剣道場まで引っ張られた俺は、そのまま投げられるようにして地面を転がった。
愛奈ちゃん、と叫びながら春瀬と雅坂もやってくる。
「いっっってぇ……耳が千切れるかと思ったぞこの野郎」
「おっさん、昨日からずっとウジウジウジウジしてるよな。それって、……えっと、今は柊だっけ、アイツのせいか? アイツが──」
「……ああ、そうだよ。俺が前の高校で腕を折った生徒ってのは、柊のことだ」
「なるほどな」と頷きながら獅子堂がメイド姿で腕を組む。
「過去のトラウマが目の前に現れて、メンタルやられたってことか」
その通りだ。春瀬も雅坂も、どう声を掛ければいいか分からない様子だ。
「なぁ、おっさん。アタシと柊、どっちが好きだ?」
「な、いきなり何聞いてんだおまえっ!」
床に尻もちをつきながら反論するが、獅子堂の目はいたって真剣だった。
「……、……選べるワケ、ねぇだろ」
今となってはどっちも大事な生徒だ。差別することはできない。
分かってる。だが、どうしても柊への罪悪感と責任が、俺に獅子堂を選ぶことを迷わせている。心の内側から語り掛けてくるのだ。過去の清算もできていないのに、何をのうのうと幸せになろうとしている──前に進もうとしているのか、と。
「おまえに柊を重ねていたのは事実だ。おまえをケガから救ってやることで、柊にしてやれなかったことを果たそうとしていた」
「だろうな。いや、ずっと不思議だったんだ。どうしてアタシみたいな問題児にお節介焼くんだろうって。誰にでもそんな偽善面すんのかな、って」
でも、違ったんだな。と獅子堂は言葉を続ける。
「だからアンタは、アタシに踏み込んできたんだな……」
「……身代わりにするような真似して、すまなかった」
「いいよ、別に。アタシが気に入らねぇのはそこじゃねぇし」
言うや否や、獅子堂は俺の胸倉を掴んで引き寄せた。
「アタシがイラついてんのはな、アタシに未来の可能性を信じさせたアンタが、一番過去に囚われて蹲ってるっていう事実だよ」
皺の寄った眉間が、視界に広がった。
「アンタ言ったよな。アタシの剣には可能性があるって、未来があるって。だから剣の道を諦めるな──そう言ったよな。過去に囚われるな、って」
「ああ、言った」
「じゃあなんでアンタが過去に囚われてんだよ! アイツは前の学校での教え子だったかもしれねぇが、今はアタシたちだろうが! 過去の女に未練たらたらなダメ男か! 見てくれよ、アタシたちを! 過去じゃなくて、今のアタシたちを見ろよ!」
心が痛い。まさしくその通りだ。でも、でも──。
「分かってる、分かってんだよッ! 一度指導者を辞めた俺が、どういうことかおまえたちを指導することになって! おまえたちに剣道を教えているうちに……抱いちまったんだよ、未来を、可能性を! 俺はもう一度子どもに剣道を教えてもいいのか、って思っちまった! 前に進んでもいいのか、って希望を持っちまった!」
光に手を伸ばそうとした。閉じこもっていた殻を破ろうとした。
「でもダメなんだよ! 俺は責任を果たしてねぇ、大人としてするべき贖罪を何もやってねぇ! 柊の腕は、俺が壊した! その事実は消えない! なら、俺がどうして柊を忘れて前を向ける? アイツは俺にずっと執着しているというのに!」
それを思い出してしまったら、俺は。
「前を向けねぇんだよ」
向いてはいけない。
「アイツを救ってやれていない。こんな後ろめたさを抱えてたら、未来溢れるおまえたちに指導なんかできないんだ」
だから、俺は蹲る。過去の鎖に雁字搦めにされて。
「おまえたちを剣で導くことなんか、できやしねぇ」
それでいい、それでいいんだ。だって俺は……アラサーのおっさんだ。夢見がちな子どもじゃない。希望や可能性に胸をときめかせる時代はとっくに過ぎ去った。責任と重圧と義務と。やらなければならない社会の鎖に縛られて、俺は辛うじて生きている。
死んだように生きている。生きているのに死んでいる。
芯もなく風に流される紫煙みたいに、俺は。
そんな感覚を胸に溶け込ませながら、俺はこの先を生きていく。
それが、可能性を奪ってしまった俺が為すべき、責任だから。
「俺は、もう──」
気管が震える。息が上ずった。鼻を啜って声を絞り出す。
獅子堂の顔が見えない。それは好都合だった。今の俺が、コイツの猛獣みたいに力強い瞳を見ることはできなかっただろうから。
おまえたちの指導を、辞める。そう言おうと、息を吸った瞬間だった。
「うるせぇええええええええええええええええええええええええええええええッッ!」
獅子堂が、噛みつかんとばかりに口を広げて叫んだ。
「知るかンな大人の理屈、ガキのアタシが分かるワケねぇだろ! アイツはツイてなかった、それだけだ! アンタだって、故意にケガ負わせるような屑じゃねぇっていい加減分かってんだよ! 不幸な事故だろうが! それで柊だってアンタを責め立てるようなことはしなかった、違うか? ただアイツはメンヘラ拗らせてるだけだろォがッッ!」
