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第26話:罪の重さ

 獅子堂が上段に構える。圧倒的な高身長と鋭い体捌き、そして稽古の積み重ねが凝縮した打突を搭載して、柊と相対する。並みの剣士ならば構えを見ただけで臆するだろう。


 対して、柊が取った構えは俺たちだけではなく、見ていた他校の選手たちも驚かせた。


 右片手上段。


 ……柊、おまえ、そんな苦難の選択をしてまで。

「な、なんですのあの構え……」

「隻腕の剣士が使う構えだ。竹刀の操作から打突、リカバリーまですべて片腕で行う」

「両手で素振りをしてもあんなに肩が辛いのに……すべて、片手で?」


 そうだ。竹刀は重い。何年も剣道をやってれば重さを感じなくなるが、それは諸手でずっと稽古を重ねた場合だ。柊はそうじゃない。アイツが片腕の剣士になってまだ半年も経っていないはずだ。それなのに、ここまで磨き上げられた構えを完成させるか。


 構えの練度は強さの表れだ。始まる前の蹲踞を見ただけで強さが分かるとまで言われている。条件は獅子堂が有利かもしれないが、構えを見るとその有利も覆される気がする。


「獅子堂──……」


 気を引き締めろ、と言おうとするが、言葉が出ない。

 俺の中で、どちらの指導者であるのかの踏ん切りがついていないのだ。


 くそが、情けねぇ──歯を食いしばった瞬間、獅子堂が飛び掛かった。

 しかし、柊は構えを崩すことなく足を捌いて躱した。マジか。獅子堂はまだ習得し切ってないとはいえ、打突の速度自体は全国レベルにも引けを取らないぞ。


 だが、柊はものともしない。残心を取り切って振り返る瞬間を狙って、柊が竹刀を始動させる。気のせいだろうか、柊の右腕が膨張したような気がした。


「コテェェェ──────────ッッ!」


 白い稲妻が迸った。獅子堂が上段に構え直すその一瞬を狙って、柊の小手打ちが炸裂した。胸より高い位置に小手があれば、右だけではなく左の小手も有効になる。


「ぐぁ……ッッ」


 獅子堂の左腕が落ちる。力が入らないのか、竹刀を落としてしまった。


「赤、反則一回!」


「反則?」と尋ねるのは雅坂だ。


「剣道の反則は竹刀を落とす、場外に出る、とかだ。相手の行動による結果でも、やられた方の反則になる。二回で一本……四回で二本負けだ」


 中には相手から竹刀を剥ぎ取るような技もあるのだが、ここでは割愛する。


「が、ぁ……この、」

「早く構えてください。二本目を始めましょう」


 呻く獅子堂に、欠片も慈悲を感じさせない冷徹な声が突き刺さる。


 ──強すぎる。全く見えなかった。


 獅子堂は諸手で、打突の際は得意な左腕で振っているのだ。しかし、柊は片手。しかも竹刀を振る方の手ではない右手で振ってあの速度。どれほどの修練を積んできたのか。


「こ、この……野郎……ッ」と呻く獅子堂。


「私は剣一先生に感謝しているんです。ここまでの振りを手に入れたのは、あの人に刻まれた傷があったからこそ……」


 その結果──柊は。


「愛は、不可能を超越するんですよ、獅子堂さん」


 二本目が始まる。

 獅子堂が上段を取る。しかし、左腕のダメージが影響しているのか、構えが崩れていた。


「ぐ、あぁッ!」


 されど、獅子堂は諦めない。性能の落ちた左腕でも、必死に勝利を掴むべく竹刀を振るうが、柊は軽くいなす。獅子堂の体が流れる。されど、すぐに体を捌いて危険域から離脱する。柊が間合いを詰める間に、獅子堂が上段を作る。


