二試合目が終わった。試合の結果、雅坂が二本負け。春瀬と獅子堂が一本勝ち。スコア2-1で俺たちが勝ったらしい。
なぜ『らしい』かというと、指導者失格なのだが俺の意識はもはやそれどころではなく、試合なんぞ微塵も頭に入ってこなかったからだ。
「よっしゃぁ! ちょっと相手すばしっこかったけど、調子上がってきたら取れたぜ!」
「ウチは、う~ん……もっと自分のペースでやれたかなぁ、って」
「ワタクシは、お恥ずかしながら何もできませんでしたわ……」
「いやいや、雅坂さんは自分から打ててたで! 稽古してきた面打ちをしっかり出しとったから。全然問題あらへんよ~。ね、先生!」
春瀬の眩しい笑顔で、ようやく俺の頭が覚醒した。
「あ、ああ。そうだな。最初から勝てるヤツなんかいない。大丈夫だよ雅坂。まずは稽古で学んだことをしっかりと実践する。それでいいんだ」
当たり障りのないことを口にし、「それじゃあ、少し休憩だ」と言ってその場を解散する。
「ふぅ……」
一人で椅子に座る。頭の中は俺が腕を折った教え子──柊のことでいっぱいだった。
柊 紗耶香。かつて俺が指導していた高校の剣道部で、一年にして最強の女子部員。
先輩後輩教師問わず好かれていた。確か生徒会長もやってたんだっけか。圧倒的な人望と剣道の実力で、学校中から憧れと尊敬のまなざしをほしいままにしていた。
そんな彼女は、部活の時間によく俺に指導を
「剣道、やめたんじゃなかったのか……」
その呟きに込められた感情の色を、俺は説明できなかった。
安堵? 後ろめたさ? 喜び? 恐怖? 自分で自分が分からない。
「左腕は使えないはずだ。どうやって……」
とりあえず一服してぇ。やめたはずのタバコを探してポケットに手を入れると、
「私のことが気になりますか?」
いきなり背後から声がした。
驚いて椅子から転げ落ちそうになる。
「あら、ひどい反応ですね。かつてはあんなに剣を交わした仲だというのに」
振り向くと、柊は膝を抱えてしゃがみ込みながら、俺の袖を摘まんでいた。
こうして見ると、馬鹿らしい感想だが本当に柊だった。
「……それは先生と生徒ではなくて、生徒同士で使う言葉だろう」
「ふふ、それもそうですね」と手の甲で口元を隠し、柊は上品に笑う。
「柊、おまえ……左腕は、大丈夫なのか?」
「左腕ですか?」
しまった。尋ねるのは軽率だったか、と思ったが。
「まともに動きません。ほら、傷跡もくっきりと」
する、と柊が左腕をめくってみせた。笑顔のまま。
「──……ッッ」
瞬間、強烈な吐き気。
柊の肘には、生涯消えないであろう傷跡が確と刻まれていた。
俺が負わせてしまった、傷。
「ああ、でも先生。気に病まないでください。私はあなたを責めるつもりはないんです」
思わず項垂れる俺の背中に手を当てながら、柊が優しく声を掛けてくる。
「う、ウソだ……俺は、おまえから剣を奪ったんだ。おまえに腕をへし折られても、俺に文句を言う筋合いはねぇ。俺は、それだけのことを……ッッ」
「本当に責めるつもりなんてないんですよ。だって、この腕には先生がいるんですから」
「──は?」
ふわり、と羽で包むかのように柔らかく俺の頭を抱きかかえ、
「これはあなたが私に付けてくれた、一生の傷でしょう?
感謝こそすれ、恨むことなんてありえませんよ」
理解不能な言葉を、発した。
しゃがみ込みながら……いや、その場に蹲りながら。
「……、…………な、あ?」
「この左腕の傷は先生が付けてくれた。だからずーっと先生と一緒なんです。剣道をしている時だけじゃない。寝ている時も、お風呂に入っている時も、ずっと一緒なんです」
何を、言っている?
