「あん時ぁ、悪かったよ剣司。俺のせいでさ」
と、砂嵐の吹き荒れる頭の中で、謝罪の言葉が聞こえた気がした。
──俺の、せい?
「なんで君が、謝るのさ」
「ん? だって俺が不用意に飛び出したから──」
「違うっ!」
苦しくなった呼吸を精一杯振り絞り、否定した。剣幕に驚いたのか、刀哉はゆっくりと僕の首から腕を解いた。相当声が響いたのだろう、周囲の生徒たちが好奇な目を向けてくる。
でも、今の僕にはどうでもよかった。
「……違うよ、刀哉」
刀哉は黙って僕を見つめている。
「あれは僕のせいだ」
周囲の生徒はひそひそ話をしながら目線だけ僕たちに向けていた。しかし、一秒も経たずに興味を失って通り過ぎていく。
「僕が君の腕を折ったんだ」
「……俺はそうは思ってねぇけど、まぁ、仮にそうだとしようや。でもさ、終わったことだろ。今の俺には過去の怪我なんか関係ねぇ。また剣道ができるようになったんだから」
おまえと決着をつけるために。
刀哉は爛々と瞳を燃やして、慇懃な笑みを浮かべた。
「……、君にとっては、過去のことでも……」
僕にとっては、今、現在において、僕を蝕んでいるんだ。この罪悪感は拭えない。泥よりもしつこく僕の心にへばりつき、がんじがらめになってどこから手を付ければいいか分からない。
いいや、違うな。拭っちゃいけないんだ。
僕はこの罪悪感を罰として、十字架として背負い続けなければならない。
最も安全な武道と言われている剣道で、親友に一生を左右するかもしれないほどの大怪我を負わせた。
結果的に刀哉は再起できたかもしれないが、もしも次、また同じことが起きたら。
……そんな男が、どの面を提げてまた剣道をしろというのか。
「な、一緒の高校になったのもラッキーだ。剣道部に入って──」
「僕は剣道部に入らない」
「……あ?」
刀哉の目が、凍りついた。
「僕は剣道をしたくない」
拒絶。いや、乖離か。
この瞬間、僕と刀哉の心の距離が、埋めることのできない断崖によって隔てられた。
「……剣司、だから俺は」
「君がどうこうじゃないんだよ!」
伸ばされた刀哉の手を、弾いた。
「君の中では済んだ話かもしれないけど、僕にとってはそうじゃない! 君から剣を一度奪った! リハビリに時間を割いたせいで勉強が遅れたんだろ! 君は頭も良かった、もっと学力が上の高校だって狙えたはずだ! 僕は、君の将来を……可能性を……」
息が切れるまで叫び続ける。顔中に力が入る。たぶん、目が血走って顔も真っ赤になっているだろう。頭が痺れてきて上手く思考が回らない。
「怖いんだよ、剣道が」
感情が崩れ落ちるのは、一瞬だった。
「また誰かに怪我をさせるんじゃないかって」
声が湿ってきた。戦慄く口から不細工な感情が溢れ出す。
「まともに竹刀を構えられなくなってしまったんだ」
刀哉は弾かれた手のまま、黙って僕の醜い感情を聞いている。
「僕はもう、剣道をやらない。だから剣道部には入らない」
これが決別となることを願う。僕みたいな人間が、刀哉という太陽に近付いちゃいけない。陰でいい。誰からも目立たない、刀哉ですら照らせない場所で、僕は膝を抱え続ける。
それが、達桐 剣司という罪人にお似合いの姿だ。
「……じゃあね。君が剣道で活躍することを、祈ってるよ」
これは本心だ。売り言葉にしか聞こえないけれど、僕は本当に刀哉が全国大会に出て活躍することを祈ってる。
足枷も障害もなくなった刀哉は無敵だ。
長年一緒に剣道をしてきた僕が太鼓判を押す。
文字通り太陽のごとく天高く羽ばたこうとする刀哉を邪魔するワケにはいかない。
だからここで僕は去る。同じ高校に通うことは避けられないが、別々の世界で生きることはできる。お互いが干渉しなければいい──。
と、思っていたのに。
「おい、随分と無責任なこと言いやがるな」
眉間にしわを寄せた刀哉に胸倉を掴まれた。速い。中学の頃よりも圧倒的に。
そして、一瞬だけど掌が見えた。ボロボロだった。マメだらけの手。
刻まれた努力の跡が僕に反論を許さない。刀哉が重ねたのは腕のリハビリだけじゃないんだ。コイツは本当に、僕と決着をつけたいがためだけに。
「約束しただろ。全国を賭けて戦おうってよ。あの試合は約束の体現だった。でもクソみてーな事故で台無しになっちまった。俺はあんな結末じゃ納得いかねぇんだ。俺たちの約束じゃねぇのかよ。一方的に反故にすんなよ」
「小学校を卒業する時に君が押し付けてきたんだろ」
「じゃあおまえ、あの試合が楽しくなかったってのかよ。待ち遠しくなかったってのかよ」
「──……ッ」
「俺ァ最高にアガってた。トーナメント表におまえの名前を見た時。試合場を囲う白線の外側でおまえの姿を見た時! 俺は思った。ここが俺にとっての全日本選手権の決勝だってな。おまえはどうなんだよ、あぁ?」
「それ、は」
僕も、アガってた。
蹲踞をして、白線の内側で竹刀の切っ先を向け合った時。僕も思った。
ここが僕にとっての全国大会決勝戦なんだ、って。当然だ。だって、あの瞬間は紛れもなく、僕たちがいつも見ていた『夢』そのものだったから。
刀哉の腕を折った事実を背負うのならば、同時に、あの試合が楽しかったという心も背負い続けなければならないだろう。その事実からは、目を背けてはいけない。
「楽しかったんだろ。そうだよなぁ。剣には心が、魂が乗るんだ。噓偽りねぇ本質が乗る! おまえと交わした剣から伝わってきたぜ。やべぇ、半端ねぇ、楽しい! ってなぁ!」
言葉は違うけど、楽しかった。楽しかったよ。当たり前だろ。だけど、だからこそ──。
「だからこそ、辛いんだよ。僕はあの夢のような時間を壊したんだ。それと一緒に、僕の剣道も壊したんだ。一度壊れたらもう直らない。僕は……」
次に何を言おうとしたか、頭から吹っ飛んだ。
何故なら、刀哉がいきなり姿勢を低くし、肩を僕の腹に当てて、
「あー、もう、うるせぇ。しばらく会わなかったらなよなよしやがって──よっ」
一気に担ぎ上げた。視界がひっくり返る。「どわぁっ!」と裏返った悲鳴が出た。
「な、なにすんだよっ!」
「うるせぇ、いいから剣道場行くぞ! アイツも稽古してるだろうしな。その金魚の糞みてぇに歯切れ悪ィ気持ちも、剣道見ればちったぁ晴れるだろ!」
「アイツって誰……って走るな怖い怖い怖い!」
鍛え抜かれた身長一九〇センチメートルの巨躯は、運動をロクにせず痩せ細った男子高校生一人くらいなら余裕で担げるらしい。
刀哉の有無を言わさない力になす術なく、僕は剣道場へと連行された。