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二本目:半年後

「剣道は続けたいけど、誰かに構えるとトラウマが邪魔をするから一度辞めたい、か……」


 ここは言うならば応接室。足を運びやってきた客人を招いて、もてなすために用意された大広間だ。客人の目に優しい、落ち着いた印象を抱かせる色彩の空間。


 黒く丸いテーブルを挟んで、少なくとも三人は余裕で座れると思われる大きな焦げ茶色のソファに、僕と先生は向き合って座っていた。


「……すみません、さくら先生。あの試合以来、誰かに向かって竹刀を構えるというのがどうにも怖くなってしまって。一人稽古くらいならまだできるんですけど」


 覇気のない声。毎日多忙な業務に追われて疲弊した大人みたいに萎んでいた。

 顔を上げて先生の瞳を見る。周囲を見渡しても、他には誰もいない。


 さっきの生気を失った声は、どうやら僕の声らしい。

 横の鑑に顔が映る。ぎょっとした。僕はこんなにもやつれた顔をしていただろうか。


 同年代の中では大人びていると言われたこともあったけど、これはもはや病んでいる。


 漆黒の瞳に力がない。覇気がない。そんな陰を露わにする男が、かつて全国大会に出ても上位に食い込むのではと噂された剣士だなんて誰が聞いても信じられないだろうな。


「剣道に事故や怪我はつきもの……といって、流せるような事故でもなかったですしね」


 そう言って、僕の眼前にいる先生は悲しむように目を伏せる。

 十代半ばのような外見の印象を抱くが、実際のところはしっかり四年制の大学を出て、教員免許を取得し、正式な教師として高校に赴任している立派な大人である。


 名前は黒神くろかみ さくら。段位は四段。僕の剣道の先生だ。

 刀哉は小学生まで僕と一緒にこの人から指導を受けていた。


 赤に近いブラウンのロングヘアー。それをハーフアップで纏めている。

 それだけを見ると大人の印象を抱く。しかし、先生の外見に若々しいイメージを持つのは相貌のせいだ。


 若い。顔のパーツ一つ一つが幼い印象をもたらしている。

 花が開くようにはっきりとした睫毛と瞳。先生の目に射抜かれたものは、良くも悪くも有無を言わさぬ眼力に息を呑む。


 しかし、この場においてそれは僕を責め立てるようなものではなく、むしろ抱擁するような、凛々しい優しさを想起させていた。


 そんな先生が師範を勤める道場がここ、黒神道場だ。

 時間にして三月二十六日、土曜日の午後一時。


 土日は黒神道場において剣道教室が開かれる。


 しかし、先生自身は高校で教師をしているため、部活の顧問──剣道部である──の仕事でたまに剣道教室に顔を出せない日がある。


 この日先生が道場にいるのは、事前に僕が面会の日程を調整していたからだ。


「私もあの試合は見ていました。だけどあれは……決してあなたに全責任があるというわけではありません。それは断言できます」


 都大会ベスト16。僕と刀哉が戦った舞台だ。


 あの事故の結果、刀哉は負傷により棄権。僕の勝利で幕を閉じた。

 しかし、あれほどの事故だ。


 最悪の形で駒を進めてしまった僕がまともにベスト8の戦いに臨めるはずもなかった。むしろ拷問に近かった。


 会場から立ち去れるのなら立ち去って今すぐ消えてしまいたいと、どれだけ強く思ったか。


 しかし、残酷にも試合は進んだ。凄惨な事故ではあったものの、大会自体を中止にするほどの規模ではないと判断され、会場中に爪痕を残したまま都大会は進んだのだ。



 周囲の選手も、大きな戸惑いを隠せなかったと思う。

 あの血だまりを見てしまった者たちは剣を鈍らせ、大会自体、あまりにも後味の悪い空気の中での幕切れとなった。


 僕が勝てるはずなかった。半ば同情されるような雰囲気の中、何もできずに二本を取られて呆気なく敗退となり、中学最後の大会は終わった。


「でも、結果は結果ですよ桜先生……僕は、刀哉の腕を折ったんだ」


 肘から先の前腕部には二本の骨──橈骨とうこつ尺骨しゃっこつ──があり、両方共に複雑骨折だった。


 その影響で肘の靭帯が断裂。最悪、骨が治っても動かなくなるかもしれないとまで言われた。


 病院に担ぎ込まれた刀哉はすぐに手術を受けることになった。

 ベスト8の試合に負けた僕は未だに精神的ショックから立ち直れないまま、先生と共に病院へ向かった。


 十時間以上の大手術となったが、何とか成功。

 最悪の事態は回避したと聞いた時、緊張が解け、僕はその場に崩れ落ちそうになった。


 だが、続けて発せられた医者からの言葉が、安堵だといった僕の心を叩き落とした。


 ──ですが、もう剣道をすることは難しいでしょう。


「あの日に戦った刀哉はもういない」


 親友を奪った。かつて競い合っていた友の剣を折ってしまった。

 そんな人の一生を左右する規模の事態を背負うことなど、未だ十四、五歳の子どもにできるワケがない。


「誰かに向かって構えを取るたびに、フラッシュバックするんです」


 あの日が、時間が、場所が、試合が、顛末が、血が、悲鳴が、

 そして……激痛と苦痛に顔を歪めている親友の姿が。


「すると、ダメなんです……まともに、足を動かすこともできなくなる」


 もう誰かと稽古をすることすら叶わないと、僕は自分の身に起きている異常を伝える。

 視界の端に、血のように赤い袋が映った。長い。竹刀を納める専用の袋だ。

 中には、僕が長年愛用してきた竹刀が入っている。手を伸ばし、取り出した。


「先生、構えてくれませんか?」


 言ったとたん、先生はぎょっと目を見開いた。


「……竹刀を?」

「はい。実際に、見てもらった方が早いので……」


 先生はあまり気が進まない様子だったが、何度も頭を下げる僕に観念して、躊躇いながらも竹刀を手に取った。ありがたい。これで僕は、剣道を──。


「いきます」


 先生が頷くのを確認してから、僕は中段の構えの準備をする。それに合わせて、先生は少し迷いながらも中段に構えてくれる。


 先生の構えは綺麗だ。まさしく教科書に載っているような理想的な構えだ。その構えだけで熟練した使い手だったことは容易に分かる。


 この人に最期を看取られるなら、未練なんてありはしない。

 心臓は驚くほど落ち着いている。停まったように凪いでいる。


 棘の鎧を脱ぎ去ったみたいだ。知らなかった。全てを諦め、縋る必要もなくなった今なら、ここまで未練を断ち切ることに迷いはなくなるのか。今なら、自分の腹だってかっ捌けそうだ。


 スゥ、と再び深呼吸をし、ゆっくりと目を開けていく。


 自分の足元、フローリングの床、下の視界から順番に認識できるようになっていき、次に先生の足元、そして竹刀。最後に構えそのものを見──、



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