日比谷怜は、強烈な鉄の匂いと血生臭さで目を覚ました。鈍痛が右後頭部にズキンズキンと伝わり、ひんやりとした液体を右耳に感じる。
──これは血?
怜は痛みと戦いながら、少しずつ今までのことを思い出そうとした。
──そうよ、彼女よ!
怜は幼馴染みの安藤ひなたを思い出した。彼女からの久しぶりに電話がきて、うちに来るように言われたのだ。そして、彼女の部屋に入った瞬間、後頭部からの衝撃とともに怜は意識を失った。
怜は痛みに耐えながら部屋を見回そうと体を動かす。どうにか起き上がりたいが、両手両足をロープで縛られ、身動きがとれない。ジーパンとTシャツだったはずの服は、肌着のような薄くて白いワンピースに変えられていた。
体を少しずつ捻り、薄暗い部屋を見渡す。オカルト映画に出てきそうな不気味な魔方陣。棚には何かの儀式で使用しそうな供物。極めつけのおどろおどろしい祭壇。床に書かれている魔方陣は渇いた血で書かれていた。その血は自分の血で書かれたかもしれないと思うと、怜はぞっとする。
怜はだんだんと思考が冴えはじめ、この不気味な儀式について考えることにした。
「この魔方陣は天使文字で書かれているわ。それに供物も悪魔儀式とは違う。それなら私は……まさか生け贄? ひなた、あなたは一体誰を呼ぼうとしているの?」
このまま静寂が続くと、自分自身がおかしくなりそうだ。怜は怒りと恐怖を紛らわすように空に向かって吠えた。
「ひなた! あなたなんでしょう?高校に入った今でも天界のことを調べてるのね。ここまでするなんて狂ってるわよ! 何をしようというの、いい加減にして!」
「ククク……」
部屋の中で笑い声が聞こえた。
──既に人がいる!
怜は部屋をよく凝らして見てみると、薄暗い角に人影が見え、思わず叫んだ。
「ひ、ひなた……?」
自分と同じ薄白いワンピースを着て、両手は真っ赤な血で染まっている。茶色の長い髪の毛は下ろしており、何日も食べていないのか頬がこけている。ひなたは首をコクリと横に傾け、瞬きもしないでこちらを凝視している。
「久しぶりね、怜。中学以来かしら。あなたと仲違いしてから三年。私はようやく天使になる方法がわかったのよ。私達、天使になるために努めると約束したわよね。それなのにあなたはあっさりと裏切って、つまらない学生生活を送ってる」
「天使にはなれない。どこでそんな方法知ったのよ」
怜が尋ねると、ひなたはヒステリックに答えた。
「教えてもらったの!」
ひなたは血塗れの両手を勢いよく天井に向けて挙げ、恍惚な顔で上を見ている。
「天使様に」
彼女は力強く続ける。
「毎日毎日天使と交信を続けて、やっと届いた。私が天使になる方法!」
──狂ってる……。
怜は目の焦点が合っていない彼女に反論した。
「それがこれってわけ? 生け贄なんて悪魔信仰者がやることよ!外道だわ!」
「うるさい!」
ひなたは怜の顔面に思い切り蹴りを入れる。手加減をしなかったのか、歯が何本かとれて怜は折れた歯と一緒に唾を吐いた。ひなたは怒りと興奮に震えながら怜を指差す。
「お前は邪悪な存在だと天使様が仰った。邪悪な存在、お前を天使様に献上すれば、私の行いが認められて天使にしてやると約束された。人間だってやり方がわかれば天使になれるのよ」
「私が邪悪な存在?」
怜は眉間にシワを寄せ、呆れた声で言い返した。
「なんで天使がそんなこと言うのよ。あなた本当におかしいわ」
「それなら確かめればいい。その天使様をこれから呼ぶのから」
ひなたはゆっくりと怜に近づくと、血塗れの両手を怜の顔に塗りたくる。生々しい鉄の匂いに吐きそうになり、抵抗したが、ひなたは怜の顔を勢いよく床に押し付けた。
「ねぇ、怜。私達、どこで間違えたのかしら。どこで私たちの道は分かれてしまったの? 自分が邪悪な存在だと気づいたから? だから私から逃げたの?」
「なれるわけないってわかったからよ。天使と会うことさへわずかな希望なのに。天使になるなんて、私達には無理なの。だから私は人間として今を大切に生きようとした」
「邪悪な存在は生きられない。生きる価値もないわ」
床に押さえつけながらも、怜は必死で言い返した。
「私は邪悪な存在じゃない!」
ひなたはうるさい!うるさい!と言いながら、何度も怜を床に打ちつける。怜は頭がくらくらし、痛みとめまいに襲われた。
ひなたは怜が弱っている隙に、棚に置いてあった水晶玉を垂直に落とした。それからエノク語のような発音で召喚を始める。はじめは何も起きなかったが、次第に魔方陣からしゅーしゅーと音をたて、煙が上がる。白檀の香りが部屋を多い、さらに白い煙に覆われた。
「な、なに!」
怜はめまいを振り切り、力を振り絞って上半身を起こした。白煙がさらに濃くなり、何も見えなくなってしまう。
怜は後ろから白檀の匂いを感じた。振り返ろうとした途端、ザシュッという音が聞こえ、怜は自分の胸を見る。彼女の背中から心臓にかけて、刃が貫通していた。
貫通したままの刃はそのまま持ち上がり、怜は地面から足が離れる。口から血を吹き出し、怜はゆっくりと自分を刺した存在を見た。
頭から後光が差している。2メートルもありそうな背丈に、青磁色のストレートの髪。透き通るような肌に、目は金色に輝いていた。
特徴的なのは四枚の大きな白い翼。一寸の穢れも感じさせない神々しくて美しい羽だ。
「ま、まさか……」
怜がそう言うと、その者は静かに口を開いた。
「我が名は、大天使アークエル」