「よーし、着いたっと」
階段を上りきったところで無造作に下ろされる。コンクリートで腰を打った。痛い。
腰を擦りながら刀哉を見上げると、コイツはやけに引き締まった顔つきで剣道場の扉を睨みつけていた。
目線に釣られる。さすが運動に力を入れている高校なだけあって、剣道場も立派だった。
重々しい緑の鉄扉。その上に木の板が張り付けられている。書かれている言葉は『剣道場』。尻もちをついて見上げる形になっているせいか、やけに大きく見える。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。一方、刀哉は獲物を前にした肉食獣のように瞳を輝かせている。僕を見ている時よりも目力が増している気がした。
「知ってるか? ここの剣道部の部長さん……
「個人で? そりゃすごいな……」
リアクションを取ってしまったことが間違いだった。
刀哉はにやり、といやらしい笑みを浮かべながら僕を見下ろし。
「だろ? 気になるだろ? んじゃ行くぞ剣道部」
「待て。それとこれとは話が別──っふぐぁ」
再びのヘッドロック。ギブアップのつもりで刀哉の腕を叩いていると。
「ぜぁああああああ!」
と、鉄の扉をも震わせかねない男の裂帛の声が奥から聞こえてきた。
それに少し遅れて、ドン、ドドン、パン、パシン、と何か重たいものが床にぶつかるような音と、乾いた木と木が激しくぶつかるような音が聞こえてくる。
音の正体はすぐに分かった。剣道の音……踏み込みと、竹刀が炸裂し合う音だ。
竹刀同士がぶつかり合っているということで、少なくとも一人ではない。
その様子を刀哉にも伝わったようで、
「お、やってるやってる! いいねぇ、テンション上がるねぇ!」
刀哉が「頼もォう!」と扉を開けて中に入っていく。ここで踵を返して一目散に逃げるべきだろうが、そうすれば刀哉は絶対追いかけてくる。地の果てまで追ってくる。足の速さで僕に分があったのは中学までだ。今はどうか分からない。観念するしかなさそうだ。
まぁいいや。見るだけ見て、入部しなきゃいい。それだけの話だ。
はぁ、とため息を漏らして刀哉の後に続く。
その間に刀哉は道場への一礼──道場に入った時の礼儀──を済ませていた。好戦的であっても礼儀は欠かさない。刀哉のこういうキチンとした一面も強さの要因だろう。
僕もおじぎをし、中の稽古を見る。二十人近くの剣道部員が防具を着けたまま試合場を囲むようにして着座していた。全員の呼吸が荒れている。相当激しい稽古をしていたに違いない。
そして、部員たちが見つめるのは、試合場で剣を交わす二人の人物。
一人は背が高い……というか、ゴツイ。身長一八〇センチメートルくらいだが、全身を覆っている筋肉の厚みが、これまでに熟してきた鍛錬の密度を物語っている。
すごい、あの体は余計な脂肪なんて一切ない、まさに剣道に特化した肉体だ。
腕の太さ、首の太さ、胴回りの筋肉の付き具合……長年、道着と防具を身に付けている人を見てきた。
直接体を見ずとも、その人がどのような肉付きをしているかはすぐ分かる。その中でもあの人はズバ抜けて体が完成している。
そしてもう一人はやたらと背が低い……間違いなく一六〇センチメートルに届いていない。下手したら一五〇センチメートルもないんじゃないか。それに華奢だ。あのような体格では、ガタイの大きい相手の人に軽く弾き飛ばされてしまうだろう。
体格、リーチ、圧倒的な差がある。力も速度も相手にならないのではないか。
そう思った。そう思ったのに、何故だ。
ガタイの大きい人よりも、小さい人の構えに目が吸い寄せられるのは。
二人とも中段の構え……剣道においてもっとも基本的でもっとも有名な構えだ。
よって誰もが通る。誰もが知っている。故にその構えにこそ剣道の練度が滲み出る。
強い選手は稽古を始める前の蹲踞の姿勢で力量が分かるという。
それは構えにも滲み出る。打突──一本を取るのも全ては構えから始まるのだ。この構えが疎かになっている人物は絶対に強くなれない。
ガタイの大きい人の構えは素晴らしい……力が抜けており、剣道の命ともいえる左手の小指と薬指にしっかり竹刀が掛かっており、右手はほぼ握っていない。体幹も捻れたりすることはなく、相手に対してしっかり体を向けられている。
小柄の人の方は背中をこちらに向けているために後ろからしか確認できないが、体の反り具合、両足の体重の掛け具合、水流のごとき足捌き、どれを取っても練度が高い。
だが、二人を見比べた時、どうしても小柄の人の構えの方が美しく見える。
