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第36話:初心者の底力

 絶望的だ。すべては獅子堂がまず一勝することで俺の作戦は成り立っていた。

 だが、蓋を開けてみれば結果は真逆。最悪の遅れを取ることになった。残りは雅坂と水瀬。雅坂は初心者で、水瀬の相手はあの柊だ。


 ……でも、まだだ。まだ勝ちの目はある。指導者の俺がここで諦めてどうする。


「雅坂ッ! すまん、作戦は──」


 その後に続く言葉を、俺は言えなかった。

 出陣する雅坂の表情を見て、言葉が引っ込んでしまったからだ。


「ご心配なく。ワタクシは、必ず勝ちます」


 入れ替わるようにして獅子堂が戻ってくる。差し出された雅坂の拳も見えていないようだった。足取りが重い。面が俯いていた。


 中にある表情は……言葉では表現できないほど、絶望感に打ちのめされていた。


 俺と目が合った。瞬間、獅子堂が震えながら崩れ落ちた。


「あ、あ、アタ、アタシ……負け、そんな……ウソだ。ごめ、ごめんなさ……」


 面も取らず、うわ言のように支離滅裂な言葉を漏らしていた。自分が為さなければならない役割を果たせず、頭が混乱しているのだろう。


 落ち着かせるために、頭に手を置いてやる。獅子堂の脳天から足先まで震えていた。


「大丈夫だ獅子堂、まだ試合は終わってない」

「む、無理だろ」

「無理じゃない。なんで決めつける」

「だって……雅坂は初心者で、涼花の相手は柊だぞッ!」


 バッ、と面を外し、顔をくしゃくしゃにしながら俺を睨みつける。


「アタシのせいだ。アタシのせいで負けるんだ! アタシのせいでセンセはクビになっちまう! 腕が千切れても、足が捥げても勝たなくちゃ、いけなかったのに……」


 涙を流しながら、獅子堂が謝罪を漏らそうとした瞬間だった。


「獅子堂 愛奈ッッ!」


 瞬間、俺たちの意識の外から鋭い声が飛んできた。思わず上体がよろけた。

 誰かと思ったら、面と小手を着け終わった水瀬だった。


「なんで全部終わる前から勝ったの負けたの騒いどるん」

「……だ、だって」

「だってもクソもあらへんわ。ほならなんで雅坂さんは今戦っとるねん。俯く前に見てみろや。雅坂さんは戦っとんねん。戦っとんねん! チームの勝利のために!」


 水瀬が獅子堂の胸倉を掴んだ。あの水瀬が。予想してなかった行動に唖然とする。


「先生のためや、アンタのためや! まだ試合を諦めてへんから、全力振り絞って格上に勝とうとしとるんやろ! ウチもや! これから戦う言うのに士気下がること言うなや!」


 観客が沸いた。意識が試合に向く。白が一本上がった。危ない。雅坂が取られかけた。今も劣勢、しかし、面越しに見える雅坂の目は死んでいなかった。


「行け……諦めるな、雅坂……ッ」


 膝の上で握る拳に力が入る。


「……愛奈ちゃん。ウチは確かに柊さんより弱いかもしれへん」


 やけどな、と水瀬が続ける。


「それでも稽古してきたんや。愛奈ちゃんよりも一年、長くな」


 獅子堂の左足が壊れ、拗ねていた時期。その間、水瀬は大好きな幼馴染が戻ってくることを信じて、ずっと剣を振っていた。先輩方がいなくなっても、一人で。


「愛奈ちゃん覚えとる? ウチは小学生の頃いじめられとった。関西から転校してきて、関西弁がおかしい言うて男子がいじめてきた。やけど、愛奈ちゃんが蹴散らしてくれた」


「……そんなこと、あったな」


「そっからな、ウチにとって愛奈ちゃんはヒーローなんや。誰よりもかっこええ、誰よりも強い、そんなヒーローなんや」


 二人の会話は、試合で炸裂する打突音や気勢の声にかき消される。隣の俺もかろうじて言葉を拾える程度だ。周囲の人間には伝わっていないだろう。


 何十人もいる武道場の端で、二人は世界を切り離していた。


「そんなヒーローが、いなくなってまうかもしれへん。そんなこと、受け入れられるはずがないやん。やからウチは必死になって稽古した。ここまで来た……」


 やからさぁ、と呟いて水瀬が息を吸った。


「お願いやヒーロー、堂々としててや。一人で喚かんとってや。雅坂さんが負けたら、ウチが負けたら、そん時に喚いて。全部抱き締めたるから」


「涼花……」


 ──雅坂の竹刀が空を切る。胴を打ち抜かれる。一瞬ビクリと俺の肩が震えたが、旗はまたも一本。さっきから一本なのに一本じゃない判定が散見してるな。


 剣道の審判は機械じゃなく人間なので、曖昧になってしまうのは仕方ない。今はその判定に救われているしな。試合の局面すべてで息が詰まりそうだ。白線の内側にいる雅坂はとんでもない重圧だろう。その場に立っているのも辛いはずだ。


 だけど、俺は知ってるぞ雅坂。この二か月、おまえは練習試合で試した技をとにかく反復していた。打ち方、タイミング、残心……うんざりするほど稽古に付き合わされた。


 そして、今日の試合中……動画を見ていたな。

 詳しくは見えなかったが、映っていたのは今日の試合の光景だった。


 おそらくだが──今の相手、桜井高校の動画だったんじゃないか? 

