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第6話 ちいさなへんか

 結局その日、勇者は朝までお戻りになられませんでした。

 仕方なくエードラムがパンと卵とソーセージを焼き倒すだけの簡単な朝食を悠輝にとらせ、保育園まで送っていきました。

 勇者に料理を習っても一向に上がらぬ料理の腕ですが、何も食べさせないよりはよっぽどマシでしょう。

 そうして登園準備をしている間も、エードラムは特に何を言うでもなく悠輝のお話に付き合うだけで、わたしには何も言うことはありませんでした。

 空気が張っているというか、ピリピリしているというか、です。

 まぁ、わたしが勝手にそう思っているだけなのかもしれないのですけれど。


 勇者が帰宅をしたのは、そのエードラムが悠輝を保育園へ送りに行って少しした頃でありました。


 少しばかり足元がおぼつかない勇者は、ボロボロとまでは言いませんが薄汚れた格好をしていて、所々破れた服には血の跡も見てとれました。

 しかし何を言うでもなく、わたしが置かれているソファにヨロヨロとやってくると勢いよく寝転がり、そのまま寝入ってしまいました。

 わたしは勇者があまりに勢いよく寝転がったせいで弾かれて床に落ちましたが、それを意に介してくださる様子もありません。

 それほどまでに、お疲れなのでしょうか。センサーを動かして、ソファで寝ている勇者を見ます。

 そこまで疲れてしまうのであれば一緒に連れて行ってくださればよいのに、と思わないでもありません。

 ですがわたしは良くも悪くも勇者の剣。勇者の決定に抗う事などはできないのです。

 そう言い聞かせるしか、出来ないのです。

「んだ、そんなトコで寝てんのか」

 寝息ひとつとたてない勇者の睡眠をそのまま見守っていると、少しして悠輝を保育園に送り届けたエードラムが帰宅してまいりました。

 勇者が眠っていると気付くとドカドカと乱雑だった足音を潜め、いっそ滑稽なくらいにコソコソと足音を忍ばせ始めます。

 魔王にも気遣いというものがあるとは何とも不自然な限りですが、気の細かいこの男に限っては逆に魔王という肩書きの方が似合わないのではと思ってしまいます。

「コイツのこんなツラ、初めて見るな」

 毛布を持ってきて勇者に掛けてやり、暖房をいれるエードラムの表情はどこか苦々しさを含ませております。

 こんなツラ、と言われてもわたしの位置からでは勇者の顔を見ることは出来ないのですが、エードラムがそう言うという事は相当に疲れた顔をしているのではあるまいかと、わたしは思いました。

 魔術というものは精神力を使うものです。

 身の内に留まっている魔力を編み上げ魔術へと変換し、それを打ち出すものを広義的な意味で魔術と呼ぶようになったのは、いつの頃だったでしょうか。

 元々は太古の人々が当時の勇者たちに教えたものであり、普通の人間には使うことも出来なければそもそも身の内に魔力を宿す事だって出来るものではありません。

 大体にして魔力を編み上げている段階で精神力を使い果たして発狂するか、身の丈に合わぬ太古の術に逆に精神を食われるかのどちらかでしょう。

 太古の人々は、勇敢なる人々以外には力を貸そうとはしませんでした。それが故に、勇者と呼ばれる人々以外が使おうとすれば魔術そのものに宿る太古の人々の意思によってその心身を崩壊させてしまうのです。

 はっきり申し上げまして、わたしはそのような前例を見たことはないのですが、太古の人々がそう言うのだからそういうものなのだろうなと、そう思ってまいりました。

 実際、勇者は魔術を乱発した後には頭痛がすると訴えておりましたし、今もとても疲労しておられます。

 魔術というものは、それだけ身体に負担をかけるものなのです。

『今日はお前が家事の一切をおやりなさい』

「命令かよ」

『お疲れの勇者にやらせるつもりですか?』

「洗濯モンが破れっちまってもしらねぇぞ」

 言いながらも、エードラムは特に文句を言うでもなく洗濯を開始いたしました。

 家事というものの価値を見出せないと常々ぼやいている魔王ですが、ずっと家に居るだけでは退屈だと言ってもいたので、のんびり家事をするのは丁度いい暇つぶしなのかもしれません。

