「……ぐッ」
どぐん、と停止していた心臓が目覚めたように跳ね上がり、体を内側から震え上がらせる。
深呼吸から息を止めるように動いていた肺も、喘ぐように空気を欲する。
ひゅ、という喉を掻き毟るような音と共に気管を干上がらせていった。
ぶわ、と体の汗腺という汗腺から冷たい、ぞっとするような汗が噴き出す。
視界が歪むような錯覚を覚える。
今この場で自分が両足を付いているのは床だ、間違いない……はずなのに、なぜこうも蛇が這いずるように蠢いているのだろうか。
その歪んでいるように見える床から転げ落ちないよう、強く全身に力が籠る。肩に異様な力みを感じ、握力も最大の力で発揮されている。
「──……司、……け……くん!」
何か声が聞こえる、先生? 目の前にいる人物から、どこか必死な声が聞こえてくる。
歪んだ視界の中で、何とかその人物を認識しようとした瞬間、
「──、あ」
僕の目の前に、いるはずのないソイツが立ってやがる。
ソイツは剣道の道具を一式、身に付けている。
中に道着を着込み、今まさに僕に向かって襲い掛かろうとしている。
しかし、問題はそこではない。
いるはずのない人間が見える錯覚が問題なのではない。
何故かソイツは、右腕一本でしか竹刀を握っていないのだ。
剣道は両腕で竹刀を構えなければ、有効打突を取るのは難しい。
そんなこと、剣道をやっていれば誰でも知っていることのはずだ。
なら何故ソイツは、右腕一本でしか竹刀を握っていないのか。
理由など、初めてこの幻想を見た時から分かっていた。
ソイツは左腕を構えに使わないのではない。
ソイツは左腕を動かすことができないからだ。
面の奥にはぐしゃり、と激痛に歪んだ顔が張り付いている。
ソイツは言う。血涙を流しながら、手を伸ばすように。
──よくも、よくも、許さない……呪ってやる……死ぬまで、壊れるまで……、
がくり、と体に力を入れ続けているはずなのに、スイッチが切れたかのように崩れ落ちる。
膝が笑ってしまって全く言うことを聞かない。
目の高さがソイツの腰の位置になる。
見えてしまう。見てしまう。
ソイツの腰に巻かれている垂れネーム、名前を──。
「──剣司くん!」
バシン! と背中を叩かれて僕は意識を取り戻した。
「…………あ……刀、」
「違います。私です。先生です。よく見て。私ですよ」
先生の声が脳裏に響くのと同時に、今まで歪んでいた視界が急速に形を正しく戻していく。
少しずつ、だけど確実に、自分の視界の中に必死な形相を浮かべる先生が映る。
「先、生……」
「大丈夫、ですか?」
先生が僕の頭を抱えていた。息が荒い。
そこまで懸命に僕を想ってくれていたのか。
嬉しい──同時に、申し訳なさが目から溢れそうになる。
震える腕で床を押し、正座をする。先生も合わせて姿勢を正した。
「……ずっと、こうなんです。竹刀を構えようとすると、こうやって……」
桜先生は黙って聞いていた。
「先生、僕はあなたに憧れています」
僕が剣道を始めたきっかけは、この人の高校時代の試合だった。
新聞にも取り上げられるほどの強さだということで、井戸端会議の話題になっていたのだ。
「あなたの剣道を真似したくて、ずっとやってきました」
──ある日のことだった。近所でこの人が試合をするということで家族揃って見に行ったことがある。
その時に見た桜先生の剣道は、対戦相手どころか小学一年生だった僕の心すら叩き割った。
足を捌けば風のごとく。打突が炸裂すれば雷のごとく。
文字通り疾風迅雷を体現していたこの人の剣に、僕はすっかり虜になってしまった。
試合が終わった後、僕は親の手を放し、一目散に桜先生へ突撃した。
僕に剣道を教えてください。
「中でも、あなたが全国を決めた面打ちは、今でも目に焼き付いてる……」
剣道に完璧は存在しない──桜先生の言葉だ。
常に自分が未熟であることを肝に銘じて、日々稽古を繰り返すべし。
かつて全国大会に出場したこの人ですら、まだまだ強さを探求し続けている。
「あなたに追いつきたかった。認められたかった」
しかし、僕は、もう。
