桜の隙間から花火のようにキラキラと瞬く日差しが目に毒だ。僕は春にしては暖かい空気の中、アスファルトの坂道を踏みしめて通学路を歩く。
微かに漂う日の匂いと一緒に、これから始まる新しい生活への期待で胸を膨らませる──なんて希望と夢に溢れた文句なんか聞きたくもない。
むしろ陰鬱だ。僕を嘲笑っているような気さえしてくる。周囲から聞こえてくるはしゃいだ声は、中学の頃からの同級生と同じ制服に身を包んではしゃいでいる女子の声だ。
ああ分かってる。そんなはずはない。彼女らが僕を見て馬鹿にしているだなんて、被害妄想もいいとこだ。
でも、ああやって何も心配事や悩みのないような姿を見せつけられると、ひどく陰鬱な気分になる。不愉快極まりない。思わず小さく舌を打ってしまった。
僕の肩には何もない。体の一部となっていたはずの竹刀は家に置いてきた。
まだ布の固い通学カバンの中身も空だ。軽い、はずなのに。さっきから隣を何度も新入生に追い抜かされていく。僕はこんなにも歩くのが遅かっただろうか?
亀のような遅さで歩いていると、坂の頂上にこれから僕が通う高校が見えてきた。
桜の坂道の先にある、太陽の光を一身に受ける学校──都立
東京の西側に位置するこの高校は、学力よりもスポーツ、運動に力を入れている高校である。偏差値は中の下と言ったところだが、運動部の実績は他の高校よりも優れている。
入学前に案内やパンフレットを見ていたが、まず運動部の棟というのがある時点で驚きだった。
その中には室内の運動施設が揃っており、柔道や剣道といった武道を始め、レスリング、体操、フェンシング、ボクシングと、あまり高校では見かけないような部まである。
レスリングの施設なんて初めて見たし、体操も吊り輪や鞍馬まで正式な競技用のも置いてあるらしい。
剣道部も、県でベスト8くらいにまで勝ち上がれるらしい。
「はぁ……」
うっかり剣道のことを考えてしまった。気分がまた落ち込んでいく。
「学校行きたくないな……」
とはいっても。どうやらこの足は止まってくれそうにない。頭では登校を拒否していても、身体は勝手に進んでしまう。
あーあ、どうして僕はこうも生真面目なんだろうか。自慢にもなりやしないが、稽古を休んだことはない。
風邪を引いても竹刀を振った。少しでもサボれば刀哉の背中を追うことになると、自分自身に発破をかけ続けたから。
だけど、そんな日々はもう終わった。これからどうしようか。剣道はやめた。適当にバイトでもして、ゲーセンでも行って、満喫でゆったりする日々でも過ごそうか。
うん、そうだ。それがいい。竹刀は先生から言われたから捨てようとは思わないが、もう僕の人生に剣道は関係ない。今まで充てていた剣道の時間を好きに使えるのだ。
中学時代は目を逸らしてきたアレやソレに目を向けるのもまた一興だろう。
「そうだなぁ、あわよくば彼女とかできたら──」
いいな、とか思った瞬間だった。
「──あれ? 剣司じゃんか」
背後から声がした。どこかしわがれたような、掠れたハスキーボイス。慣れてない人が聞いたら聞き取りづらいだろうが、残念ながら僕の耳はしっかりとその声を拾ってしまっていた。
何故なら、昔、嫌になるくらい聞いた声だからだ。
「……え、あ」
振り向きたくない。でも、体は、足は、首は。声を掛けてきた方向を見てしまう。
嫌でも目に入る。アイツの身長は一九〇センチメートルを超えている。周囲の新入生の中でも頭一つ、二つ飛びぬけて背が高い。
さらに額を露出させるような逆立った黒髪のせいで実際は二メートルくらいあるんじゃないかと錯覚する。アイツを視界に入れて、意識が引っ張られないことなどありえないのだ。
分かっていたはずだ。どれだけアイツから目を逸らそうと、
アイツは太陽みたいに強烈な存在感で、みんなの目を引き寄せる。
僕も──例外ではなかった。
「剣司、久しぶりじゃんかよ。連絡つかないから心配してたぜオイ! まさか一緒の学校になるとはなぁ! これでまた剣道できるな! ってか、髪伸びた? 前までデコとか見せてたのによ、イメチェンか?」
僕にとって目を逸らしたくなるような、太陽みたいな存在──霧崎 刀哉は馴染んだ相手に挨拶するように手を挙げた。
左、腕、で。
「──刀哉、腕」
全身の虚脱感を味わいつつも、なんとか最小限の言葉だけは絞り出した。
刀哉は「ん、ああ」と言いながら手を下ろす。いつだって人の目を惹きつける存在感から視野が広がった。肩口に目が行く。刀哉は黒い革製の竹刀袋を掛けていた。
何が入っているかなんて、言うまでもない。信じられないことに、刀哉は。
「まだ複雑な動きとかは難しいけどな。死ぬほどリハビリ頑張った。またおまえと剣道がしてぇからさ。あの決着も、流れちまったままだしよ」
あの事故から九か月で、再び剣道ができるまでに復活したのか。
拳を握り締め、力強く突き出してくる。その拳圧だけで僕はよろめいた。
「はは、おいおい大丈夫かよ? 俺が復活した喜びで足が震えちまったか?」
ラリアットじみた勢いで僕の肩に腕を回してきた。首が絞まる。
刀哉の発言一つが、行動一つが僕を責め立てているようだ。内臓を圧迫される。肝臓辺りがきゅ、と締め付けられる。目の前がチカチカしてくる。
「あんな不本意な決着、おまえだって望んでねぇだろ? だからさ、ぜってぇ復活してやるって毎日頑張ったんだ。ま、おかげで勉強の方は散々だったけどよ。内申が下がりまくって教師からすげー心配されちまってさ」
刀哉が何かを言っている。しかし、僕の頭にはちっとも入ってこない。
「でもどこ行ったって関係ねぇ。俺には剣道があればいい。そんでいつか、剣司とつけられなかった決着を──って思ってたらおまえいんだもん! 爆笑だよな! いい意味で!」
分かってる。きっと僕との再会を喜ぶ言葉を並べているんだろう。付き合いは長いんだ、それくらいは分かる。分かってしまうんだ。
コイツは絶対に僕を責め立てるようなことは言わないし、恨みを晴らすようなこともしてこない。あっけらかんとして僕の前に立ち、どんな辛いことがあっても持ち前の明るさで吹き飛ばす。
霧崎 刀哉とはそういう人間だ。
刀哉の辞書に絶望という二文字は存在しない。そんな言葉は、この男の放つ輝きの前では塵と化す。一切の穢れも負も許さない、純真無垢の太陽。
それこそが、刀哉という男なのだ。
しかし、その理不尽なまでの明るさが僕の傷をどこまでも抉り、
目を逸らしたくなるほどの輝きが、僕の罪悪感を蝕んでくる。
霧崎 刀哉は、無邪気に僕の心をすりつぶす。