 それであれば、勇者が疲れている時くらいは文句を言わずにたっぷりと動いてもらわなければ困るというものです。

 しかし、そんな目論見はあっさりと覆されてしまいました。

 エードラムは実に気の細かい男でありましたが、何とも不器用な男でもあったのです。

 と言っても、力の加減をミスって皿を割ったりだとか服を破いたりだとかいう程度でしたが、やはりまだ人間の身体に慣れなかったのでしょう、同じミスを数回繰り返しやがりました。

 おっと失礼、同じミスを数回繰り返してしまったのです。

 元々あの男は魔王で、人間よりもずっと強い膂力を持つ男です。腕だって勇者の腰周りくらいはありそうな勢いですし、保育園の子供たちを両腕にぶら下げても平然としているのですから、相当力がある方でしょう。

 が、そのコントロールくらいつけてもらわないと困ります。


「マッシュポテトしたり濾したりするのには便利だけどね」

『ポジティブですな……』


 ふかしたジャガイモをマッシュしているエードラムの後姿を、いつの間に起きていたのかソファに寝転がって眺めつつ、勇者は言います。

 えぇ実に潰したり叩いたりには適した腕であるとは言えますでしょう。

 しかし今日までですでに皿を四枚割り、せっかく買ってきた服も二枚はダメにしているのです。ポジティブに受け取るといっても限界があるでしょう。

 夕方になっても疲労がとれないのかソファに横になっている勇者はその辺はすでに諦めているのか、注意をするでも助言をするでもなくエードラムを見詰めています。

 勇者は今までも、エードラムがする事に対して何か言葉を発した事はありませんでした。

 最初にエードラムに一連の事を教え、それ以外は聞かれれば答えるのみで自分から何かを言うことはなく、彼のやりたいようにやらせてきました。

 エードラムの方でも大きな失敗をしたことはありませんでしたし、いちいち指示を飛ばされるのを嫌う気質の魔王には正しい対処の仕方であったのかもしれません。

「……眠くなってきた」

「寝るなら部屋いけ部屋」

「……ごはんがたべたい」

「ガキが帰ってからだ」

「……けち」

 ずずっとソファの背を滑りながら、勇者の赤い眼は徐々に眠りの世界に落ちていこうとしているかのように細められていきます。

 これではいつ眠りに落ちてもおかしくなく、しかしここでまた眠ればそろそろお迎え時間の悠輝に見つかってしまうでしょう。

 悠輝の躾には厳しい勇者のこと、こんな所で眠るのはよしとしないかもしれません。

 それにしても、と、勇者に視線を向けます。

「はこんで」

「自分で歩け」

「無理」

「残念ながら先客の相手中だ」

「ぼく実はジャガイモ嫌いなんだよね」

「じゃあ何でジャガイモ料理にしろなんつったテメェ!」

 ぶん、とマッシャーを振り上げつつ怒るエードラムに、勇者がうっすらと口角を上げて笑います。

 その表情といったら、ありません。

 何とも表現し難い、振り向いてくれた事を喜んでいるような、うっとりとしているような、眠気に負けそうになっているような、嘲っているような、そんな表情であったのです。

 何なのでしょうか、この表情は。

 驚いて勇者にセンサーを向け直すと、しかし勇者の表情はすぐにいつものような無表情に戻ってしまいました。

 そのまま、足を投げ出したまま目を閉じて横になり、眠りの体勢に入ってしまいます。こうなるともう、エードラムの大声に脅かされようが何だろうが、勇者は起きません。

「あーあ、いいのかなー悠輝かえってきちゃうよぅ……」

「だから、部屋行けつってんだろうが」

「…………」

「こら、寝るんじゃねぇ!」

 エードラムはまだぎゃあぎゃあ言っておりましたが、ふと喋るのをやめた勇者は完全に夢の世界へ旅立ってしまわれたようです。

 つまりはそれだけ疲れていたという事なのでしょうけれど、こんなにもあっさりと眠りに落ちる勇者というのも珍しいものです。

「くっそ……寝やがった」

『早く寝室へ』

「わぁってるよ」

 エードラムの膂力であれば勇者一人を抱えるなど造作もない事のはずなのですが、エードラムは物凄く嫌そうに顔を歪めながら手を洗い、暫し悩むように眠る勇者を見下ろしておりました。