「今までは寂しかったんです。学校でしか先生に会えなかったから。先生をずっと感じていたかったんです。どうにかできないかなとずっと考えてました。最初は先生の私物でよかった。でも、段々と満たされなくなっていくんです。寂しさが加速していったんです」
そうだ。確かコイツは、試合の前日に『お守り代わりに何かが欲しい』と俺の私物をねだってくる癖があった。そういった願掛けも分かるから、邪魔にならないのをあげてた。
あの時は、気恥ずかしさと一緒に、頼られているという仄かな嬉しさもあったけど。
「そんな時でした。あなたが私の腕に傷を付けてくれた。嬉しかったッ! これで先生とずっと一緒にいられる! 一生離れることはないって!」
──おぞましい。俺は今、途轍もなく深い闇に、抱き締められている。
「でもね、剣一先生。人の欲望って、止まらないんです。一つ満たされたら、もっと、もっとって欲しがっちゃうんです。私はそれが人一倍強いみたいなんです」
俺の頭を抱いたまま、柊が囁く。
ギチ、と。蟲が足を動かすような、生理的嫌悪を催す音がした。
それが柊の笑顔の音だと、信じたくなかった。
「先生もご存じでしょう? 私の家は躾が厳しかった。子どもの頃はみんなそうだと思ってたんですけど、中学、高校と進むにつれて何か違うと思うようになりました」
ああ、そうだ。コイツは確か門限が定められていた。確か夜の七時だったか。華の高校生には厳しい門限だ。
さらには剣道で少しだけ勉強とのバランスが崩れ、定期テストも順位が二位に落ちたというだけで次の日に頬を腫らしてきたことがあった……。
「規律正しく、品行方正、誰もが憧れるような、そんな存在になれと。人の上に立つのにふさわしい存在になれと、私はそう教育されてきました」
ある日の放課後、二人だけ残った道場で柊は言った。良い子になんかなりたくない、と。
「先生は言いましたよね? 好きに生きたらいい。我慢するな──って。私がどんな人間でも、先生は受け入れてくれるって!」
柊の力が、強くなる。まるで自分の中に俺を押し込むように。
「だから、我慢するのをやめました。いつも見てくれるあなたへの感謝も、想いも、すべて肯定して押し広げていい。あなたがそう言ってくれたら!」
急に力が緩んだ。柊の歪んだ笑みが視界に入る。
「だから剣一先生。私の──私だけの顧問になってください」
だが、これが、彼女を歪めてしまったこれこそが俺の罪ならば。
彼女の願いを断る権利は、俺には無い。
共に、奈落の底へ落ちていくしか、選べない。選んではいけない。
「……、…………ああ、俺、は」
すべてを投げ捨てて、破滅への道に足を踏み出そうとした瞬間、
「オイオイオイッ! 人の先生に何してんだテメェ!」
口調だけで分かる。犬歯を剥き出しにしている猛獣が、背後で立っている。
「……あら、不躾ですね、獅子堂 愛奈さん」
「──ッ、テメェは……」
柊が俺の頭を離す。解放された俺は再度椅子から転げ落ちそうになった。柊が立ち上がる。やはり笑顔だったが──目が微塵も笑っていなかった。
俺の両脇に、春瀬と雅坂が現れた。
「お久しぶりですね、獅子堂さん。剣道は辞めたと聞いていましたが」
「辻本ォ……相変わらずスカした面してんなァオイ」
何? 辻本? どういうことだ。コイツは柊だぞ。
「辻本さん……アンタ、苗字変わってたん?」
柊の防具に刻まれている名前を見ながら尋ねるのは春瀬だ。
そうか。春瀬と獅子堂は中学も同じだったから知ってるのか。
「ええ。中学から高校に上がる際に、両親が離婚しまして。今までは父方の姓でしたが、高校に上がってからは母方の姓に変わりました」
思い出した。獅子堂が中学の決勝で負けた相手は辻本という名前だった。
……まさか、獅子堂と柊の間に因縁があったなんて。
「あなたが、今の剣一先生の教え子なんですね、獅子堂さん」
「癪だけどな。一応、その汚ねぇヒゲのおっさんがアタシの顧問だ」
ヒゲが汚い、は余計だこの野郎。
「訂正してください。剣一先生のおヒゲは素敵です。毎日ゾリゾリ触りたいです」
「はぁ? なんだおまえ、変な性癖持って──」
獅子堂が小馬鹿にしたように柊を笑い飛ばすと、
「せやで愛奈ちゃん! 霧崎先生のヒゲはかっこええんや!」
「撤回してください獅子堂さん! いくら身内でも許しませんわ!」
「ええっ! アタシの味方ゼロかよっっ!」
仲間からも𠮟責されたことで獅子堂がショックを受けた。
「ぐ……ま、まぁ、ヒゲは何であれ、今このおっさんはアタシたちの顧問なんだよ。どした? まさかこのおっさんに惚の字とか言わねぇよなぁ、辻本のお嬢様よォ」
「……なるほど。あなたが──貴様が、私の剣一先生を誑かしたのですね」
空気が変わった。柊の顔から、笑顔が完全に消失した。
「次に行われる私たち桜井高校と、そちら天凛高校との試合が本日最後の練習試合です。先鋒で出なさい、獅子堂 愛奈。そこで力の差を見せつけてあげましょう」
「おー、上等だよ。叩きのめしてやるぜ」
「負けた時の言い訳を考えておくことをお勧めします。では」
柊が背を向け、そのまま歩き去っていく。
瞬間、獅子堂が地団駄を踏みながら喚き出した。
「クソがァッ! 中学を思い出しちまった! あの野郎、絶対にぶちのめしてやる! な、おっさん! あんなヤツぶっ飛ばしてやろうぜ!」
俺の胸に拳を突き出し、獅子堂が気合いを注入してくれるが、
「あ、ああ……そうだな」
歯切れの悪い返事しかできなかった。
クソ、なんでだ。もうタバコはやめたはずなのに、なんでこんな胸の内側に煙が溜まってるような不快感が渦巻いてやがる。呼吸するたびに体が蝕まれていく気がする。
その様子をおかしいと思ったのか、獅子堂が微かに首を傾げる。
「おい、おっさん──」
何かを言いかけるが、同時に俺たちの高校を呼ぶアナウンスが入った。
「チッ。しゃーねぇ。まぁ見てろよ。あんな過去の女に振り回されるこたぁねーぜ」
ちょちょいのちょいだ、と言いながら面を着けて試合の準備する獅子堂。
分かってる。指導者なら、今教えている子たちに集中するべきだ。
でも、でも、俺の中で沈殿していた罪悪感と柊への情が、今いるこの場の居心地をどうしても悪くする。試合上の反対側では桜井高校──柊が面を着けていた。
白を基調にした道着袴、小手と面、そして垂れ。柊という文字は黒で飾られていた。
血のように紅い胴。漆黒に染まっている獅子堂が昔ながらの侍ならば、柊は鮮やかな紅白で包まれている騎士だった。確か、本気の試合の時にしか着けないと言っていた装いだ。
アイツは、本気で俺たちをねじ伏せるつもりだ。
──試合が始まる。獅子堂と柊。今の教え子と、かつての教え子。
どっちだ。俺は、どっちの指導者であればいい──。
そんな俺の葛藤を待ってくれるはずもなく、試合が始まった。