「お、おま……」
「勝手に絶望して勝手にヘコんで、勝手に離れようとしてんじゃねぇッ!」
獅子堂の拳が、俺の胸に当たる。
いや、拳じゃない。
心だ。獅子堂の。
何の飾り気もない剥き出しの心が、感情が、俺の胸に深く刺さる。
「アンタだろ、アタシに可能性があるって言ったのはよ! 散々仄めかせて、手を伸ばさせて、こんなところでそっぽ向いてんじゃねぇよ……導いたなら責任取れよ! あっちも中途半端で、こっちも中途半端で、いい大人がダセェ真似してんじゃねぇよ!」
何度も、何度も、獅子堂の透明な心が俺の腐り切った心を殴りつける。
軋む。響く。体という器で反響を繰り返し、消えそうになかった。
痛ぇ、痛ぇ。すまねぇ。すまねぇ。こんな腐った俺が、光り輝くおまえたちに触れようとしてすまなかった。本当に、俺なんかが思い上がってすまなかった。
「アンタじゃなきゃ嫌だ……」
やがて、獅子堂が額を俺の胸に当てた。
どん、と。小さな音だった。さっきまでの拳の方がよっぽど強かった。
でも、どうしてだろうか。その音の方が、深く心を震わせたのは。
「先生がいなくなるのは嫌だ……」
獅子堂が鼻を啜った。俺のシャツを握り締めた。
止め処ない感情が、俺を濡らした。
「過去に囚われるなよ先生。過去に足引っ張られてんじゃねぇよ。アンタが言ったことだろうが。前を見ろ、前に進め。泥に塗れても、それでも進めって!」
ああ、言ったな。自分でも思うわ。くっせぇ言葉だ。九十年代の熱血教師みてぇ。
バカらしい。誰よりも自分ができてねぇってのによ。
「大人たちはみんな、アタシを見放した。いつまでも立ち上がれないアタシを見限った。でもアンタは違った! それがたとえ身代わりだったとしても、アンタがまっすぐにぶつかってくれることが、アタシには嬉しかったんだよッッ!」
そうか。そう、だったのか。はは、なら。くっせぇこともたまには言ってみるもんだな。
もう、言う気力もねぇけどよ。
「だから、今度はアタシの番だ。アタシが、アンタの背中を押してやる」
ギッ、と獅子堂が猛獣の迫力を滲ませて俺を睨んだ。
「アンタがしたいことはなんだ……するべきことじゃねぇ。しなきゃいけないことじゃねぇ。義務とか責任とかどうでもいい。大人の都合なんざ知ったことか。アンタが、霧崎 剣一、アンタがしたいことはなんだよ! 言ってみろよッッ!」
俺の、したいこと……。
……なんだったかなぁ。ガキの頃は、日本一の剣士になるとか、そんなありきたりな夢を描いていた気がする。どこからだっけ。そんな青臭い夢を信じられなくなったのは。挫折なんて数えられないほどしてきた。試合なんて何度負けたか分からねぇ。勝った試合は数えられるのにな。ああ、でもそうだ。俺のいた高校は弱小だったし、俺だって全国に繋がる大会の個人戦を一つも勝ち上がれなかった。小さな小さな地方の大会で、三位になったくらいが限界だった。
でもそうだ。後輩だ。俺の代は人数が少なかったから、俺が部長をするしかなかった。俺より歴の長い後輩に舐められた。不満を裏で言われていたこともあった。でもやるしかなかった。高校から剣道を始めた初心者でも剣道を好きになれるよう、懸命に教えた。工夫した。失敗した。でも、俺が諦めたら後輩たちは道標を失くす。
それだけは避けたかった。
がむしゃらにやり続けて……俺たちは全国に繋がる大会の一回戦を、奇跡的な逆転勝利で突破したんだ。俺が大将で、俺が勝ったんだ。続く二回戦では、優勝候補の高校にボコボコにされたけどな。でも、みんな泣かなかった。清々しい思いで胸がいっぱいだった。今みたいな、クソを煮詰めて生まれたような煙で満ちてなんかいなかった。
卒業式だ。後輩たちがみんな、泣きながら礼を言ってくれた。大学に行っても剣道を続けると言った後輩もいた。今は知らないけど、きっと剣道を好きでいてくれてると思う。
ああ、そうだ。そっからだ。
俺が、剣道の先生になりたいと思ったのは。
俺の剣道をあったかいと言ってくれて、俺が離れることを寂しいと言ってくれて。
それがあったから、俺は剣道の先生になりたいと思うようになったんだ。
剣で人を導ける、そんな指導者になりたかった。
「俺は……」
だが、やがて俺は大人になって。社会の荒波に揉まれるうちに、何か大事なものを忘れてしまっていたのかもしれない。それは、義務とか責任とか、社会人として、大人として生きていくうえで不要だったから。不必要な荷物だったから。後ろ髪を引かれるように一度振り向くけど、見ないふりをした。
それでも、失ったワケじゃなかった。
心の奥底で、埃を被ったままでも在り続けたんだ。
それを──この問題児が、問題児たちが、思い出させてくれた。
希望として、照らし出してくれた。
子どものころ忘れた夢を思い出すように、手を伸ばした。
掴み取ってもいいのか? もう一度、抱き締めてもいいのか?