 今もだ。目が死んでない。何かを狙っている。探るように、相手の情報を集めるように。


 俺は信じるぞ雅坂。初心者のおまえが最も研ぎ澄ませた牙を剥く瞬間を。


「……ッ」


 首を捻って打突を躱す。耳に当たったか。微かにバランスが崩れた。体当たりで弾き飛ばされるが、雅坂は白線ギリギリで持ち堪えた。歯を食いしばっている表情がこっちまで見えて来そうだった。踏ん張れ。負けるな。前を見ろ。おまえには見えているんだろう、その一瞬が。


 白線の際から脱出した雅坂が相手と正対する。相手の竹刀の切っ先が震えている。恐怖じゃない。ああやって餌のようにチラつかせて、集中を乱そうとしているのだ。


 対して雅坂は微動だにせず、ただひたすらに構え続ける。


「──雅坂」


 なんという威風堂々。初心者のおまえが、この土壇場でそこまで我慢できるとは。


 そうだ。それでいい。おまえが研ぎ澄ませてきた唯一の牙は、待っているだけじゃダメだ。相手を威圧するんだ。どんな小細工も無駄だぞと思わせろ。そして、その一瞬を相手から引きずり出すんだ。耐えろ、耐えろ。耐えろ雅坂。


 自然と、場内が静かになっていく。一瞬後に破裂しそうな緊張を感じているからだ。

 相手の切っ先が震える。震える。震える。


 そして──止まった。


「そこだッ!」


 思わず鋭く吼えていた。俺の声が届いていたのかは分からない。

 だが、雅坂の見ている一瞬と、俺がこの瞬間に思い描いていた一瞬は同じだった。


 相手の竹刀が振りかぶられる。面への軌道を描く。

 雅坂の面に当たる。


 それよりも早く、雅坂の小手打ち──出小手が相手の右手首に突き刺さった。


「コテェェ────────ッッ!」


 会心の音が場内を圧迫していた緊張感を破裂させた。

 獲った。反射的に拳を握った俺の確信は、赤の旗三本によって具現化した。


「小手アリぃッッ!」





 二本目が始まった直後に試合終了となった。雅坂の一本勝ちだ。


「よくやった雅坂ッ! 大金星だ!」

「せ、先生……ワタクシ、お役に……立てましたか……?」


 緊張の糸が切れたのか、ふらついた足取りで俺の元へ戻ってくる。


「ああ、ああ……最高だ。よく我慢した……よく耐えた……素晴らしいぞ雅坂」


 涙がこみあげてくる。まだ竹刀を握って三か月の子があれほど美しい小手打ちを放つなんて。しかし、確かに懸命に稽古していたのは知っているが、どうしてあんな完璧なタイミングを掴むことができたのか。


「……決勝で当たるので、桜井高校の試合を一回戦から撮っていましたの……柊さん以外の二人の試合を。何か癖はないかと、探していたんですわ」


「──まさか、竹刀を小刻みに動かす癖は」


「ええ……そうかもしれないと、思っておりました。先生は稽古の時、あんな風に竹刀を動かさなかったので、きっとこの人の癖なのだと……」


 先ほどの試合は、その癖が確信に至るまで耐えていたんだ。

 堪えて耐えて我慢して、そうしてようやく整った状況で研ぎ澄ましてきた牙を剥いた。


「うふふ……初勝利、ですわ……まだ、手に、打った感覚が残って──」


 手が震えている。やはり相当怖かったのだろう。負けたらもう終わりの極限状態で、こんな初心者がよくぞ……。これで感動しない方が無理だろうが。


「よくやった、ありがとう……ありがとう……ッ」

「先生、手を取ってくれるのは嬉しいですが、まだ試合は終わっておりませんの……いいんちょさんが、すべてを──」


 そうだ。水瀬。今この状況は一勝一敗、取得本数も同じ。この試合の結果が、そのままこの決勝の結果だ。顔を上げると、水瀬は俺たちに背を向けて小さく跳ねていた。


「水瀬……」

「雅坂さん、マジでナイスやったで。後はウチに任せぇ」


「ええ、お願いしますわ……いいんちょさん」

「委員長、や」


 そう言って水瀬が一歩踏み出した時だった。

 愛奈ちゃん、と水瀬が首だけ獅子堂に向けた。

 面で表情は見えなかったが、たぶん……笑ってた。


「見とってや。あの日助けてもらった恩を、今返すから」


 そうして、大和撫子は一人舞台へ立つ。全ての命運を背負って。

 相対するは──最強の隻腕剣士。


「……まさか、私が直接手を下すことになろうとは」

「いやぁ、好都合やわぁ。ホンマムカついとってん自分には」


 水瀬が小さく跳ねながら呟いた。


「小判鮫ナメとると、首噛み千切られるで」

「ほざけ。雑魚如きが龍の首を獲れるものですか」

「試してみるか? メンヘラ」


 ごき、と柊の首が鳴った。

 空気が凍る。その鎮まった世界に熱を入れるように、


「──始めッ」


 大将戦が、幕を開けた。



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