「終わったな」
いつの間にいたのか、新理事長が後ろで手を組みながら背後に立っていた。
「獅子堂 愛奈は退学だ」
何も言えない。新理事長の方を向くこともできない。今俺は自分の腿を見つめて、膝の上で拳を握ることしかできない。すべての努力は無駄だった。
……俺をクビにしていいから、どうにか獅子堂の退学は止めてもらえないだろうか。
そう考えて顔を上げようとした時だった。
「いやぁ……すごい試合だった」
誰が言ったのか。観客からか。そんな声が聞こえたと思ったら、
最初は小さなものだった。しかし、伝播するように、広がっていく。
拍手が。俺たちの戦いを称賛する声が、広がっていく。
雨のように降り注ぐ拍手と歓声が場内に反射する。俺にははっきりと見えた。それら一つ一つが、照明によって星のように輝いている。きらきらと。
「……理事長、聞こえますか。この声が、拍手が」
気付けば、訴えかけていた。
「これらは全て、あの子たちが──獅子堂が、自分の力で勝ち取った評価です。これらを目の当たりにしてなお、獅子堂を退学にすると言い放つんですかアンタは!」
「……なるほどな。しかし、結果は結果だ。頑張っただの、努力しただのは結果を出せなかった者の言い訳にすぎんのだ」
「僕はいい。優勝させられなかったのは僕の指導力不足が原因だ。僕がクビになるのは構いません。しかし、獅子堂は! アイツはまだ、これからじゃないですか!」
「クドいぞ霧崎 剣一」
冷酷な審判は俺の声を封じ込めてしまった。
やれる手は全て尽くした。みんながベストを尽くした。
だけどそれでも、届かないものがある。
俺は大人だ。そんな現実、何度も突き付けられてきた。今更……改めて動く感情なんか。
「先生……ごめん」
戻ってきた獅子堂が、俺の前で頭を下げた。
なんでおまえが謝る。最善を尽くしたろうが。おまえは悪いことをしていないんだ。だから謝らなくていい。こっからは俺の仕事だからな。折れてたまるか。
躊躇なんかない。膝を畳んで、両手をつき、額を床に打ち付ける。
先生、と生徒たちから悲鳴の混ざった声が上がった。
「理事長先生、どうかお願いします。獅子堂はここまで頑張った。優勝こそできなかったものの、コイツの剣道は確実に人の心を動かした。この拍手と歓声はその証拠でしょう。僕はいいです。でも獅子堂は、獅子堂だけは……ッ」
「土下座をしようとも変わらん。獅子堂 愛奈も貴様もクビだ!」
再度突き付けられる決定事項。クソが、この石頭め。
どうしようもできないのか。俺は獅子堂を救ってやることができない──。
「どういうことですか? 獅子堂さんと剣一先生がクビになると聞こえたのですが」
柊だった。面と小手を取った状態のまま、息を切らせながらこちらの陣営に来ていた。
「おお、柊……いや、あのさ、実はアタシ……」
獅子堂がこれまでの流れのさわりを柊に話した。すると柊はため息を吐いて、
「そんな石頭だから、お母さんに離婚を突き付けられるのでしょう、お父さん」
なんてことを言い出しやがった。
「──は?」
その場にいた全員──理事長と柊を除いて──の声が揃う。
この人、えと確か苗字なんだっけ。いつも新理事長サマとか呼んでたから忘れた。
「この人は辻本 康平。そして私の前の名前は辻本 紗耶香です。私たちは親子です」
あ、そうだ。うわ、気付けよ俺。いくらあの時の感情がめちゃくちゃだったとはいえ。
ってか、理事長室で会った時にやけに睨んでくるなと思ったらそういうことか。娘の腕を折った野郎が目の前にいたらそりゃ全力で睨むわ。
「じゃ、じゃあ、親子でアタシらを──」
「そんなワケないでしょう。一緒にしないでください。私は今まで獅子堂さんと剣一先生がクビの危機に瀕しているだなんて知らなかったんです。何考えてるんですかお父さん」
