怜は、ねっとりとした泥濘に何度も足をとられる。転ける先はいつもヘドロにまみれた水溜まりだった。身体中がヘドロまみれになり、白いはずのワンピースは真っ黒になる。それをみて、カラスもどきたちはげらげらと笑った。
「ほらほら!早く逃げろ逃げろ」
辺りは砂漠のように何もない。あるのは、大きなイボのような気味の悪い岩と、ヘドロにまみれた水溜まりだ。硫黄とヘドロの匂いがきつく、うまく息ができない。
しばらくカラスもどきたちから逃げていると、向かい側からゾロゾロと何かがこちらに向かってきていた。
普通は助けてもらえると喜ぶところだが、ここは魔界。怜は自分の直感に従い、その何かを避けるように右に方向転換して走り続けた。
だが、避けられたのを向こうが察したのか、こちらに向かって走ってくる。その様子にカラスもどきたちはさらに興奮していた。
「ゴブリンじゃねぇか! こんな面白いもんが魔界にきたのは久しぶりだからな。流石にわかっちまったか! 身ぐるみ剥がされて毛皮にされてしまうぞ」
怜はまた足を引っ掻けて、ヘドロへ突っ込む。今度は足を挫いたのか、立ち上がることができなかった。
上空から敵、地上からも敵。だが、怜は諦めずに立ち上がり、敵を見る。
そしてひたすら考えを巡らせて、ゴブリンとカラスもどきに、ある提案を持ちかけた。
「私は、アークエルという天使から魔界に帰れと言われた者よ。きっと特別な存在なんだと思うわ。それか極悪人かもしれない。ねぇ、仲間にいれてよ。私を仲間に入れたらもっと面白いことを教えてあげるわ」
仲間になったところで今後どうなるのか怜は考えていなかったが、この場をすり抜けるにはこれしかないと思った。鬼のような角に、鷲のような鼻、ゴブリンたちが木の棒を持って鼻で笑った。
「人間は、仲間じゃない。餌だ。玩具だ」
カラスもどきも同じようなことを言う。
「人間がここに来るのは久しぶりだが、俺達の知ったこっちゃねぇ。人間は俺達にとってはペット同然なんだ! 仲間じゃねぇ!やっちまえ!」
カラスもどきとゴブリンたちが、怜に向かって迫ってくる。
〈私はここで玩具にされる、一回死んでいる場合は2度死ぬなんてことがあるのだろうか。逆に死ぬことがなくて、一生玩具にされるのかも〉
怜は恐ろしくなり、頭のてっぺんが一気に冷たくなった。最悪な未来を予想していたその時、怜の右腕が十字架上に痛みだした。
「痛い……! なんでいきなり痛みが」
-痛みに向かって、斬れ-
「頭の中から声が聞こえる。誰? 誰なの?」
-早く。逆十字に向かって、腕を斬れ!-
カラスもどきが怜の首を掴みかかり、ゴブリンは薄いワンピースを引き裂こうとする。怜はゴブリンが持っていた短剣をすばやく奪いとり、勇気を出して右腕に逆十字になるように斬りつけた。
カラスもどきが怜の目玉をとろうとしたそのとき、カラスもどきとゴブリンたちが一斉に呻き始めた。その様子に怜は驚いた。
「な、なに?」
カラスもどきが地上に落ちて、じたばたと暴れる。ゴブリンたちも様子がおかしくなり、地面に倒れては痛い痛いと叫び始めた。カラスもどきのほうは熱い熱いと泣き叫ぶ。
「熱い! 熱い熱い! 焼けるように熱い! なぜだ。炎なんてないはずなのに!」
怜は自分の意識がおぼろげになっていくのを感じた。そのわずかな意識で聞き取れた自分の声はいつもの声色ではなかった。少しだけ低くて艶のある威圧を感じる声だ。
「我は、次期魔界の
声を発した後に、カラスもどきとゴブリンは痛みから解放された。彼らは怜が恐ろしくなり、一目散に去っていく。怜は意識を失い、そのまま崩れるように地面に倒れた。
***
どこか懐かしい金木犀の匂いがする。怜は朧気ながら誰かが自分を抱えてどこかへ運んでいることに気づいた。視界がぼやけて、顔が見えない。あたたかくて心地がいいが、誰なのかわからない。こんな状況で身を預けているのが怖くてたまらず、怜は掠れた声で話しかけた。
「だ、誰?」
怜を運んでいる者は、怜が怖がっていることに気付いた。
「今は眠れ。運ぶまでは私が守ってやる」
怜はまるで魔法にかかったかのように、目を閉じ静かに眠りについた。