「……左足、本当に治ってるみたいで良かったですね」

「あぁ?」


「でも、治るってことは、体から消えるってことなんですよ。私はそれが──嫌なだけ」


 柊が、構えを下ろす。何をするつもりだ──と目を見張ると、彼女は信じられない行動に出た。両手で中段に構え直した。


「なッ……おまえ、左腕は!」


 叫ぶが、届くはずもない。


「一度きりです。剣一先生に目を掛けてもらっているからこその、特別ですよ」

「この……ねじ伏せたらぁッ」


 獅子堂が出る。柊が動く。俺は、どっちに手を伸ばせばいい──。


「メ……ッ」「突いたァァ────────────────ッッ!」


 横に疾走した雷光が、漆黒の猛獣の喉を貫いた。

 獅子堂が上体を仰け反る。倒れまいと堪えていたが……やがて、床に沈んだ。


「突きアリィッッ!」





 完敗だった。獅子堂の敗北を皮切りに、雅坂も春瀬も何もできずに二本負けとなった。


「剣一先生」


 圧倒的な敗戦に打ちのめされていると、柊がやってきた。


「テメッ……」と獅子堂が立ち上がるが、柊は無視した。


「今日はありがとうございました。先生にも久しぶりに会えましたし、今の先生にとって私の代わりである獅子堂さんに会えたことも嬉しかったです」


 その言葉の意味を瞬時に察する。

 獅子堂は眉をひそめていたが、俺は柊が言おうとしていることが分かってしまう。


 やめてくれ、柊。そう縋ろうとして顔を上げるが、

 俺の心を逃がさないコイツは、許してはくれなかった。


「私は先生の手の届かないところへ行ってしまった。でも、忘れられなかったんですよね?」


 俺の本音が、暴かれる。


「そんなところに私と似た境遇の獅子堂さんが来たら、姿を重ねてしまうのも無理はありません。だから──今、苦悩しているのでしょう? 私と獅子堂さん、指導者としてどちらを選べばいいか、分からないから」


「やめてくれ」


「いいえ、やめません。もう幻想を追わなくていいんですよ剣一せ──」

「そこまでにしぃや、辻本さん」 


 柊が言葉を止める。春瀬が彼女の前に立ちふさがったからだ。


「……ふぅん。小判鮫が生意気に噛み付いてきますか」


 微かに苛立ちを滲ませながら、柊が「まぁいいです」と踵を返す。


「獅子堂さん、私はまた現れます。次はもう少し強くなっていてくださいね」


 そして、剣一先生と告げて、笑顔で俺の顔を覗き込み、


「私は、あなたを逃がすつもりはありませんから」


 柊はそれだけを告げて、頭を下げて立ち去った。誰も何も言えない。力が抜けたように項垂れていたが、獅子堂だけは拳が白くなるまで握り締めて歯を食いしばっていた。


「クソ……クソォッッ! おい、おっさん! もっと稽古すんぞ! あのクソ女、次会ったらぶっ飛ばしてやる! 顧問なら付き合えよな!」


 俺の胸倉を掴んでぶつけどころのない感情を撒き散らす。獅子堂のやるせない怒りを真正面から受けるが、それでも、俺の心は燃え上がらなかった。


 柊のあの強さは、間違いなく地獄のような稽古を潜り抜けた結果に辿り着いた境地だ。俺が指導に対して消極的になっている間に、アイツは俺のいないところで必死に戦っていたんだ。なのに俺は、柊から目を逸らして、代わりを探して贖罪を果たそうとしていた。


 柊を忘れようとしていた。


 そして、いざ柊と相対したら自分の犯した罪の重さを再認識して潰れてやがる。

 なんだおまえ? 何がしたいんだ? 何を一丁前に獅子堂を指導するとか考えてやがった。


 柊を忘れて新しく踏み出そうとしていた自分が腹立たしければ、獅子堂を結局のところ柊の代わりにしか見ていなかった自分にも吐き気がする。


 ああ、そうだった。俺は何を思い上がっていたんだ。俺に剣道を指導する資格なんざあるワケねぇだろ。


 俺は柊の腕を折った。たとえ今の柊が剣道を続けていたとしても、その事実は消えない。消えないのだから、背負い続けるしかない。


 新しく踏み出すなんて希望に満ちた未来、考えるだけで罪深いのだ。





 ポケットに手を入れた。

 あの時に握り潰したはずのタバコが、入っていた。





「……ちょっと一服してくる」


 その時の、失望に満ちた獅子堂の顔は、たぶん一生忘れられない。


 すまねぇ。すまねぇ。俺は──未来溢れるおまえを、おまえたちを指導できない。

 おまえたちを導いてやれない。そんな資格はない。


 かつて教え子の腕を折った俺が誰かに剣道を教えるなんて、どの面提げてやれってんだ。



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