「おまえが口を挟むな紗耶香。これは我が校の問題だ」
「へぇ? 私を前の高校から無理やり転校させたのもお父さんの仕業ですよね。娘にケガを負わせる指導者のところになんぞ置いておけない、って言って。私の意思関係なしに」
「それが今何の関係が──」
「また私から奪うんですか? 私の意思関係なしに。いい加減にしてください。お父さんのそういうところが嫌いで、私はまだマシなお母さんの方についていったんですから」
……柊が転校したのは、ケガではなくそれが理由だったのか。
「獅子堂さんを退学にするというのであれば、お母さんに出張ってもらいますよ」
「ちょ、ちょっと待て! それは止めてくれ。というかその前に、おまえはウチの学校の問題に直接関係はないと言っているだろうが」
「え、柊、おまえの母さん何者?」
「文部科学省の役員です。母の方が、父より権力があります。お父さん、これ以上横暴な真似をするようでしたら、こちらも出るとこ出ますよ」
まさかの国レベルの人だった! 思わず口をあんぐりと開いてしまう。
「ぬ、ぐ、ぐぅ……」
思わぬカードを切られ、呻く理事長。
「柊おまえ……どうしてそこまでして」
「獅子堂さん。私は認めてないんですよ。あの小手は外れていました。一本ではありません。なのに誤審で……私が勝った形になった。それが気に入らないんです」
柊は獅子堂の方を見ない。俺からも表情が見えない。
だが、拳を握り締めているのだけは分かった。
「だから、また戦ってください。それで確実に勝利したその時に……私は……」
俺を奪う、とは言わなかった。
「夏休み。私の地元である福岡で個人戦の剣道大会があります。それに出てください」
「……へッ、いいじゃん、アタシも納得いってねぇしな」
乗り気な獅子堂だが、そこに俺が待ったをかける。
「おいおいおい、ちょっと待て。勝手に進めるな。部活動の一環なら俺たちも──」
「いや、センセは来ないでくれ」
「なんでだよ」
「高校生にもなっていちいち保護者同伴とか恥ずかしいだろうがよ」
なんでそんなところを恥ずかしがるかな。
「そういうことです。女の子同士、胸襟を割ってとことんまで語り合いたいのです。なので剣一先生、無粋な真似はどうかご遠慮ください」
それと、と柊が父に向き合う。
「お父さん、あまり横暴な真似はしないように。学校は我が家ではありませんので」
鋭く睨みつけ、柊は「それでは」と言って立ち去ってしまった。
「柊ッ!」
その背に、俺は声を掛ける。彼女は立ち止まるが、振り向かなかった。
俺は、なんて声を掛けてやればいいのか……。
「先生、あなたの言葉は、今は受け取れません。決着がついた後でお聞かせください」
背中を向けたままそれだけを言い残し、柊は今度こそ自陣へと歩いていった。
理事長の方を向く。俺は一度息を吸って──、
「……お父さん」
「お父さんと呼ぶな殴り飛ばすぞ」
こっわ。それでもこれは言わねばなるまい。
「娘さんの腕、申し訳ございませんでした」
「フン、許すと思うか?」
俺を絞め殺したいだろうに、ここまでそんな私情をほとんど見せなかったこの人の魂の強さに脱帽する。許されるだなんて思ってない。ただ、俺は誠意を示すだけだ。
「いいえ。この責任は今後、償っていくつもりです。なので、もう少し時間をくれませんか。そしたら僕たちが、獅子堂が……学校の評判を変えるだけの実績を運んでくるんで」
「私は私の教育方針を変えることはない。この学校にとって癌となる存在は全て根絶やしにする。しかし……あの紗耶香が、あそこまで感情的になる相手、か……」
「え?」
「あの子は良くも悪くも天才だ。同期に敵はおらず、ただ蹂躙するだけだった……高校に入ったあたりから、変わり始めたがな」
それは、俺の指導が。
