季節が巡り、雨とカタツムリとアジサイが風物詩になり始めるこのころ。
蒸し暑さにシャツの襟を緩めながら武道館の前で生徒を待つ。生憎の雨だ。コンクリートの濡れた匂いが登って来る。一定のリズムで垂れ落ちてくる滴の音を塗り潰すように、元気のいい女子の声がした。
「あ、いたいた! おーいセンセ!」
獅子堂だ。黒い傘を差しながら、スーツケース型の防具袋を転がしてやってくる。獅子堂の背後にはビニール傘を差した春瀬と雅坂もいた。
「「おはようございます、先生!」」
「おうセンセ! よく寝たか?」
「おはよう。三人とも体調とか大丈夫か?」
問題ないです、と答える三人。
「すでにトーナメント表が貼り出されていた。全部で十六校だ」
「柊の野郎とはどこで当たるんだよ」
「おあつらえ向きに決勝だ」
っしゃい! とガッツポーズを決める獅子堂。
「うん、やっぱりそこやないとな」と春瀬。
「しかし、まずは勝ち上がらないといけませんね」
「その通りだ雅坂、浮かれてる馬鹿堂は置いといて、目の前の一戦一戦を大事にだな」
「おい、誰が馬と鹿だって? あたしゃ獅子だ! ライオンだゴラァ!」
下からガンを飛ばしてくる。口笛を吹いて躱した。
明後日の方向を見ていると、何やら黒塗りの高級そうな車がやってきた。
「ここでいい」
そう言いながら現れたのは、深緑のスーツに坊主頭の鉄面皮……新理事長サマだった。
「おやおやこれはこれは。我が天凛高校の新しい理事長じゃないすか」
「……霧崎 剣一か」
「どーも。お勤めご苦労さんです。まさか剣道にご興味がおありで?」
「私は君たちがクビになる瞬間を見届けに来たのだよ」
「わざわざ足を運ぶあたり律儀なこって。殊勝な心遣いに涙がちょちょぎれそうですわ」
新理事長の元から離れ、愛すべき教え子三人の元へ歩み寄る。
「勝てるのかね?」
「ぶっちゃけ五分でしょうね。ですが、十分いけると思いますよ」
「ならば期待しておこう」
そんな乾いた応援は初めて聞いたね。感激で心が奮えますわ。
いつもなら愛想笑いを浮かべて「ありがとうございます」とか言うところだろうが、
「まぁ見てってくださいや。これが俺流の指導──剣道ならぬ
行くぞおまえら、と声を掛けると、三人は大きな声で返事をして後をついてきた。
自動ドアが開く。中には既にたくさんの剣士がいた。色とりどりの竹刀袋が背の高い花畑に見える。さて、受付を──と歩を進めた時だった。
「こんにちは。剣一先生。お待ちしておりました」
横から声を掛けられた。この鈴を転がしたような凛とした声──間違えるはずがない。
柊 紗耶香。今日も不気味な笑顔を浮かべていた。後ろの三人に緊張が走った。
「……剣一先生、今日はいつもに増して随分と精悍な顔つきですね。なにかありましたか?」
「ああ、ちっと気合いを入れ直したんだ」
「そうですか。その表情を見ていると、共に稽古した日々を思い出します」
柊の笑顔が少し、歪んだ。
「剣を交え、汗を交わし、心すら通わせているあの感覚は、今でも昨日のように思い出せます。つながっているかのように心地よかった。まさに一心同体、と言うべきでしたね」
「そうかもな」
「私の名前は紗耶香。そしてあなたは剣一。私たちは剣と鞘なのです。ならば、分かたれていることの方が不自然でしょう?」
「……俺は」
「うふふ、遠慮なさらずともいいのです。今日が終われば、あなたは私の──」
柊の指が俺の頬を撫でようとした、瞬間。
「人のセンセに手ぇ出すなっての」
ガシ、と横から獅子堂が柊の手を掴んだ。
