午後二十時になり、夜がやってくる。怜は笹木野が言っていた学校近くのコンビニで待っていた。その向こうに、ライグリードとヘブンが待機している。少し待っていると、笹木野が暗がりの道から現れた。
「こんばんわ。日比谷さん。さぁ、案内するよ。来てくれ」
笹木野は怜を案内する。案内した先は自分達が通っている高校だった。まだ残っているはずの先生の車は今日は一台も止まっていない。
「学校じゃないの。入るのってよくないんじゃ」
笹木野は怜のぐっと肩をもつ。怜は気色悪いと思いながらも我慢した。
「だからいいんじゃないか」
彼は我が物顔で学校へと入っていく。
「おい! 君たち、学校はもう閉まってるんだ。早く帰りなさい!」
見回りをしていた守衛が懐中電灯を片手に二人に近付いてきたが、笹木野が指を鳴らすと、守衛はパタリと倒れた。
「大丈夫。気絶させただけだよ」
薔薇の香りが立ち込める。
「あなた魔族か何かなの?」
怜が尋ねると、笹木野はしーっと人差し指を立てた。
「今は何も聞かないでついてきて」
怜の肩に置いている笹木野の手に力が入る。怜は唾を飲み込んで学校の階段を上り始めた。
二人は屋上へとたどり着く。怜が真っ先に目に飛び込んだのは、赤い血で書かれた大きな魔方陣だった。怜は天使の儀式のことを思い出し、めまいを起こす。
〈まさかまた魔方陣に?〉
真ん丸と大きな月の下に六名の幹部たちがいた。幹部たちは操られているのか目が虚ろで、そして綺麗に一列に並んでいる。笹木野は両手を広げて、彼らを歓迎する。
「やぁ、諸君。この子は日比谷怜さん。あの方の洗脳にかからなかった哀れな女の子だよ」
「洗脳?」
笹木野は幹部たちを顎で指示すると、彼らは怜の両腕を掴んだ。
〈何よ! 離してよ!〉
激しく抵抗したが、幹部たちは無理やり怜を魔方陣の中に入れ、跪かせる。笹木野は怜の顎を掴み、目線を合わせる。
「大丈夫。怖くないよ。君のように芯が強い女性は洗脳にかかりにくかったみたいだ。そんな君は特別に我々の一員にしようかと思ってね。幹部の一人として、僕の下僕として側にいてほしいんだ。そのためには、あの方に会って洗脳してもらわないと」
「笹木野くん。あなたがいじめ集団を束ねるトップね! あなたがみんなに羽生くんをいじめるように指示したんだわ。なぜそんなこと! あなた魔族ね!」
笹木野はニヤッと不気味に笑った。
「うーん。半分当たりで半分外れだ。僕はたしかに今のいじめ集団を束ねるトップさ」
「なんでそんなことを!あなたのせいで人が死んでるのよ」
「だから? 弱者に生きる価値はないだろ? 弱者は黙って強者の玩具にでもなればいいんだ」
「なんて傲慢なの!」
笹木野はポケットからナイフを取り出すと、怜の首もとに押し付ける。
「最高だよ。あの方の力のおかげで、僕が皆を支配できるんだからね。生かすも殺すも僕のさじ加減さ。今の君もそうだ。だから黙って僕の下僕になれ」
「あの方?」
笹木野は怜から離れると、幹部を一人選んで、その人の腕を切る。血が魔方陣に滴り落ちると、陣は緑に輝きだした。笹木野はナイフに付着した血をバターを塗るように両手に着ける。
「今宵は、満月! さぁ、あの方がでてこられるぞ! でてこられるぞ! さぁ!」
笹木野は魔方陣の線に重なるように両手を床につけた。緑色の光からさらに、シューシューと音を立てて煙が上がる。
〈あの時と同じだ!〉
怜は恐怖で悲鳴をあげると、コンクリートの下から白い手が伸びてきた。薔薇の香りがそこらじゅうに匂い、怜は体が一気に熱くなるのを感じる。白い手からさらに腕が伸びて体が現れた。
怜はどうにか幹部たちを振り払い逃げようとする。しかし、現れた白い手が怜の頭を掴んだ。
空気椅子に優雅に座ったようなポーズででてきたのは、ライグリードによく似た貴族の格好をした生き物だった。
緑色の長い髪に、白を基調としたスーツ。色は恐ろしいほど白く、耳は尖っていた。その魔物は笹木野を見ると、挨拶をする。
「久しぶりだな。聖。調子いいみたいだね。こちらもオーラをいただいてるから気分がいいよ」
笹木野は深くお辞儀をした。
「とんでもこざいません、イル様。この者をあの6名のように洗脳していただけないでしょうか?」
イルはふぅむと彼女を見定める。
「女か。これはいい。陰湿さがましそうだ。私は陰湿なものが特に大好物なんだ」
怜はイルに訊く。
「あなた、魔族なの?」
「ご名答。人間にはわからないだろうが、教えておいてやる。イル・レイン士爵だ。人間の陰湿なものだけで一代を築き上げていた悪魔だよ。今の時代は特にいじめが多いし、それに伴う自殺者も増えてるだろ? そのお陰で、士爵の称号をいただいたわけさ。さぁ、お話は終わりにして、さっそく洗脳してやるとしよう」
薔薇の香りが強すぎて、頭痛がする。汗が吹き出し、全身が燃えるように熱かった。 イルは怜の腰に手を回すと、顎を無理やり掴んだ。
「人間よ。これは光栄に思った方がいい。大丈夫だ。怖くない。私に委ねろ」
陰湿な悪魔は怜にキスをした。薔薇の味が口いっぱいに広がり、頭にまで到達しそうな勢いだ。頭がクラクラする。だが、途中でイルが勢いよく怜を突飛ばした。
「こいつ! 人間じゃない!」
笹木野は驚いて、怜の方を見る。怜は頭がしびれており、何が起こってるのかわからなかった。
「しかも、なんだこいつのオーラは! 頭がおかしくなりそうだ! 聖。よくもやってくれたな」
笹木野は何が起きてるのかわからずに、おろおろとしている。怜は、どうにか起き上がってイルに向かって叫んだ。
「彼らを解放しなさい。魔界に帰るのよ」
イルは命令されたことに腹を立てた。
「貴様ごときに私に命令するな! 貴様何者だ」
「私は日比谷怜。ただの日比谷怜よ」
「天使か!」
イルが訊くと、怜は首を横に振った。
その時だった。
「私が天使だ。愚か者め!」
イルの胸目掛けて、矢が放たれる。その矢は黄金に輝き、そしてイランイランの香りがした。怜は満月の方を見ると、翼を広げた生き物がこちらにやってきているのがわかった。
「う、嘘でしょ!」
怜は驚いて思わず後ずさる。
羽を広げて、屋上へ降りてきたのは眼鏡をかけ、小柄な弱々しいあの羽生利光だった。