大人じゃなくて、かつて抱いた青臭い夢を。
「……、……たい」
無茶苦茶な夢を語ってもいいのか。
大人になっちまった。今更夢なんて恥ずかしくて言えたモンじゃない。だから胸の内に燻ぶっていたけど、失ったワケじゃなかった。
「前を向きたい……ッ」
過去も柵も、すべてを背負っても前へ。
俺の教え子全員が、幸せに剣道をしている未来を──。
「俺は──前に進みたい……ッ!」
だから、柊。俺はおまえを、おまえも、導きたい。
過去の傷に縛られて、未来に対して盲目になっている、おまえを。
そんなものを抱き締めて蹲るな。立ち上がって前に進もう。
俺にそんなことを言う資格はない。でも、それでも、この場だけでも言っていいのなら。
俺が指導してきた子どもたちがみんな、楽しそうに剣道している未来の絵を、描きたい。
「柊も一緒に、おまえたちと一緒に、未来へ進みたい……ッッ」
「……おっさん……」
ボロボロと涙をこぼす獅子堂が、俺の頭を抱き締めた。
練習試合の時の柊とは違う、力強い抱擁。優しく溶かすのではなく、強く固めるように。
「ああ、進もうぜ……アンタが望むのなら、アイツも、アタシと、アタシたちと一緒に」
気付けば、獅子堂も包み込まれていた。
春瀬と、雅坂の二人によって、俺たちは固く抱き締められていた。
「──そのためにはさ、
「でも、愛奈ちゃんだけじゃ勝てへんやろ?」
「勝負は団体戦……三人ですものね」
そうだ、その通りだ。俺たちは、一人で過去に立ち向かうんじゃない。
「ああ。俺たちの力で……柊を倒す。そして優勝する。俺たち剣道部が学校の評判に貢献できると知れば、あの新しい理事長だって獅子堂をおいそれと退学にはできねぇはずだ」
だから、やるしかない。
「おっさん……いや、センセ。やろうぜ、稽古。本気の本気でよ。センセの剣道で……アタシらを導いてくれよ」
「霧崎先生って、今まで防具着けて稽古してくれへんかったもんな」
「今となっては、柊さんとの一件がトラウマだったからと分かりますが……」
もうそんな腑抜けたことは言ってられない。猶予は二か月。その間に仕上げなければ、獅子堂は退学になってしまう。だから──俺は、纏わなきゃいけない。
あの日から身に着けるまいと決めた、防具を。
「やるぞ、おまえたち。こっから二か月……地獄の稽古だ。ついてこれるか?」
「へっ、当たり前だろうが!」
「もちろん、望むところですわ」
「むしろウェルカムやで」
三人は瞼を腫れさせながら、力強く頷く。
力が漲ってくる。前を向くのに必要な力が──全身に宿る。
三人が「今すぐやるぞ」と言いながら道着に着替えるべく、更衣室へ突撃した。
その様子を後ろから見つめてから、顔を上げた。
……何度も浴びた、照明の光。安い白物家電だ。
でも、その光が、とてつもなく眩しく見えた。
「柊……俺は、おまえを導くよ。
無茶苦茶だと言われてもしょうがない。でも、俺のやりたいことはそれだから。
「そのために、おまえを倒す。それが今の俺にできる……誠意の示し方だ」