※本編中に暴行を想起させる描写があります。苦手な方はご注意下さい。
「殿下! ハールヴァルド殿下! 国王陛下がお呼びですっ」
「あぁ?」
バタバタとやかましく走ってくる研究員以外の臣下の声に、殿下と呼ばれた男は胡乱げに顔を上げた。
眼の前には机についた肘ほどの高さまでに積み上がった研究所も書類も満載だが、仕方なく適当に床に置いたり部下に押し付けたりで何とか場所を確保する。
以前同じように「王の遣い」としてやってきた宰相に「これが王子の執務室の姿か」とさんざっぱら叱られたものだから、少しくらいのスペースを作るくらいはしないとまたうるさそうだ。
まぁ、執務室は実質紙の海なので机の上から物を無くしたくらいでは焼け石に水だろうが。
「入れ」
「失礼しますっ! こちら、国王陛下からの招集令状であります!」
「ご苦労さん」
しかし今回の家臣はそんな執務室の様子には目もくれず、何故か汗だくのままハールヴァルドに召集令状だとかいう手紙を差し出す。
封蝋には王の紋章。王家の紋章ではないという事は国王直々の令状なのだろうという事は嫌でもわかってしまって、ハールヴァルドはため息を吐きつつナイフで封を切った。
その中身を見た時にはこんな風になるだなんて思ってもいなかったし、当然ながら想像だってしていなかった。
消毒液と血液の匂いが充満している部屋で、床に押し付けられたまま身体のどこが痛いのかももう分からずにただうめき声をあげる、屈辱。
いや、屈辱なのだろうか。もうわからない。
顔面を硬い石の床に叩きつけられたせいで鼻血が出ているのがわかるし、ずっと頭を押し付けている手は重く力強く、石とその手の間に挟まれた頭に血が溜まって眼の前がぐるぐると回っている。
そんな状態で下から突き上げるように動かれても、上手いこと声も出ずに掠れた息しか最早吐き出す事は出来なかった。
国王からの勅命は、【
【
この世界のどこかにある神が戯れで作った別の世界と繋がっているそこからは、よく別の世界の人間が落ちてきた。
大穴の近くに倒れている事もあればこちらの世界とはまるで違う格好をしているせいで人目を引いて発見されることも多く、その頻度は一年で一人居るか居ないかというくらいで。
だがそういう人間は大体にして【
【
特に【
ハールヴァルドはその当時の記録を見るだに呆れが勝ってしまって、その上で誰も大穴をどうにもしようとしないのが不思議で、違和感で、齢10の頃からその研究に没頭してきた。
その結果が、コレだというのか。
内臓を擦り上げられ、衝撃と痛みで呼吸が上手くいかない。酸素が吸えなければ人間の頭はあっさりと思考を放棄していき、それは聡明と名高いハールヴァルドの脳ですら例外ではなかった。
「はぁっ……はぁっ……っ!」
「う、ぐっ……」
今ハールヴァルドの背に爪を立てている男は、【
ほんの数日前に戦時中でもあるまいに多数の武具を隠し持っている事から憲兵たちが乗り込んだ、地方貴族の屋敷の地下に囚われていた異世界の人間。
身体のあちこちを包帯で巻かれ、部屋の隅で膝を抱えて憲兵たちを睨みつけていたというこの若者は屋敷から救助されてからも誰も自分に近付けず、近付こうものなら噛みつく勢いで威嚇をしてきたらしい。
だが、どうやら特殊な【
顔を合わせて初日は、とにかく自分は無害であるという事を示すために見える範囲をウロつくことから始めた。
威嚇はしてきていたが、その分には問題なかったと、ハールヴァルドは判断している。
だから昨日は「怪我の治療をさせて欲しい」とそれだけを伝え続け、自分の手にナイフを当ててわざわざ傷を作ってから傷薬を使い、「これは怪しい薬じゃない」と眼の前で示してみて反応を待った。
そして今、これだ。
身体のあちこちに傷のあるらしい異世界人は、その傷から血を吹き出しながらハールヴァルドを押し倒した。
突然掴みかかられた事で驚いてしまったハールヴァルドの一瞬の隙をついて硬い石の床に叩きつけ、脳震盪を起こして動けないでいるうちに犯された。