 はて、何を悩んでいるというのでしょうか。

 とっとと抱えて寝室に運んでいただかないと、悠輝のお迎えが遅れてしまいます。

『何を悩んでおられるので?』

「……どう抱えたもんかと」

『普通に抱えればよろしいではないですか』

「ガキじゃねぇんだぞ。正面から抱くってわけにもいかねぇし、背負うのも変だろ」

『では……』

 言いかけて、気付きました。

 確かに、眠りに落ちている勇者を抱えるのに最も適しているのはどんな抱き方なのでしょうか。

 子供であればいくらでもパターンはありますが、曲がりなりにも勇者は成人している人間で、重さだって魔王よりかはずっと軽いとはいえ子供と比べたらどちらが重いのかは明らかです。

 今の勇者の寝方からして一番いいのは膝裏と背を腕で支えて横向きに抱える抱き方なわけですが、仮にも勇者という存在に対してその抱き方はどうなんだ、という気持ちはないわけでもありません。

 何しろその抱き方は乙女の夢……いわゆる姫だっこと呼ばれる抱き方でありますので……

「……肩に抱えたら起きるよな」

『……頭に血が上るでしょうね』

「脇に抱えたら……」

『足を床にずってしまいますね……』

「だよな……」

『えぇ……』

 かと言って、選択肢が他にあるわけでもありません。

 我々は暫しの沈黙の後に、何故かお互いに視線を向け合い見詰めあっておりました。

 そしてたっぷり五分間悩んだ後、エードラムは意を決して勇者を横抱きに抱え上げました。

 何故か見ているこっちが物凄く恥ずかしかったのですが、しかしまたこれが曲者で御座いまして、乙女が夢見る姫抱っこというものが実はとんでもなく大変なものであるという事をわたしとエードラムは知ってしまいました。

 完全に眠りに落ち力が抜け切っている勇者の身体はぐにゃぐにゃで、エードラムが肩で頭を支えようにもエードラムの筋肉の隆起に負けてがくりと横だの後ろだのに首が逃げてしまうのです。

 さらに、膝裏と背から脇に腕を回して支えているにも関わらず、しっかりとその手で掴むように支えてやらないと勇者の身体が徐々にずり落ちていくのです。

 なるほど、この抱き方は意識のある相手の協力があってこそ美しく見える抱き方なのだなと、わたしとエードラムはどちらが先かは分かりませんが思いました。

 最終的にエードラムが力に任せて勇者を抱え込み、己の首元に頭を押し付けるようにして抱え上げてやっと、勇者はエードラムの腕の中で安定したようでした。

 しかし夕食の時間になって起きてきた勇者が脇と足に痛みを訴え、見てみるとまるでギリギリと力を入れてつねられたかのような赤い痕が残っていたものですから、エードラムは必死に努力をしたというのにこっぴどく勇者から怒られる破目になってしまいました。

 その赤い痕だって勇者の身体を安定させるためにしっかりと抱き込んだからであるというのに、何とも哀れなことです。

 しかしエードラムにはお説教よりも、その後にあった勇者による姫抱っこ講習のほうがよっぽど辛かったらしく、物凄く真顔で姫抱っこされつつレクチャーをする勇者であったり、大喜びで横抱きに抱かれる悠輝であったりを抱き上げるエードラムの目は完全に光を失っておりました。

 このときわたしは初めて、もう少しこの元魔王に優しくしてやってもいいかもしれないなと、自分に身体が無い事を喜んだので御座いました。

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