「やめて離して!」
怜は負けじとライグリード男爵の腕を掴むが、もう片方の手で押さえつけられる。男爵は、怜の鎖骨にナイフを入れた。ツーっと紫色の血が吹き、ライグリードはニヤリと笑う。
「人間の血と魔族の血が混ざり始めた。魔族の血は大半が青色だ。魔族の血だけになる前に人間の血を堪能しておこう」
ライグリードは歯を立てて怜の血を啜る。
「君はいい香りをさせるんだな」
〈この変態!〉
怜は必死に抵抗したが、ライグリードの手の強さで動けない。ライグリードはいよいよと怜の首にナイフをいれようとした。
〈もう最悪だ!〉
怜が目を瞑って覚悟を決めた。だが、しばらく待ってもナイフの冷たい金属が触れてこない。怜は片目を開けて確認するとライグリードのナイフがひとりでに宙に浮いていた。
彼は目を見開き、不思議そうにナイフを見る。すると、ナイフが生きてるかのようにライグリードの顔に突き刺さった。
ライグリードは突き刺さった部分を手で抑えて痛みに悶える。
その隙に、怜はベッドから抜け出し、部屋から出た。闇色の大理石の廊下を裸足でひたすら走り続ける。仄かな蝋燭の火をたよりに永遠と続きそうな廊下を裸足で駆けた。
だが残念なことに、ライグリードがすでに腕を組んで待ち伏せしていた。
〈いつの間に追い付いたの?〉
さっきのライグリードとは打って違って、真剣な顔つきをしている。刺さったナイフを抜いたのかそこだけ青い血が流れていた。
「あなたがいけないのよ。いきなり襲ってくるから」
ライグリードは黙ったまま、ひょいと指をあげると、怜は石みたいに動けなくなった。彼はゆっくりと歩いて近づくと、今度は怜の顎を持ち上げて、じっと怜を見た。血のように赤くて熱い瞳に、怜は視線を反らす。
「やはり、次期エンプレスなのか。ん、この逆十字」
怜の右腕を上げて、斬りつけた逆十字をじっと見る。
「自分でつけたのか?」
怜は一息ついて言う。
「声が聞こえたのよ。逆十字に斬れって。そしたら、意識がとんで、後は覚えていない」
ライグリードは何かわかったように眉間にシワを寄せる。
「エンプレスの気配を感じて向かったのは正解だったわけか……だが、今のままじゃだめだ。怜。君は紛れもない、魔界の女帝になる器。そのためには色々な試練が待ち構えている」
さきほどの態度が一変して男爵は冷静だ。怜は魔界の女帝について尋ねた。
「あなたが言ってた、魔界のエンプレスってなんのこと? 私が魔界の女帝?」
「我々サッカダレン一族は魔界のエンプレスの右腕になると運命付けられている。だが、一向に女帝は現れず、我々一族は長く他の貴族たちにバカにされていた。それはそうだ。既に魔王は君臨して長いこと職務をまっとうされている。それなのに、ノコノコと突然女帝が現れるはずがない。しかし、君が現れた。まさか私が当主の頃に、君が舞い降りてくるとはね」
魔界の世界にも色々あるのかと怜はライグリードを見ていた。怜が少し落ち着いたようだと男爵は感じ、動きを止めていた怜を自由にした。
「なぜ死んだ」
怜はため息をつく。
「死んだと言うか、殺されたのよ」
「殺された? 誰に?」
金木犀のどこか懐かしい香り。真剣な顔つきのライグリードに、彼女はまごつきながら言う。
「アークエルっていう天使によ。青磁色の髪の綺麗な背の高い天使」
ライグリードはそれを聞いて驚くと、声に出して笑い出した。
「待ってくれ。天使が君を殺して、魔界に送った? 冗談だろ?なんでそんな不利なことを天使がするんだ」
「不利?」
「女帝に君臨する者をわざわざ魔界に送るなんて、天界にとっても脅威になるはず。あいつらは何を考えてるんだ?まさか、世代交代をしろと言ってるのか?天界も彼女を期待していると?」
ライグリードの目がぎらついた。怜は何か良くないことを考えたことに気付き、言い返す。
「わ、私は魔界の女帝になんてならないわよ」
ライグリードはふふっと笑う。
「今はまだ、ね」
「なんで私が! 私は人間よ。魔界のことなんてわからないし、私は善良な人間だったわ。悪いこともしていない! ただ生きてただけで!」
男爵は怜の右腕についている逆十字をなぞりながら、ゆっくりと言い放つ。
「これから、なるんだよ。悪いこと、残忍なことが喜びに変わるそのときまで。怜。私が君を魔界の女帝に育てる。育て上げて見せる」
「嫌……!」
ライグリードは指を鳴らすと、怜は意識を失った。怜の右腕を引っ張り、体を抱き上げる。男爵はゆっくりと廊下を進んだ。
「彼らと一緒に人間界へ行くとしよう。さっそく教育を開始しなければ」
意識を失っている怜の顔をじっと見つめる。
「彼女が本当に魔界の女帝に君臨するのか、賭けるしかない。それに天界の動きも怪しい。これからが始まりとなるのか。いよいよ魔界が動き出すのだ」