「獅子堂さん、あなたは本当に私の邪魔をするのが好きですね」
「オメーがいちいちアタシの癪に障んだよ、柊ィ」
覇気が衝突する。漆黒と純白。決して相容れない両極の覇気が食らい合う。
しかし、柊はまともに相手をするつもりがないのか、微かに目を細めて手を振り払う。
「まぁ、いいです。愛に障害はつきものですから。あなたを潰し、天凛を粉砕し、剣一先生を私のモノにします。私の剣は、私の鞘に納まるのです」
「意味分かんねぇこと言ってんじゃねぇぞ。頭メルヘンか?」
「女の子はみんな夢見がちなんですよ。野蛮なあなたとは違ってね」
獅子堂の拳が握られていく。五秒後には火山が噴火するな。ったく、この問題児どもが。
「いい加減にしろおまえら。煽るな柊。乗るな獅子堂」
「はい。申し訳ございません、剣一先生」
「チッ。今すぐコイツの沸いた頭をぶっ飛ばしゃいいのによ」
「……獅子堂、おまえは立派な剣道部員だ。言いたいことがあるなら試合で、竹刀で語れ」
わぁってるよ、とぶっきらぼうながらに従う。
「そして、柊」
「はい、なんでしょうか」
後ろで手を組み、小首を傾げながら俺の言葉を待つ柊。主人の命令を待つ犬のようだ。
分かってる。痛いほど分かってる。
柊は俺を慕ってくれている。
その在り方はひどく歪かもしれないが、コイツはコイツなりに、まっすぐに俺に好意をぶつけてくれているんだ。
「俺はおまえのモノにはならない。俺たちは、おまえを倒すよ」
「────」
柊の瞳孔が、開いた。
「そしておまえも未来へ連れていく。ああ、ケガ負わせたヤツが何を傲慢言ってんだって話だよな。分かってる。でも、だからこそ、中途半端なことはしねぇ。全力でおまえに勝つ。そんでおまえを引っ張り上げてやる。それが、おまえにしてやれる、俺の誠意──」
「ああ、なるほど! 私があなたの鞘に相応しいか見極めようとしているんですね」
俺の言葉を遮るように、柊は手を打った。
「そうですよね。だって、全力の猫畜生を倒さないと、私はあなたの鞘に相応しくありませんものね。つまりこういうことでしょう? そこの邪魔者から俺を連れ去ってくれと」
「違う、柊。俺は──」
「その後もお任せください。すぐ我が桜井高校への転任手続きを済ませ、雑魚に関する全ての記憶を消去しましょう。ご安心ください、痛くはしません。そしてあなたが私以外に目を向けないように、そうですね、足の指先を切断し、目を抉って首輪で繋いで──」
「柊ッッ!」
静まり返る。館内ではお静かに、という看板が見えた。
「もう話すことはない。決勝で会おう」
瞳孔の開いた目が、ずっと俺を見つめている。
絶対零度の笑顔が、俺に向けられている。
かりかり。かりかり。かりかり。
何の音だ? と眼球だけで音の発信源を見ると、
「──……」
柊が、左腕の傷を搔いていた。
やがて、大きく首を傾けた。人形の首が折れ曲がるかのようだった。
柊の視線の先には、獅子堂がいた。
「……てやる」
魂の芯から底冷えするような言葉と共に、柊は踵を返した。
聞こえなかった部分は、明かさない方がよさそうだ。
全身から冷や汗が噴き出た。後ろで見ていた春瀬と雅坂が、俺に寄り添ってくれた。
「フゥ──…………」
アイツを壊しちまったのは、俺だ。
俺がアイツを、怪物にしちまったんだ。
その責任は取らねばならない。ただ、一緒に奈落へ落ちるのではなく。
「勝つんだ……勝って、アイツも俺も、前に進むために」
それが、今の俺がアイツにしてやれる指導──剣導だから。