審判の合図が響くのと全く同時だった。
「「オォオオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッ!」」
両者の手に握られる竹刀が真剣に変わった。
殺す。その一念で刃を鍛え、研ぎ澄ませた打突が加速する。打突の軌道が交錯する頂点で切っ先が火花を散らせ、互いの打突を弾き合った。
「ぐぁ……ッ」
「チィ……ッ!」
逸れた打突が肩に命中する獅子堂。竹刀を弾かれリカバリーが遅れる柊。
体が衝突する。体格的には獅子堂の方が有利だが、下半身は柊の方が強かった。圧されることなく面金をぶつけ合う。先の一撃を称賛する拍手が道場内に鳴り響く中、二人の呼吸はやけに大きく聞こえた。
「……ッシャァアアアアッ!」
「イィ────アッ!」
威嚇するように気勢を漲らせる二人。邪魔だと言いたげに竹刀を拳ごと弾き合う。互いに有利を奪いたい。どちらの拳が相手の位置より高く取るかで流れは変わる。足を捌いて位置を変える。一挙一動がそのまま決戦の流れにつながる場面。
そこには二人の意思が溢れていた。
──過去を振り切り、未来を掴み取るため。
──忌々しい邪魔者を斬り伏せて、望むものを手に入れるため。
願いの方向は違えど、込める信念の大きさは同じ。故に譲らない。胸倉を掴み、弾かれ、掴み返すかのような拮抗は、片方のバランスが僅かに傾いたことで終わりを告げた。柊の重心が僅かに後ろへ寄った。
俺の見間違いじゃなければ、息を吸ったことで体幹から力が抜けたのだ。
「──ッ」
至近距離で見ている獅子堂がそれに気付いたかは分からない。しかし、野生の勘ともいえる獅子堂の直感がここで攻めろと吼えたに違いない。
手首の捻りだけで柊の竹刀を大きく弾く。追加と言わんばかりに柊の視界を獅子堂から見て右へ歪める。弾いた方向とは逆へ体を捌き、引き面を放つ。
「メェアッッ!」
本能的な部分か、それとも経験則か、柊は見えていなくても面を防いだ。残心を取ろうとした獅子堂が動作を切り替える。詰め寄る柊。諸手上段。片手上段。
獅子堂が動く。しかし、分かっているぞと言わんばかりに、柊が僅かな動作で獅子堂の先を打つ機会を封じる。
その躊躇こそが柊の狙い。止まった重心はすぐに動けない。マズいッ!
「小手ェェェアッ!」
遠くにある右小手を狙い打つ。鋭い音がした。俺の拳に力が入った。雅坂と水瀬が隣で小さく悲鳴を上げた。しかし、旗は上がらない。有効部位は僅かに逸れたようだ。
「柊が、今の機会を外した……」
そこに違和感を覚える。ヤツの打突の正確性はもはや精密機械だ。ほんの少しでも隙間があればねじ込むように打突を決めてくる。今のは決定打だった。なのに……。
「……効いてきてるな」
それしかない。俺が仕込んだ作戦に、柊が少しずつ蝕まれているのだ。
疲労。
柊の右片手上段の練度は、始めてわずか半年とは信じられないほど高い。
センスや執念、そういった柊が持っている剣道の才能があってこそだろうが、それでもどうしようもないものはある。肉体だ。筋肉や神経の発達は、簡単には起こらない。長い時間をかけて、鍛錬を重ね、そしてようやく体に結果が出てくる。
加えて先も述べたように連戦という状況に、精神的な負荷がさらに柊を削っている。
今や二人は、完全な互角と言っていい──。
獅子堂が機会を窺う。以前のようにすぐさま跳びかかるようなことはしない。どっしりと構えて、気魄だけで柊を威圧する。無論、柊も隙を探している。
獅子堂が狙うは柊の右小手。柊が狙うは獅子堂の左小手。
下手に獅子堂が飛び出せば、左手を斬り落とされて終わりだ。だが、柊も疲労が重なっている。もしも獲れなかったら──そういった思考が柊を躊躇させているだろう。
尺取り虫が進むようにゆっくりと、姿勢を変えずに足先だけでにじり寄る二人。
互いに間合いが可視化されているはずだ。有効部位がそこに触れたら──。
コンマ一秒も気を抜けないやり取り。これはまさしく真剣勝負だ。瞬き一つ挟んだら命が散る。そんな戦場に立ちながら、龍と獅子は一瞬を奪い合う。
二人の竹刀より先に、背後から立ち昇る覇気が形を成し、互いを食らい合う。
喉に牙を突き立て、体に爪を立てる。轟く咆哮がこちらまで委縮させてくる。
覇気が鎬を削ること数秒、動いたのは──獅子。
面に打つ起こりを見せ、次の瞬間、潜るように沈んだ。
低い! 限界まで集中を研ぎ澄ませていた柊の右手が動く。面を出小手で迎撃しようとしていたのだろう。想定外の動きで狙いを外されたことで歯を食いしばるのが見えた。
「ドォォォラァ──────────────ッッ!」
相手の腸まで切り裂かんとする胴打ち。柊が警戒していたことにより浮いた肚を打ち抜いた。柊の内臓が零れ落ちる錯覚を見た。上段相手に深く踏み込まないと打てない胴打ちなど頭になかったはずだ。
これは獲った──と確信して審判を見るが、赤い旗が一本だけだった。
「っつぁッ! 惜しい!」
「まだですわ! イケますわよ獅子堂さんッ!」
額を押さえる水瀬。発破をかける雅坂。
