ハールヴァルドが砦に戻ってきたのは、空から雪が降り始めた頃だった。
鼻の頭と頬を真っ赤にしたハールヴァルドは両手にたくさんの日用品を抱えて徒歩で戻ってきて、行きに使ったような馬車の姿はまったく見えない。
シンゴを見守っていたヴァレリアが扉を開いた瞬間に入り込んできた風は身を刺すように冷たかったのに、まだ熱のある身でこの寒さの中を歩いてきたのだろうかと呆然としてしまう。
「シンゴ、シンゴ見てくれ。お前が着れそうな服を買ってきたぞ」
しかも、両手いっぱいに買ってきたものはシンゴの服だとか下着だとかの日用品だったのだ。持ちにくそうな紙袋いっぱいに入っていたソレをデスクの上に広げてみれば、地球で着ていた衣服との相違があまりなさそうなのにも驚いてしまう。
ハールヴァルドが言うには「この世界に暮らしている異世界人が同じ異世界人のために作り始めた服」らしいが、そんなオーダーメイドに近い服一体いくらしたのだろうかと心配になってしまうほどの量だ。
思わず呆然と服を眺めていると、ハールヴァルドは雪で濡れたマントを暖炉の前でバサバサとさせながら不思議そうに、
「これから寒いだろうし、必要だろ? まぁサイズはわかんなかったから適当に選んじまったが」
「殿下、自分の服は買ってこなかったんですかぁ?」
「明日お前が研究所から持ってきてくれりゃ十分だ」
「それでも少ないじゃないですかぁ」
ヴァレリアとハールヴァルドは親しげだが、その会話内容からつい彼女から聞いたハールヴァルドの立場を思い返してしまう。
王宮から研究所へと居を移したという彼自身、あまり自分の物は持っていないんじゃないだろうか。それだというのに、シンゴが使うだろうというだけでこんなにも色々用意してくれるだなんて。
自分が彼にした事を思い返すとこんなに優しくしてもらえる立場でもないような気がして胸が苦しくなるが、しかしシンゴが受けた仕打ちだってそう軽いものではないのだと己に言い聞かせる。
何より、ハールヴァルドの言う事に間違いはない。これから先どんどん寒くなるだろうにこの石造りの砦の暖房器具は部屋にある暖炉だけだ。
暖炉は確かに温かいし、一度熱を吸った石はそんなにすぐには冷えないので火が絶えない限りは大丈夫だろうと思うけれど、厚手の服があるに越したことはない。
それも、元の世界の服とそう違いがない出来であるのなら、シンゴにとっては嬉しいばかりだ。
それでもなんとなく複雑な気持ちで服を眺めていたシンゴは、ふと手に取った服が他のものよりもいくらかサイズの大きな物であることに気がついた。
見てみればハールヴァルドが購入してきた服にはいくつかのサイズがあって、あちらの世界と同じようにうなじの部分についているタグにはMからLLまでのサイズの記入がされていた。
サイズがよくわからなかった、と言うだけあって、とりあえずシンゴが着られそうなものを適当に選んだのだなと理解して、一先ず中間のLサイズの服を胸元に当ててサイズを確認してみる。
シンゴは元の世界では運動が得意な方のタイプで筋肉はほどほどについている方だったのだが、コチラに来てやはり体重はかなり落ちてしまっているようだと、そこで気付いた。
今までの境遇から考えるとそれは当然だが、身体中に巻いている包帯のことを考えれば一番小さいMサイズを着るのは無謀だろう。
そう考えつつとりあえずサイズ別に服をよりわけて、几帳面にサイズを確認しているシンゴの事を背後から覗き込んでみていたハールヴァルドにLLサイズの服をぐいっと押し付けてみる。
ハールヴァルドは細身だが、身長はある。身体もシンゴよりは当然大人の身体だし、人種の違いなのか細身でも貧弱という感じがしない体格だ。
だからまぁ、着るとすれば……多分この辺。
「なんだ? 俺が着てもいいって?」
「…………」
「えー、殿下似合うんじゃないですかぁ?」
一応、真っ直ぐ姿勢を正したハールヴァルドの両肩に服の両肩を当ててサイズを確かめてみる。
と、LLでは肩幅は大きいようだが手の長さなんかはMやLよりもコチラの方が合っているように思えた。物によってはシンゴと同じサイズのものも着られるだろうが、ボトムスなんかは裾が足りなさそうにも見える。
となれば、大は小を兼ねるしかない。シンゴが着ても今はダボダボだろうし、それならば着れる人が着るのが一番だろう。
そう判断したシンゴは、LLサイズの服をまとめてハールヴァルドの胸に押し付けた。
異世界のデザインの衣服は、この世界の人間には合うかどうかはわからない。それでも、やっぱり、寒いよりはずっといい、はずだ。