「でも、もう、ダメです……剣を構えられない。打突ができない。僕の剣は、死んだんです」
黙って話を聞いていた桜先生が、そこでようやく口を開いた。
「なるほど、よく分かりました。確かにこんな様子では剣道を続けることは難しいですね」
「はい、だから──」
僕は竹刀を持ってきたんだ。
熱心な努力家の証じゃない。
僕が今日限りで剣道をやめるという意思表示だ。
だけど、ゴミ箱に無造作に放り込むのも心が痛い。
でも、だからと言ってずっと視界の中に置いておくのも辛い。
血と汗と涙が藍染と一緒に染み込んだ柄を見る度に涙がこみあげてくる。
まだ戦えると竹刀が訴えてくるのだ。これ以上苦しいことはない。
「僕の竹刀、これからの入門生たちにも役立つでしょう……こんな形でしか誠意を示せないのが心苦しいですが、どうかお納めください。将来の有望な剣士のために、使ってください」
吐き出した思いを受けた先生は、しばらく微動だにしなかった。
猫のように大きく開かれている目は、数度の瞬きを繰り返すだけで、何も語ろうとはしない。
先生の目をまっすぐ見ることができず、項垂れてしまう。
そのまま、沈黙が首の後ろにのしかかった。
壁に掛けられている大きな振り子時計の音だけがやけに大きく木霊している。
もう無理だ。耐えられない。我慢の限界が押し寄せてきた。
「桜先生──」
顔を上げた瞬間だった。
「お断りします」
まるで待っていたと言わんばかりに、先生は僕の言葉を遮った。
まさに剣道で言う出ばな技──相手が動く瞬間を突く剣道の技の一種──を受けた気分だった。
「どう、して、ですか」
上手く舌が回らない。それでも、なんとか疑問だけは絞り出した。
「剣道、ってよく言った言葉ですよね。剣術でも、剣技でもなく、『道』。つまりそれは……曲がりくねってもいいということを表していると、私は思っています」
剣道。それは剣を通じて歩む道と書く。
その道に終着点はない。もしも終わりがあるとするのなら、それは自分の死だ。
生き続けている限り、剣の道から外れない限り、この道は続くのだろう。
僕と刀哉、そして先生が同じ道を歩んでいるかは分からない。
剣道という括りの中でも、きっと道の歩き方は変わってくるのだろう。
道である以上、まっすぐとは限らない。カーブしているかもしれないし、実は遠回りしているかもしれない。後戻りだってありえる。
だが、それらをまとめて剣の道だと、自分たちがやっていることはスポーツではなく、道の上を歩いているのだと、先生はきっとそういう風に言いたいのかもしれない。
「だから剣司君」
先生の声は、どこまでも優しかった。
自分の頸動脈を切ろうとする僕の手を、そっと止めるように。
「剣道をやめてもいい。剣道に触れること自体が辛くなるのなら、きっぱり辞めるのも一つの選択よ。間違った判断だとは思わないし、誰かに責められるようなことでもない」
それは間違いなく本心だろう。先生は、本気で僕が剣道を辞めると言っても受け入れる準備ができている。
この人の中で、剣道というものは道であることと理解しているからだ。
そしてその道は、決して誰かによって進退を決めるものではないということも。
続けるのも、辞めるのも、全ては自分で決めればいい。
「でもね、竹刀は……それだけはずっと持っておきなさい。剣道を完全に辞めるとしても、捨てることは許さないわ」
「──」
「竹刀はあなたの刀。即ち魂。たとえ剣道を完全に辞めて道から降りたとしても……魂だけはなくしちゃダメ。それが、あなたの竹刀の寄付を断る理由です」
「……分かりました」
先生にそういわれたら従うしかない。
僕は無造作に転がる自分の竹刀に手を伸ばす。
──重い。
竹刀とは、これほどまでに重たかっただろうか。
それでも、先生が言うのだから僕は背負い続けなければならない。
刀哉を、親友を傷付けた道具を。
僕にとってこの竹刀は、罪人が背負う十字架だった。
ああ、先生。それは僕に相応しい罰です。
爪を剥がされるよりも、水で責められるよりも、火で炙られるよりも。
僕の心に深く強く、痛みが刻まれ続けるのです。