その二人の声に応えるように、獅子堂がすぐに振り返って上段を取る。
衝撃が腹にまで響いているのか、柊の動きが緩慢になる。
ここで決める──そう宣言するかのように獅子堂が吼えた。百獣の王の鬣が逆立つ。
今日一番の打突が飛び出した。柊が防御に回る。
柊の体重を支える足が少しずつ震えてきているのが分かった。削れている。
雅坂がつないだ希望が、水瀬が食らいついた執念が、すべてを背負った獅子堂の剣が、ついに柊という難攻不落の城を落とそうとしている。
続けて獅子堂が打突を放とうとした瞬間──、
「どう、して……」
柊が、呻くように声を漏らした。
「どうして
そして、崩れ落ちかけていた姿勢が再び気に満ちた。
加速する。かつてないほどの速度で。柊の打突が獅子堂の体を打ち抜いた。
「がぁ……ッ!」
「私にとって、先生はすべてだったッ! 私を見てくれない両親とは違って、先生は、私にまっすぐ向き合ってくれる人だった! 私のすべてだった!」
激しく喘鳴しながら、柊は打突を繰り出し続ける。まるで、泣き喚く子どものように。
「嬉しかった。この人のために剣を振ろうと、そう誓った……。なのに、あなたがァッ!」
「ああ……分かるぜ、あのおっさん、アホみたいにまっすぐぶつかってくるもんなぁッ!」
されど、獅子堂の覇気も共鳴するように密度を引き上げた。
打ち合い──なんて生易しい表現じゃ物足りない。斬り合い殺し合い、互いの命を燃やして一撃に魂を装填する。立ちふさがる因縁を粉砕するべく剣を加速させる。
「あの人と共にあり続ける……。
「おまえもさぁ、いつまでも過去に囚われてんじゃねぇよ!」
ガツンッ! と面金が激しい音を立ててぶつかった。
「センセ抱き締めて、時間止めて永遠に過ごすのがお望みか?」
「それが私の理想だ。愛する人と共に沈む。この傷がある限り、私の願いは在り続ける」
「その傷がセンセをがんじ絡めしてんだよ」
「嫌だ。逃がさない。私の手から先生が離れていくことは許さない!」
「だったらおまえも一緒に来いよ!」
獅子堂の体に力が籠もる。柊の体を弾き飛ばした。
「アタシらと一緒に──未来を歩めッッ!」
堂々たる上段の構えから、気炎万丈の打突が飛び出す。
「未来……? 未来だと?」
柊が何かを呟いた。瞬間だった。
「そんなもの、いらない」
純白の道着を纏う柊の体が、ドス黒い覇気に包まれた。
「私には、剣があればいい。過去に包まれていたらそれでいいッッ!」
それは神速。遠目から見ても認識できないほどの速度で獅子堂の打突を捌き、振り落とす要領で腸を掻っ捌いた。左胴を打つ通常の胴打ちとは逆の、返し逆胴──。
「ぐ……ッ」
「沈めばいい、溶ければいい。おまえたちは不純物なんだよ。先生を錆びつかせる不純物だ! 私という鞘と、先生という剣。それだけあれば至高だッ!」
俺を抱き締めて、蹲って動かない。耳を塞いで何も聞こえない。聞こうとしない。
今この瞬間が至高だと信じ切って、未来に進もうとせず停止を願う柊。
ああ、柊、おまえはそこまで俺を──。
「あの瞬間、時が停まればいいと思った。この瞬間が永遠になればいいと思った! 先生と共にあり続けるこの刹那こそが、私の追い求めた理想なんだと気付けたんだ!」
「じゃあおまえは、アタシには勝てねぇよ!」
ドス黒い覇気を、真正面から迎え撃つ獅子堂。
「過去を抱き締めて蹲ってるってこたぁ、成長しねぇってことだろ。それじゃあ成長し続けるアタシたちには勝てねぇ。ってか、矛盾してんじゃねぇか。過去に止まり続けるのが理想だってんなら、なんでおまえは右片手上段なんてやってんだよ」
「それは、先生に──」
「見てほしかったからだろ? 傷から立ち上がった自分を。まだ剣道してるって姿を、センセに見せて、見てほしかったんだろ?」
「……」
「ほら。おまえはその時点で前に進んでんだよ。歪だけどさ、踏み出してんだよ」
「ち、違う。私は、剣道をし続けることで、先生を」
「結局さ、人は生きてる限り前を向くしかねぇ。辛いよな。アタシだって左足やった時、マジで世界が終わったって錯覚したもん。前なんてそう簡単に向けるもんじゃないよな」
「うる、さい」
「センセもそうだった。おまえのことでずっと悩んでたよ。それでも、言ったよ。前に進みたいって。アタシたちと、おまえと……一緒にって」
そうだ。教えてやれ獅子堂。おまえは、俺たちは、前に進む決断をしたんだ。
過去も罪も、決して消えてはくれない。だから背負って進み続けるしかない。
それはとても辛い。背負ったものは重すぎて、一人ではとてもじゃないが抱えきれない。
でも、一人じゃないのならば。一緒に荷物を背負ってくれる人がいれば。
誰かと手を取り合えるのならば、
きっと。未来に歩むことも、怖くない。
それが俺たちの決断。俺たちにしかできない、剣道ならぬ剣導。
柊、感じてくれ。俺たちはおまえを──。
「うる……さい」
「行こう、柊。アタシたちは、おまえを救いたいんだよ」
「うるさいんだよ泥棒猫がぁあああああああああああああああああああああああッッ!」