「はは、ありがとな。シンゴ」
服を受け取って胸元に合わせながら、ハールヴァルドが笑う。
珍しい顔だった。この世界に来てから彼からは色々と声をかけてもらったが、こんな風に目を細めて笑っている顔を見たことはない。
今までシンゴのやらかしでベッドに臥せっていたのだから当然と言えば当然だが、彼の笑顔はなんだか胸をムズムズとさせる笑顔だった。
黒に似た藍色っぽくも見える髪で細身で背が高く、目尻がつり上がっているように見えるが笑うと優しげに見える王族の青年。
そんなゲームの住人みたいな存在は当然今までの人生の中でシンゴが絡むような存在ではなかったし、今後も日本で暮らしているのならば一生関わる事はないだろう人種だ。
だが――俺、この人としちゃったんだよなぁ……
思わず額にビターンと手を当てながら過去を思い出すと、思ったよりも大きく鳴った額の音に驚いたハールヴァルドが慌てて近付いてきた。
手足が長くて、少し下唇が厚めで、目の色は良く見れば紫がかった青のようにも見える。肌は今でこそ寒さで白くなっているが、あの時は肩まで真っ赤にして震えていたのだっけ……と、思い出さなくていいことを何故かジワジワと思い出していたシンゴは、しかしふと冷静になった頭を上げてハールヴァルドを見た。
「ど、どうした? 頭でも痛いか?」
ハールヴァルドの首元。そこには、一見チョーカーに見えなくもない黒い帯状の何かが巻かれていた。
あの時、怒りと苦しみと悲しみで頭がいっぱいになっていたシンゴはどうしてかそれが酷く気になって、腹が立って、うなじだとか背中にめちゃくちゃに噛みついた記憶がある。
噛んだ瞬間の肌の柔らかさを一瞬思い出しそうになって、もう一度顔にビターンと手を当てて邪念を吹き飛ばす。
あの行為は、ハールヴァルドが問題にしなかったから誰にも咎められなかっただけで元の世界では十分性犯罪だ。
それも、ただこの世界の住人というだけであのクソ貴族とは関係のないハールヴァルドにぶつけていい感情でもなかった。それは分かっているし理解もしているが、言葉が出てこないせいでイマイチ素直になる事が出来ない。
自分は悪くない! とまでは言わないけれども。
言わないけれども……!
「殿下ぁ、服濡れてるじゃないですかぁ。折角シンゴが服くれたし、着替えたらどうですかぁ?」
「あー、そうすっか。着心地も気になるんだよな、あっちの服」
「布はこっちのでしょー?」
「いやこれ、作ってる異世界人が布からこだわったらしいんだよな」
自分の顔をビンタしまくるシンゴに触れてはいけない何かを感じたのか、ヴァレリアがぱぱっと服をいくつか選んでハールヴァルドに差し出す。
ナイスフォローだ。今のシンゴは、声を出せる出せない以前に冷静な顔でハールヴァルドを見る事が出来ないから、是非ワンクッション置いて頂きたい。
そんな事を思いつつまた服に視線を落として「あ、これならMサイズでも自分も着れるかな」なんて少し意識がソレた、その瞬間。
ヴァレリアが居るというのに一切気にしていない様子で着ていた服を脱ぎ捨てたハールヴァルドの背中が、ハッキリと見えてしまった。
着痩せするのか思ったよりも細い腰のあたりに青あざとして残ってしまっている、ハールヴァルドのものではない手の跡。
手首や二の腕にある、強く握られたと思われる指の跡。
自分がつけたのだろう背中に散る沢山の歯型は――チョーカーを挟むようにしてうなじにもくっきりと残ってわずかに血を滲ませている。
その有り様は凄惨と言うにも相応しい有り様で、シンゴは今度は服を胸に抱き込んだまま思い切りデスクに額を叩きつけた。
「シンゴ!?」
「ちょ、何してんのぉ? ダイジョブ!?」
デスクに額が着弾した瞬間の音のデカさと言ったら、服をきちんと着ていないハールヴァルドが慌てて駆け寄ってくるくらいの大きさで。
お陰様で前も締めずにこちらに身体を向けた彼の胸元だったり首筋だったり心臓の上だったり……そういった所に残っている歯型や吸い付いたのだろう赤い腫れのようなものがハッキリと見えてしまって、シンゴは今度は仰け反って後頭部をソファの角に思いきりぶつけてしまう。
自分はノンケだったはずだし、何より彼の身体に残っているのは「情交の痕」ではなく「被害の痕跡」だ。
だというのに本人が隠しもセずにケロッとしているせいでどうにもそうは思えなくて、思わせてもらえなくて、シンゴは彼の買ってきてくれた服を胸に抱えながら一人、形容し難い感情に悶え苦しんだ。