「あの子の感情を揺さぶる存在が、貴様であり……獅子堂なのだな」
「……僕に関しては、その」
「言うな。繰り返すが私はあの子の腕を折った貴様を許すつもりはない。しかし、行動で示せと言った。今後、あの子をも導くと言うのなら──」
「導きます。絶対に。命に代えても」
一呼吸も挟まない。これが俺の決断だ。俺の剣道で、みんなを、獅子堂を、柊を導く。
「……そうか。ならば、今度こそ私の期待を裏切るなよ」
「理事長、その、あなたは紗耶香さんを」
「親バカかね?」
「……いささか」
フッ、と理事長が小さく笑みを零した。へぇ、この人笑うんだ。
「いいだろう、獅子堂 愛奈に関して、今回は目を瞑ってやる」
獅子堂が息を呑んだ。ずっと黙りっぱなしだった雅坂や水瀬も息を吸った。
「だが、分かっているな? もしも天凛高校の評判を落とすような真似をしたら──」
「その時は監督責任ってことで、僕もクビにしてくださいよ」
「……フン、せいぜい長く勤められるよう、精進するんだな」
告げて、新理事長が立ち去ろうとする。
その後ろ姿を俺たちがじっと見つめていると、何かを思い出したように足を止め、
「そういえば、夏休みに娘と試合をするべく福岡へ行く予定らしいが──獅子堂、おまえ成績は大丈夫なのか? 赤点なんか取ったら試合どころじゃないぞ」
「あ」
「赤点も学校の評判を落とす要因になるからな。努々忘れるなよ」
ってことは、次の期末で赤点を取ったら獅子堂は……、
「獅子堂、勉強するぞ」
「嫌だァッッ!」
わっ、と頭を抱えて蹲る獅子堂を水瀬と雅坂が引き上げようとする。
「愛奈ッ」
すると、獅子堂母が娘の元へ駆け寄った。
「見てたわ。本当に、本当にすごかった……」
「お、お母さん……」
「そして、霧崎先生も、本当にありがとうございました。手の掛かる娘を、本当に……」
深々と頭を下げてくる獅子堂母。
「いえ、自分は指導力不足を痛感するばかりでした。退学を回避できたのは、紛れもなく娘さんの力です。いっぱい、褒めてあげてください」
はいっ! と力強く返事をして、獅子堂を抱き締める。
獅子堂も最初は抵抗していたが、やがて降参したように天井を向いた。
「お疲れさまでした、霧崎先生」
そう言いながら、狐島教頭が声を掛けてくる。
「どうも。とりあえずこれで……一難は去りましたかね」
「期末テストありますけどね」
「それはまぁ……」
「霧崎先生に剣道部を任せて良かったです」
唐突に、まっすぐな瞳を向けてそう言ってきた。
「これからも、剣道部を……よろしくお願いしますね」
「ええ。まぁ、僕のやれる限りで頑張りますよ」
そう言えば全部、この人の掌に転がされたことから始まったんだよなぁ。そんなことを考えながら、「お疲れさまでした」と頭を下げて去っていく狐島教頭を見つめていた。
「センセ」
残された三人に向き合う。問題児で、手が掛かって、クセが強い三人だ。
だけど──愛おしい、自慢の教え子たち。
「ああ、反省会は今度にしよう。とりあえず表彰式だ。行ってこいおまえら」
「「「はいっ!」」」
過去に縛られて蹲るのはもう終わり。俺は過去を背負って未来へ歩き出す決断をした。
過去は消えない。無くならない。いつまでも心の底にあり続ける。
一人で抱えるのはとても苦しい。
だけど、俺は独りじゃない。共に背負って歩んでくれる子たちがいる。
じゃあ俺は何をすればいい? 何をしてやればいい?
簡単だ。俺は指導者だ。教師だ。先生だ。コイツらの未来を──保証してやればいい。示してやればいい。それが、教師ってもんだろ?
俺ァおっさんだからな。ガキを守って育ててやるのが、
つくづく思うぜ。指導者って、めんどくせぇよなぁ。
いつまでも未練がましくポケットに入っているタバコを握り締め、今度こそ──捨てた。