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第5話 Abstand

 翌日。ようやく起き上がる事が出来るようになったハールヴァルドは、それでもベッドから出る事を許されずに退屈を持て余していた。

 身体はまだ痛むが痛いだけだし、骨が折れているわけでもない。顔だとか背中だとかはまだヒリヒリするが、それだけだ。その程度の怪我なら日常生活でもいくらでも負う可能性があるから今更困るほどのものでもない。

 しかし寝続けているのもいい加減腰が痛くなってのそのそと起きていくと、あの異世界人に容赦なくベッドに押し戻されるので出歩くことも出来ない。

 風呂に入りたいと言うとヴァレリアが湯とタオルだけ持ってきてくれたがそれだけで、お湯を返す時にも取りに来たのはあの異世界人だった。

 どうやらあの異世界人は自分を部屋の外に出すつもりはないらしく食事も彼が部屋に持ってきてくれたし、身体を拭く時にもわざわざ背中を拭きに来てくれたので、少しばかり混乱してしまったほどだ。

 背中を拭いてくれる時の手はとても優しくて、あの日に自分に乱暴を働いた人間と同一人物とはとても思えない……なんて言ってしまってはいけないのだろうが、ついそんな事を考えてしまう。

 ハールヴァルドとしては、別にされた事だとかその扱いに今更怒ったりはしていない。過ぎた事だ。

 今の自分に対する扱いを見ていると彼もとても反省しているようだし、何よりこの異世界人はもっと怒ってもいいとハールヴァルドは思っている。

 今まで彼が受けていた仕打ちを知らなかった自分はもっと怒られていいと思うし、なんならボコボコにされたって仕方がないんじゃないだろうかとも思うのだ。

 王宮からは出てしまったが一応血筋としてはこの国の王族の一員であるハールヴァルドは、自国の貴族のやらかしに対して彼に謝罪をしなければいけない立場だ。

 いやいやもっとちゃんと国王とかが直々に謝罪をしなければいけないんじゃ? なんて思わなくもないが、この国の王族は頭の硬い連中ばかりなので「王が異世界人に頭を下げるなんて」と言って絶対に謝りはしないだろう。

 【世界の大穴アブグルント】が空に出現してもう100年ばかりが経過すると言うが、未だに異世界人に対する偏見は根深い。

 この国においては、様々な国で連携しあって異世界人を保護する動きにならなければ絶対に異世界人を保護しようなんて話にはならなかっただろう。

 むしろ、彼らの【神のいたずらガーベ】を都合よく使って他の国に戦争を仕掛けたりしていてもおかしくはない。

 ハールヴァルドはそんな国が嫌で嫌で仕方がなくて【世界の大穴アブグルント】の研究を始めたというのに、少しも改善の兆しは見られない。

 まだまだ実績を出すことが出来ていないというのもあるが、【世界の大穴アブグルント】の研究なんてした所で大した意味はないだろうと思われているのだ。

 まったく、嫌な国だ。改めてそう思う。

 今のところは大丈夫なようだが、もしもあの異世界人がハールヴァルドにやらかした事が騎士たちに知れれば国王たちはこれ幸いと異世界人の排斥に動いていたかもしれない。

 普段は王族扱いなんかしやしないくせに、こういう時だけ都合よく自分を使ってくる連中だ。出来れば一生、知られたくない。

 これはハールヴァルドの恥だとかそういう問題ではない。あの異世界人を守るためには知られてはいけない事はたくさんあるのだ。

「んっ?」

 己の膝を抱え込んで悶々としていると、コンコンとドアをノックする音がしてハールヴァルドは顔を上げた。

 ドアは開けっ放しにされているのにわざわざノックをするという事は、この部屋に来たのは彼だ。

「やぁ、シンゴ。食事を持ってきてくれたのか?」

「…………」

 異世界人シンゴ・サギリは、まだこちらと会話をする気がないのか、それともこれまでの生活で喉を痛めてしまったのか、未だに声を発することはない。

 部屋に入ってくる時は開かれたままの扉をわざわざ叩いて音を出して、眠っている時にはあえてハールヴァルドを起こしたりなんかもしない。

 無言で差し出される食事だとか飲み物だとかに最初はなんとなく気まずい思いをしたものだったが、ここに泊まり込んでくれているヴァレリアや他の研究員たちが「文字を書いてコミュニケーションを取ろうとしている」と教えてくれたので、今ではそこまで気負ったりはしていない。