最初はなにをされているのか、どうしてこんな事をされるのかもさっぱりわからなかった。今でも、よくわかっていない。頭が働かない。
だがきっと、背中にぽたぽたと落ちてくる彼の汗なのか、血液なのか、涙なのか、よくわからない液体の感触に、彼もまた「蹂躙された者」である事を理解する。
【
しかも、この世界に来れば神に無作為に与えられたもののせいで時には兵器として扱われ、時にはペットとして扱われもする、理不尽さ。
そういう存在からすれば自分の存在は腹が立つ存在でしかなかったのだろうと、グラグラする頭で、考える。
無様だが、何も考えられない。
腰を掴む手の強さだとか、まるで喉の奥まで突っ込まれているような衝撃だとか、服を破られ露出した足に伝う何かの感触だとか。
そんなものを情けないと、悔しいと思う事も出来ずに意識が徐々に薄れていく。
酷く眠くて目蓋が重くて、意識を保っている事が出来ないのに腹の中に何か熱いものが吐き出された感触だけはやけに生々しくて、ハールヴァルドは深く長い息を吐き出しながら眼の前が真っ暗になっていくに任せて身体の力を抜いた。
次に目を覚ましたのは、酷く寒いとふと気付いた時だった。
目を開けばすぐに見えたのはあちこちに血が染み込んでいる石の床で、しばらくぼんやりしながら状況を思い出そうと試みる。
それから、酷い寒さと吐き気と、それから全身の痛みに脳が一気に覚醒して状況を理解した。
起き上がろうにも眼の前がぐるぐる回っているし吐き気が酷いしで、これは脳貧血の症状だと自分が今まで蓄えてきた知識の中から必死に症状が当てはまるものを探り出す。
そりゃあそうだろう。鼻の下はカピカピしているがそこそこの量の出血はしていただろうし、何の準備もなく突っ込まれた尻はもう感覚すらもない。
だが当然そこも出血しているだろうから、元々あまり血の気の多い方ではないハールヴァルドの中の血液が足りなくなっても無理はないだろう。
だがそんな事よりも、と、何とか床に肘をついて起き上がる。
全身がバキバキに凝っていて少し動くだけで身体中の関節が痛んで、さらに寒さで筋肉まで固まってしまっているような感覚がある。
騎士団長に「たまには外に出てください」と言われていたが、研究の方が大事だからと断っていたツケが今ここで出てしまっているような心地だった。
あの異世界人はどこに居る?
何とか床に肘をついて上半身だけ起こせば、上半身も酷い有様なのに気が付いた。
まず、服の背中の部分がない。異世界人によくあると言われるなんかすごいパワーで破られたのだろう背中は恐らく歯型や何かで酷く痛んで、背中を反らそうとすると皮膚が突っ張って痛かった。
しかしその痛みは、耐えられないほどではない。今はあの異世界人の無事を確認する事の方が大事で、責任だ。
異世界人の保護は様々な国が積極的に行っている事だというのに地方貴族なんぞに暴挙を許してしまった、この国の情けなさが彼を傷つけたのだ。
その結果がこれなら、ハールヴァルドは甘んじて受けるしかない。
「ゔ……えっ」
しかし、頭がぐらっと揺さぶられたような目眩と傷の痛みに、耐えられずに嘔吐する。
ここの石はただ削り出されただけの表面がザラザラの石だから、こんな所で嘔吐すれば染み込んで大変なことになってしまうというのは分かっているのに、耐えられなかった。
痛みと目眩で嘔吐をするなんて今まで経験がなくて、一度嘔吐したら耐えきれずに二度、三度と胃液を吐き出す。
あぁそういえば今日は朝から何も食べていなかったのだっけ、と思うと、窓から見える外の暗さにまた目眩がして、ハールヴァルドは再び床に頭をつけた。
「無事を……たしかめ、ねぇと……」
無事を、彼の無事を。
何度も何度も自分にそう言い聞かせるのに意識はまたどんどんと暗くなっていって、とても寒いのに温かい場所に移動しようという気力もなくなっていく。
あぁせめて、彼が温かい場所に居ますように。
そう願いながら、ハールヴァルドはまたぷつりと意識を失った。