怜はまた、記憶が集められた夢の海に沈んでいた。怜の母親は再婚しようとしていたが、相手の男性は子供はいらないと言って断り、破局した。その時母親はヒステリックになり、怜に辛く当たった。
「お前さへいなければ、幸せになれたのに!」
その日の夜。怜は布団の中で泣きながら、目をぎゅっと閉じて、天使を祈った。
「天使様は皆のことを愛してくれている。私のことも。天使様、お願い。姿を見せてください。天使様」
夢の中の怜は目を開けると、魔方陣の中にいることに気づく。そして、後ろからアークエルが剣を持って怜を見ていた。
「残念ながら、運命には逆らえないのだ。怜」
木霊するアークエルの言葉とそして再び真っ二つにされる体。
「やめて!」
怜は涙を流しながら目を覚ました。鬱陶しいほどのいい香りのする部屋。自分が魔族であることが許せなくて、布団を頭まで被る。さらに空腹も相まってかイライラを募らせた。
〈兎肉を食べれば三日くらいもつと言ったのは嘘だったの?〉
眠るのが怖い。アークエルが夢の中まで追いかけてくる。時計を見るとまだ深夜二時。怜は布団に潜りながら朝日が見えてくるまで寝ないと決めた。
だが、しばらくしてうとうとと眠気に襲われ、いつの間にか眠りにつくが、夢は見なかった。
***
明け方になり、怜は重い体を起こして、ハンガーに掛けてていた制服を見つめた。
「学生に戻っても、これじゃ嬉しくないわ」
ブレザーを羽織って、ネクタイを巻き、鏡で自分の顔をまじまじと見る。顔色が悪いし、髪もキシキシに荒れている。セミロングの黒い髪はそのままおろすことにした。怜は自分の瞳の色が変わっていることに気づく。
「赤紫色の目……」
その他にも変わったところはあった。歯だ。犬歯が少し伸びている。ここからさらに変化して異形な容姿になったらどうしようと怜は自分が怖くなった。
〈魔族の一員なんてなりたくない。人を餌にして襲うなんて私には無理よ。そうだ。今なら逃げられるかも。そしたら交番に駆け込めばいい〉
怜は両開きの窓を開けて、下を見た。
〈魔族になった私なら、二階から飛び降りてもきっと無傷のはず……〉
「まさか、逃げようとしてるんじゃないよな」
ヘブンが部屋の扉を背に腕を組んですがっている。
「ノックくらいしなさいよ!」
「窓を開ける音が聞こえたからまさかと思えば」
「地獄耳ね!」
一瞬ヘブンが消えたかと思った矢先、怜の目の前に現れる。すると、怜の首根っこを軽々と掴み、窓から引き剥がして投げ飛ばした。
思いの外、投げ飛ばされた怜は部屋の壁に激突し、背中を擦る。
「いた……」
「自業自得だ。以後、逃げようなど考えるな。ライグリード様の計らいで部屋を分けてやっているんだ。感謝しろ」
怜はヘブンを黙って睨む。彼は怜の反抗的な態度が気に入らず、怜の腕を掴んで無理やり立たせた。
「お前……!」
「ヘブン、やりすぎだ」
ライグリードが怜の部屋へやってきた。ヘブンは怜を離すと、ライグリードにすみませんと謝った。
前開きのシルクの黒いシャツに、黒い革ズボン。腕はまくっており、その肌からも継ぎはぎが見えていた。うねった前髪をかきあげ、怜にこちらを見るように言った。
「逃げたって無駄さ。すぐにわかる。ちなみに君が昨日あまり寝付けなかったこともちゃんとわかってるよ。怜、こんなの馬鹿馬鹿しいと思わないか?」
「運命なんて受け入れない!」
「ヘブン。抱えてでも彼女を学校に連れていけ」
はい、とヘブンが返事をすると、怜を無理やり抱えて下まで運んだ。
「離してよ! ちょっと! 高校までこれで行くわけ!?」
ヘブンは嫌そうに怜に言い返した。
「ライグリード様の命令だ。俺だって嫌なのに」
ペンションの玄関を開けて、ヘブンは怜を抱いたまま歩き続ける。恥ずかしさで怜の顔は真っ赤になった。
「もー! わかったわかったからぁ! 下ろしてよ!」
***
怜たちが向かう高校はペンションから歩いて三十分のところにある。ヘブンと無言で歩きながら、怜は周辺をキョロキョロと眺めた。
「ヘブ……」ヘブンがギッと怜を睨む。
「じゃない。鬼道くん」
「なんだ」
「あなたは既に仲間入りの儀式はすんでるんでしょ?どんな感じだったの?」
ヘブン=鬼道がうーんと思い出そうとしていた。
「俺が新入りだった頃の魔界は全盛期で、人間が戦争を始めていたんだ。この上なく楽しかったのは覚えている。狩りもやり放題だし、オーラというオーラは頼んでなくても生まれてきてたしな。
だが、百年も経つと、人間は変わるもんだな。文明が複雑化したおかげで、感情もより複雑になった。狩りはやりにくくなったが、より豊富なオーラの味を楽しめている」
「魔族に入るまでは何をしてたの?」
ヘブンはギロッと怜を睨んだ。
「干渉されるのは好まない」
怜は、ちぇっと拗ねる。怜たちが通う高校が見え、同じ学生服を着ている生徒が増えてきた。久しぶりの高校生活に少し胸が高鳴る。すると、後ろから女子高生が怜の肩を叩いた。
「怜、おはよ!」
怜は驚いて、へっ?と声が出た。ライグリードが言っていたことを思い出す。既に生徒としての記憶を人間たちに刷り込んだと。怜は慌てて挨拶を返した。
「お、おはよう」
「ねぇ、小テストの勉強した? 私、好きな番組を見ながらやろうと思ったんだけど、いつの間にか寝ちゃってて」
怜は下手な演技でどうにか答える。
「私もあんまりやってない。ね、鬼道くん? なんの小テストか覚えてるよね?」
怜は意地悪にヘブンに話題をふる。ヘブンは表情を変えることなく、返答した。
「古典なんてなんの意味があるんだろうな」
意地悪失敗。しばらくすると、高校の校舎が見え始めた。
〈本当にここから儀式が始まるのだろうか。できれば、儀式なんて起きずに、ずっと高校生活を送れたらいいのに〉
怜は切実にそう願った。