激昂する柊。道場が震撼した。床も空気も、暴れ狂う龍神に怯えている。
爪が掌に食い込む。噛んだ唇から血が出そうだ。隣も雅坂も水瀬も、振り撒かれる脅威に震えて泣き出しそうな顔をしていた。
だけど──目を逸らさなかった。
「潰すッ! おまえは邪魔だ獅子堂 愛奈ッ! おまえという存在が、私から過去を、先生を奪い取るんだ! 私の剣を、私だけの剣を返せッッ!」
「……ったく、このバカ女がよォッ!」
──獅子と龍が、正面から衝突した。
両手を掴み合うかのような鍔迫り合いから、命を撒き散らす斬撃に飛び込んでいく。
一撃入るたびに、二人の顔が苦痛に歪んでいく。今飛んだのは血か。外れた打突が皮膚を裂き、二人の戦いを苛烈へと導いている。
負けるな、獅子堂。粘れ、獅子堂。俺たちは前に進むんだ。柊も連れて、皆で前に。
未来に進むんだ。過去の鎖を引きちぎって、今度こそ。
「勝て……」
俺たちの信じた道は間違ってないと、この瞬間に証明してくれ。
「勝ってくれ……」
──なんで俺は、おっさんになっちまったかなぁ。
情けねぇ。俺自身はここで正座するしかできなくて、剣を振ることはできなくて。
俺自身の手で掴み取れるものなんて、この場には何もない。それでも、じゃあアタシが代わりに背負ってやるよと、笑いながら突き進んでくれるヤツがいる。
ああ、そうか。そうだったんだ。
俺の願いを背負ってくれるヤツがいる限り、俺もあそこで一緒に戦ってんだ。
だから教え子が負けたら悔しいし、勝ったら自分のことのように嬉しい。
だから教え子のことが、愛おしく思えるんだろうな。
獅子堂。柊。どちらも俺の教え子だ。俺はおまえたちが笑ってくれる未来が欲しい。
その願いを背負ってくれるのは、今の俺の教え子たちで、獅子堂だ。
だから、なぁ柊。俺は思うんだよ。
この輪の中に、おまえもいたら、きっと楽しいだろうな、って。
「勝て、獅子堂ォオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッッ!」
だから俺は、俺たちは、おまえを倒すよ。
俺たちの歩む未来、その光の中におまえもいてほしいから。
「「あぁああああああああああああああああああああああああああああああああッッ!」」
無酸素の連撃が続く。されど、この斬り合いは長く続かなかった。
「あ、がぁ……」
「う、はぁ……」
両者の膝が笑う。まだ決定打はない。次に動いた方が、この勝負を制する──、
「あ、ぁあああああああッッ!」
獅子堂が左足で床を鳴らし、上段の構えを取る。
「──、」
瞬間、会場が凍り付いた。
柊の構えが、変わった。
両手での──中段。
「…………ッッ」
ぞぁっっ! と全身に悪寒が走る。
練習試合でたった一度だけみせた、一撃限りの柊の全開。
獅子堂があの一撃を忘れているはずがない。
勝負。ここが全ての分かれ目。雌雄を決する時──。
柊が動く。洗練された動きは、かつて俺が教えた柊の姿だった。
かつて誰も防ぐことのできなかった、疾風迅雷の一撃。
獅子堂が動く。決して怯えず、臆さず、堂々たる上段で。
──上段は別名、火の位と言う。
その構えが、まるで立ち昇る炎のように見えるからだそうだ。
上段の構えは諸刃の剣。一撃に全てを籠める代わりに、胴を曝け出し、防御を捨てている。しかし、相手が何をしてこようとこの炎は消してはならない。
感じる。獅子堂の心には……炎が宿っていた。
未来を照らす、希望の焔だ。
そうだ。導け。俺たちを──柊を、未来に導いてくれ。
俺はどこまでも、おまえと共に歩み続けよう。
両者の覇気が空間を支配する。一瞬後には命が散りそうな緊張感に、会場中が息を止めた。真剣勝負みたいだと誰かが呟いた。
水面に波紋が広がるように静かに、両者が動いた。
柊の突きが稲妻となる。獅子堂の打突が炎を纏う。
稲妻が炎を破る。炎が稲妻を焼き尽くす。
「……ッ」
瞬間、柊の竹刀の軌道が変わった。
突きと見せかけた小手打ち。獅子堂が先鋒戦で一本を取られた攻撃だ。
されど、獅子堂は飛び込んだ。突きに惑わされず、炎を纏ってまっすぐに。
乾いた炸裂音がした。獅子堂の右──肘から。
「ヒュッ……」
柊の喉が甲高い音を上げた。
疲労だ。最後の最後で、雅坂が掴み取った希望が、水瀬がつないだ希望が、柊の魂に限界を突き付けた。
柊の目が見開かれる。一本ではないと察したのだ。乾坤一擲ならぬ乾坤一斬に魂を懸けた柊に、迫り来る業火を躱す余力は残されていなかった。
「メェェェェアラァ────────────────────────────ッッ!」
獅子堂の打突が柊の面を捉えた。
拳を一際強く握り締めた。文句無しだ。勝った──、
「──あ?」
だが、目の前で上がった旗の色は、白だった。
白二本。赤一本。
「小手アリィッ!」
なんで。一瞬だけ疑問の文字が浮かんだが、審判の位置を見て愕然とした。
死角。上段の右小手は前にある左小手と違って、審判の位置次第では面の陰に隠れる。
ハッキリと見えなかった審判が、音と残心だけで判断したんだ。
「ウソ、だろ……」
今日の審判は、一本なのに一本じゃない判定が散見している。つまりそれは、裏を返せば質が悪いということだ。誤審に救われてきた俺たちが、今度は誤審に殺された。
剣道は審判の判定にケチをつけてはいけない。何があっても。なぜなら、剣道とは人格形成の道であり、勝敗に重きを置いているワケではないからだ。
分かってる。分かってるけど、これは、おい。
「そんなのって、ねぇよ」
呆然とする獅子堂が、ひどく、ひどく……小さく見えた。
俺たちは──負けた。