そんな話をした日から、ほんの少し……本当に少しずつ、家の中の雰囲気が変わったように見えました。
今までずっとエードラムを無視していた勇者は一言二言ですが返事を返すようになり、用事を言いつけるときには必ずわたし経由だったものが置手紙を置いて直接コンタクトをとるようになりました。
その小さな変化に気付いたのか、悠輝もにこにこと笑みを浮かべることが多くなりました。
元々よく笑う子ではありましたが、勇者とエードラムの間に挟まれて笑顔を浮かべているときは格別にいい顔をして笑うのです。
そして、そんな悠輝を見て勇者もまたあの小さな小さな笑顔を浮かべるのです。必死に作っているような笑顔ではありましたが、そんな表情でも悠輝にはとても嬉しいものであるのか彼女もとてもうれしそうに、楽しそうに笑います。
そんな彼女等の笑顔を見るたびに、わたしはまた胸が押し潰されるような痛みを覚えました。
この笑顔を失わせてはならないと、出来ることならまたあの人の本当の笑顔を見れるようになればいいと、そう思うのです。
そのために、エードラムはまた一歩先へ進みました。
柊に送ったメールの返信はその日の夜には送られて来て、勇者に一言相談をしてまた柊のところへと足を運んだのです。
勿論、わたしも一緒に。
この時にはもうわたしもエードラムの背に揺られることに抵抗はなくなっておりましたし、柊も特に詳しく言及することもなく、エードラムの求める魔力の回復方法を共に模索してくれました。
わたしは太古から存在している者ですが、一度消失した魔力の回復方法なんかは流石にわかりません。
一度失った魔力の源が再生するのか、身の内の魔力の方を増強させる術はないのか。我々はその日からそれについてを模索する事となりました。
残された時間は短いはずです。我々の勇者がそう言ったのですから、それは間違いがないはず。
その間に出来る限り相手の情報を収集して把握し、ある程度はエードラムひとりでも戦えるようになっておかないといけないのです。
それは決して簡単ではないでしょうが、やらなければならない挑戦でありました。
まず、柊は人間用の魔力回復薬をくれました。
この薬は魔術の構成に失敗し太古の人々の魔力から見放された人間に再び力を与えるものであると、柊は言いました。
そもそも太古の人々の与えてくださった魔力が宿るのはその者の魂です。魂を心臓のように魔力の源とすることで、全身を通る血管にも似た魔力管と呼ばれる道に魔力を通して人間でも魔術を使うことが出来るようになるのです。
太古の人々の魔力はこの魔力管を通っているため、その魔力に見放された人間はつまり魔術を使えなくなってしまいます。
この薬はその閉ざされた魔力管を強引に開く作用があるのだと柊は言いますが、それがどれだけの意味を持つのかはわたしにはわかりません。
そうして擬似的にでも魔力を与え太古の人々との繋がりを取り戻させまた魔術を使用可能にする、と柊は言うのですが、勿論副作用がないわけではありません。
下手な人間が使えば逆に体の中の魔力が失せる危険性や、魔力管が開く際の激痛に耐え切れずに発狂する可能性もある、最後の最後のチャレンジを可能とするだけのものです。
そのため、この薬を使った者はそう何人も居ないのだと柊は語りました。
けれどエードラムは躊躇無くその薬を飲み干し、魔術の構成を練ることから始めました。
勿論人間と魔王の魔力の質というものはまったく違うものであり、双方の魔術の構成だって似ているようで本質は違うものです。
人間の中に存在する魔力管をエードラムが持っているのかもわかりません。
ですのでその日はエードラムに魔力回復薬が効いているという兆しも実感も現れず、ただ人間の魔術を学ぶだけの勉強会で終わりました。
エードラムに回復薬による拒否反応が出なかっただけでもラッキーだよ、と柊は言いましたが、我々に残された時間があとどのくらいあるかも分からない状況です。出来るだけ早く、一日でも多く修行をしたかったのが本当の所、ではありました。
しかし焦りは禁物。もし無茶をして魔力管がなくなってしまったなら、それこそ貴重な回復薬すらも無駄にしてしまうということなのですから。
その次の日には、ひたすらに精神の集中修行を行いました。
エードラムは元々身の内に魔力を宿す存在でありますので、その魔力を強めるための集中というやつです。
その方法は様々で、エードラムが元々やっていたように闇の中でじっとしていたり、人間のする座禅のように意識を集中させたり、魔力の源である角のあった位置に意識を集中して魔力が強まるように人間式魔術の構成を編んだり、という具合です。
これにはさしものエードラムも中々うまくやれないのかひとつ試すごとに四苦八苦し、一時間集中するだけでぐったりとしておりましたが、柊の部屋から帰宅しても自室でひたすらに集中を続けておりました。
後はもう、とにかくその連続です。
効果が見られない状況でも、やらないよりはマシですし、とにかくやるしかないのです。
その合間には勿論格闘の訓練もしていたようですが、元々魔力と武力を融合して戦うのが魔物というものですので、どちらか片方しかない場合には片手落ちになってしまうのです。
結果、毎日修行に明け暮れるエードラムは疲れきって風呂や食事の間にソファで眠ってしまうくらいになってしまいました。
最初こそ行儀が悪いと勇者に蹴飛ばされていたエードラムですが、それが三日ばかり続くと諦められ認められるようになっておりました。
いえ、認められるというのは違うのかもしれません。
勇者も、エードラムが毎日必死になって修行をしている事に、気付いたのだと思います。
相変わらず表情はなく会話すらも満足にしない二人ですが、根底では互いに理解をし合おうという気配は感じておりました。
わたしの勇者がひとりで行動をするのはエードラムを生かすため。
エードラムが必死に修行をするのは、勇者と自分が生きるため。
互いを思い合うからこそ生まれる感情はまだ愛とはほど遠いものだったのでしょうけれど、共に生きようという決意は確かに結ばれていたのです。
だから、でしょうか。
勇者は徐々にひとりで行動をすることはなくなってきておりました。
夜に一人で魔物退治をしに出ることもなく、無言で家を出て行くこともなく、どうしても魔物退治に出なければならない場合にもわたしを連れて行ってくれるようになったのです。
これには流石のわたしも喜ばないわけにはいきませんでした。
自分でもこんなにも嬉しいと感じるものなのだろうかと驚いてしまうくらいに、それはそれは嬉しい事態でした。
わたしが彼と共に戦場にある限りにはどんな敵であろうが守り通そうと、その背に揺られながら幾度思いなおしたか知れません。
そのくらいには、嬉しい出来事だったのです。