「刀哉……五代部長っていう人は……小柄な方か?」
思わず訊いてしまった。あと少し、二人の見え方が横にズレたら腰に巻いてある垂れによって名前が確認できるのだが。
「ンなワケあるか。でけぇ方だよ」
刀哉はどこか含みを持った笑みを浮かべていた。
そんなことありえるか? あんな小さな体で、都内ベスト4まで勝ち上がった人物よりも強いかもしれないなんて。まるで、僕が剣道を始めたきっかけ……桜先生の試合を見ているような気分だ。早鐘の打つ心臓の音も、あの日観戦した時にそっくりだった。
「……ッ!」
先に動いたのは小柄な方。確かに竹刀を振り上げた。そのままだと確実に面打ちだろう。だが、その竹刀は五代部長の面ではなく、防御へと移行する右手──小手を斬り落としにかかる。
速い! 面打ちと見せかけてからの小手打ち。一連の動作の速さたるや。相当な鍛錬で手首を鍛えてきたのだろう。あのキレは生半可な稽古では身に付かない。
しかもその軌道。小柄な方の竹刀は五代部長がそこへ右手を上げると分かっていたのかと思うほど正確に小手へ吸い込まれていく。
これは入る……そう感じたが、さすが都内ベスト4の五代部長と言うべきか、すぐさま左手を返し、竹刀の鍔で小手打ちを防ぐ。
小柄な方が打突の勢いのまま五代部長の方へ足を捌き、面同士がぶつかるまで接近する。
鍔迫り合いだ。ここでのポイントは力で相手を制そうとしないこと。
漫画やアニメなどでよく見る鍔迫り合いにおいての力比べはあまり正確ではない。
真剣ならばそうなるかもしれないが、剣道をやっている人間からしたら鍔迫り合いで相手が力を入れていたら儲けものである。
何故なら、力が入っているということは、一度力を流されたら容易には戻せないからだ。
よって剣道では鍔迫り合いにおいて力を籠める場面は実は少ない。
しかし、鍔迫り合いということは相手の竹刀が、自分の有効部位に非常に近いということになる。通常の間合いも気は抜けないが、一瞬の振りで一本取られることもあるので、鍔迫り合いの方がよっぽど気が抜けない。
カチ……カチ……と竹刀の鍔が擦れる音が、道場内に木霊する。小さな音だが、僕も刀哉も息を呑んで稽古の行方を見守っているため、微かな音でもよく響く。
「──ッジィア!」
鋭く息を吐く音と同時に、小柄な方の体勢が大きく右へズレる。
竹刀ごと手を弾かれた。やはり体格差が大きいため、小柄な方がこの駆け引きは不利か。
五代部長が二度、竹刀を振る。一度は竹刀を弾くために、二度目は右側面を斬るために。
だが、小柄な方は弾かれたそのままの勢いで、間合いを外した。
スピードの方は小柄な人の方が上か。
再び、一足一刀の間合いになる。
一足一刀の間合いというのは、お互いが中段の構えを取り、竹刀の中結──竹刀の切っ先三寸を表す白い帯紐──同士が触れるくらい交差させてできる間合いのことだ。
一足、一つ足を出せば一刀、一つ刀が届く。そういったお互いが技を出すのに理想的な間合い。歩数にして約九歩。全ての打突はこの間合いが肝となる。
先程の攻防で、五代部長の姿が斜めから見える形となる。確かに刀哉の言う通り、ガタイの大きい人の垂れには『五代』と名が刻まれていた。
小柄な方はずっと背を向けているままなので、名前が見えない。刀哉は五代部長の相手が誰か分かっているのか、さっきからずっとニヤニヤしている。
……担がれた時に刀哉が言っていた、アイツ、ってまさか。
今度こそ静寂が訪れる。しかし、稽古が終わったわけではない。
むしろここが佳境だ。両者の集中と気迫が道場に広まる。
二人は止まっているように見えるが、実はそうではない。
視線、体重、手、切っ先……ありとあらゆる情報の駆け引きがこの瞬間に行われている。
一つ一つを見ようとしてはいけない。全体を一つの景色として満遍なく視る、『遠山の目付け』という視点が大事なのだ。この二人は無論、その視点からの駆け引きを熟知している。
──外の雀の鳴き声が耳朶に溶け込む。部員たちの呼吸音が、やたらと遠くに聞こえる。
ここは一つの隔離された空間。二人の剣士によって支配された勝負の場。まるで自分もその稽古の瞬間に立ち会っているかのような感覚になり、二人の動きがどのように動くか、第三者であるのと同時に選手としての目でよく見て取れた。
「……クソ」
そこで我に返った。目線を逸らす。僕は何をしている。もう剣道はしないと決めたのに。
刹那、目線を外しても分かった。緊張した空気に電気が奔ったかのような感覚。
──動く!