 話したくなったら話してくれるだろう。

 今はまだ、その時じゃないだけだ。

 そう思いながら、差し出されたトレーを受け取る。

 今日の食事はクタクタになるまで煮込まれたパンのシチューのようだ。

 もうそろそろしっかりした物を食べたいな、などと思わないでもないが、シンゴが睨みつけるようにこちらを伺っているので黙ってスプーンを手に取る。

 体温はまだ少し、平常時より高めだ。一晩床に転がっていたのが悪かったのかそれとも別の理由なのかはわからないが、一度出た熱がどうにも下がってくれなくて厄介だ。

 もっと彷徨くことが出来るようになればシンゴと交流も出来るだろうにと、残念な気持ちになる。


「ハールヴァルド殿下。国王陛下がお呼びです」


 しかし、穏やかな沈黙は唐突に破られた。

 乱暴に開かれる扉の音と、ドカドカとやかましく床を踏みつける軍靴の音。反射的にだろうか、立ち上がって身構えたシンゴの袖を引いて再び椅子に座らせたのとほぼ同時に全身を鎧で固めた騎士がノックもなしに部屋に入ってきた。

 あれは、近衛騎士団の甲冑だ。国王直下の騎士たちで、国王の命令を絶対とする者共。

「今すぐか?」

「国王陛下がお呼びです」

「……はぁ」

 この連中はハールヴァルドと会話をする気がないのか、今まで一度もまともに話ができた事がない。

 大体いつも国王が呼んでいるだとか、国王の命令だとかでハールヴァルドを王宮に連れて行ったりハールヴァルドの研究成果を勝手に持ち出したり、いい思い出なんかは少しもなかった。

 恐らく今回はシンゴの事が聞きたいのだろう。

 きっと、彼の血液から作れる魔石の事か、彼に利用価値があるかどうか、か。

 ハールヴァルドはまだ数口しか食べていないシチューのトレーをシンゴに返すとのそのそと起き上がった。

 驚いた顔のシンゴがこちらを見上げてくるが、「大丈夫」と身振りをするだけで黙っていてくれたのは有難かった。

 もしここで彼が騎士と喧嘩なんかしてしまったら、国王からの心象が悪くなるに決まっている。

「先に馬車に居てくれ。着替えたらすぐに行く」

「いいでしょう」

 何が「いいでしょう」だ。曲がりなりにも王子にする態度かそれは。

 心の中でそう思いつつ、出ていく騎士を見送ってから少しばかりヨロつく足でこの部屋に来る時に持ってきたバッグに入っているだろう着替えを取りに行く。

 シンゴもトレーを持ったまま後ろについてきたが、彼はまだ声を発する事はない。何か言いたげな顔をしていたが、それだけだ。

 もしシンゴが止めたとしても行くしかないのだからどうしようもないが、彼の本心はどこにあるのだろうか。

 何か言ってくれなければわからない。そうは思うが、自分たちはまだ親しく話すような関係性でもないのでどうにも声をかけるのも憚られた。

 もしかして、気にしていないと言いつつもあの日の事を自分も気にしているのだろうかと、ぼんやりと考える。

 怖いとか? それとも警戒をしているのか?

 そう考えてみて、しかしすぐに「有り得ない」と自分で自分の考えを否定する。

 強いて言えば「罪悪感」だ。まだ若いだろうこの青年にあんな暴力を震わせたこの国での境遇を、あんな事をさせてしまった上に気にかけさせている自分の有り様に、申し訳無さが立っているのだ。

 しかも今も、なんだか彼はめちゃくちゃ難しい顔をしている。シチューを睨みつけている彼はもしかして「残すな」と言いたいのだろうか。いやそれはそう。申し訳ない。

 そうは思いつつも、急いで国王の前に出てもおかしくない服を着込んでいく。重くて分厚い布が肌に触れると、やけに冷たく感じた。

「えぇと、シンゴ。食事、残して悪いな」

「…………」

「すぐ戻るつもりだが……鍵をかけて、研究所員って言う連中以外は入れない方がいい。あと、今日はまだ包帯変えてなかったよな? 誰か来たら、やってもらってくれ」

「…………」

「えーと……」

 シンゴは、答えない。

 トレーを持ったまま、ただジーッとハールヴァルドを見つめているだけだ。

 なんとなく気まずくて、不要な時にはペラペラ動く舌が何故か上手く回ってくれないのがもどかしくって、ハールヴァルドはちょっとばかり不自然な笑顔を作った。口角を上げただけのような気もするが、顔の半分にガーゼを当てている今はそれが限界だ。


「いってきます。あったかくして、ゆっくり休んでてくれよ」


 もしかしたらもうすぐ雪が降るかもしれないから。

 そう言い残して部屋を出ると、待ちくたびれたのか騎士たちがすぐにハールヴァルドを囲い込んだ。

 騎士たちに変なことをされなければ良いと思いながら急いで扉を閉めたハールヴァルドは騎士たちに痛む背を時折つつかれながら、振り返る事も許されずに押し込まれるように馬車に乗り込んだ。

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