかと。
「──……」
でも、そんなことはありえない。今まで長い付き合いである桜先生がどれだけ手を尽くしてくれても、僕の壊れた剣が再び切れ味を取り戻すことはなかったのだ。
今日会ったばかりの人が、果たして何かを変えることなどできるはずがない。
少し優しい言葉を投げかけてくれただけで、心まで揺れ動きそうになるな。甘えてはいけないのだ。僕の咎は、見知らぬ彼女に労わってもらっただけで赦されるものじゃないのだから。
「嬉しいよ……ありがとう。だけど、ダメなんだ。あの日から、どうしても誰かと稽古することができないんだ。稽古のできない部員なんて、いても邪魔なだけだろう」
「そんなことは──」
と八咲が否定しようとしてくれたが、口を噤んだ。
気持ちは嬉しい。八咲は優しい子のようだ。しかし、稽古できない人間が稽古に参加するとなったら、八咲や刀哉はいいかもしれないが、部員たちはそう思わないだろう。
僕がいることで周囲に迷惑をかける。それほど息苦しいものはない。
だから、なんと言われようと、入部したくないのだ。
「……残念だよ、達桐」
「ごめん。軽蔑してくれ」
心底がっかりしたような表情を浮かべる八咲。見ていて心臓がズキリと跳ねた。初対面で優しく気遣ってくれた人に、こんな表情をさせてしまう自分がどうしようもなく嫌いだ。
「入部するもしないも、僕の自由でしょう? なら、今の僕はいるだけで部員に迷惑をかけてしまう。だから入部しません。これで失礼します」
しかし、この痛みを代償に、僕は金輪際この剣道部に関わらなくて済む。そう考えれば、締め付けるような苦しさでも耐えることもできた。
できるだけ人の顔を見ず、僕は足早に剣道場を立ち去った。
「……やれやれ、重症だなあれは」
道場の鉄扉が閉まる瞬間、背後からそんな声が聞こえた気がした。