「はァあああああああああッ!」
「おおおおおおおおおおおッ!」
停止していた世界が、裂帛の気勢と共に動き出す。さながら弾丸。まるで狼が跳躍するかのように、黒い道着が鋭く動く。両者が全く同じ打突を繰り出す。
瞬間、確かに聞こえた。
しゃらん、という煌びやかな音色。
無音の絶叫が炸裂した。言葉を忘れ、全細胞の咆哮が体内を埋め尽くす。
聞くものを蕩けさせる絶世の音色が、僕の髄に響き渡る。
どぐん、と巨大な太鼓を叩いたような生々しい鼓動が、聞こえた音と共鳴した。
痺れる。震える。脳天から爪先まで、射精したかのような快感が突き抜けた。
何という美しい太刀か。あまりにも洗練された一撃だ。
何度も稽古で理想の打突を思い描き、しかし辿り着けずにいたその領域。
小柄な方の面打ちは、あまりにも美しく、されど力強く僕の目に焼き付いた。
「かかか。
今のは、相面という技だ。
お互いが同時に面打ちを繰り出し、より中心を、より強く捉えられている方が勝利する。
非常に単純な勝負だ。これも背が高い方が有利だ。背が高い方は上から潰すような形で面を打てるのだから。同時に放った時も面打ちが相手より上から乗っている、先に打突を当てている印象を受けやすいので、判定も背が高い方に上がりやすい。
にもかかわらず、小柄な方の面打ちが五代部長の面打ちを破った。
──都内ベスト4まで勝ち上がったという五代部長が負けた。
何者なんだ、あの小さいの。というか、今の気勢の声の高さからしてまさか女子か?
いや、でも、男子でも気勢の声が高くなる奴はいるっちゃいるし……。
「なぁ、刀哉……あの小さい方、誰なんだ?」
僕が呟くのと同時、五代部長は打たれたということを自覚している様子で残心を取り、小柄な方は面を打った勢いを殺すことなくすり抜けて残心を取る。
「ん? アイツか? アイツはな──」
最後にくるりと回転し、相面から五代部長と入れ替わって再び向き合う形になる。
そこで、垂れに刻まれている名前がようやく見えた。
漢数字の『八』に、花が咲くの『咲』で、八咲。
「
やつざき さや。刀哉の告げた名前が僕の脳内で反響する。
心臓の鼓動が加速する。その美しい六文字の音を、僕は何度も心の中で唱えていた。
二人はお互いの開始線上にて蹲踞で竹刀を収め、三歩下がって礼をし、稽古を終える。
八咲という名の垂を付けているその人物は、壁まですり足で歩き、正座をして竹刀を置く。小手を外し、面紐に手を掛ける。
その間、僕の心臓はゆっくりと、だが確実に強く鼓動を立てていた。
八咲という人物の一挙一動に目がいく。離せない。
面が外れる。頭に巻かれている手拭いも外し、面の中に収められていた長い髪が露わになった。その髪は汗に濡れ、宝石のように輝いていた。
綺麗だ。反射的にそう思った。頬に貼りつく髪も、墨のように黒い瞳も。これほど美しいと思える人に会ったことがない。そして何より、あれほど強く美しい剣を使うなんて。
まるで、
どうしてか、彼女を見た瞬間、僕はそう思った。
「八咲……沙耶」
ぽそり、と名を呟いた。その呟きに、どういった感情を、想いを乗せたのか自分でも分からない。それでも、これだけは分かった。火の消えた僕の魂に、小さな、本当に小さな種火が宿った。力の抜けた拳を、思わず握り締めていた。
体が震えた。稲妻が突き抜けたようだった。
止まっていた歯車が、軋みを立てながらも回り始める。
彼女との出会いが、何か、大きく自分を変えるような──そんな予感がした。
「見るのは初めてか? 俺と同じ中学校の出身だよ。ワケあって大会とかには出てなかったけど、もしも出てたら全国出場──いや、全国制覇だって余裕だっただろうな」
「は?」
何だって?
「アイツ、冗談抜きでそれくらい強いんだよ。俺だってまともに一本取れたことねぇ……いや、一回だけあったわ。一回だけ」
「刀哉が? 勝つどころか一本すらロクに取れない? 嘘だろ?」
「マジ。他人の方が強ぇだなんて言うのは癪だけど……沙耶だけは例外だ。プライドとか好き嫌いとかそんなもんどうでもよくなるくらい、沙耶の強さは次元が違う」
確かに、昔から刀哉は自分から負けを認めることや、自分よりも相手の方が強いだなんて言葉は滅多に口にしなかった。覚えている限りでは、桜先生に対してだけだ。
再びの絶句。口を半開きにした状態で件の少女──八咲を見つめる。
八咲は、少し荒い呼吸で胸を押さえながら深呼吸を繰り返す。何やら辛そうだが、やがて体力が戻ったのか、僕の方へ体を向けた。
「ん……? おや、刀哉じゃないか。朝稽古に遅れてくるとはいい度胸をしている」
「ワリィワリィ、ちょっと昔の友達と会ってよ。連れてくるのに手間取った」
ヘッドロック。無理やり首を彼女の方に向けられる。
「君は……」
「は、初めまして。達桐 剣司といいます」
「! そうか、君が……」
僕の名前を聞いた瞬間、八咲の目許が柔らかくなったような気がした。こう、なんだろう。今まで生き別れていた家族と再会したかのような、そんな慈愛に満ちた微笑みだった。
「初めまして。私は八咲 沙耶だ。こんなはしたない姿を見せて申し訳ない。刀哉と友達らしいな。そのデカブツが迷惑を掛けてないか?」
「現在進行形で掛けられてます……」
八咲が首を絞められている僕を見る。髪を耳にかき上げながら、「それもそうだな」と小さく微笑んだ。触れれば崩れてしまいそうなほど儚く、可憐な笑顔だった。