「セァ──────────ッ!」
先鋒の春瀬が立ち上がり、気を漲らせながら前後に細かくステップを踏む。切っ先を揺らしながら、まるで釣りで使う疑似餌のように相手を誘い込む。だが、相手の選手は何度も右足で床を鳴らして威嚇していた。引っ掛からないぞという意思表示だ。
「いいんちょさん! 頑張ってくださいまし~っ!」
隣で面を着けた雅坂が声援を送る。しまった。言っておくのを忘れていた。
「雅坂。良い声援だ。応援したい気持ちは痛いほどよく分かる。しかしな、武道の応援っていうのは、声を張り上げるのは実はマナー違反なんだ」
「え、そうなんですの!?」
「厳密には拍手だけなんだよなぁ。アタシゃこの辺の伝統っていうかしきたりはつまんねぇと思うけどな。良い打突入ったら思い切り叫びたいぜ」
分かる。なんならこの『武道の応援は拍手のみ』ってのは無視されることも多々ある。たとえば全国の決勝とか。仲間が一本取ったらそりゃ叫びたくもなるよな、っていう。感情豊かな思春期の少年少女に声を上げるなはちょっと疑問に思う。
しかし、一応マナーはマナー。知らずに声を上げるか、知っててなお声を上げてしまうかはまた話が別だ。雅坂は「気を付けますわ」と口を押さえていた。
すると、歓声と共に拍手が鳴った。やっぱ歓声上げちゃうわな。
「……先生、どういうことですの」
「分かっているけど出ちゃう、みたいなもんだと思ってくれ」
意識を切り替えるために一度下を向いてから顔を上げる。春瀬が白線の外側にまで追い詰められていた。さっきから春瀬は自分の思い通りに剣道できていないな。駆け引きが苦手なのかもしれない。ふぅむ、今後はそういう稽古も取り入れていくか。
春瀬の試合が次の局面へ移る。腕を畳み、竹刀同士を立てる鍔迫り合い。この時漫画や創作物では力を込める描写が良くされているが、それは正しくない。
力を入れているということは、力を流される危険性があるからだ。力を流されたらバランスが崩れる。そうなれば格好の的だ。なので、剣道における鍔迫り合いは力を入れずに隙を探り合う。
互いに打つ機会がないと判断したのか、ゆっくりと鍔迫り合いを解いていく。この時、切っ先同士が完全に離れるまで下がらずに打突をしたら反則になる。
互いの切っ先が完全に離れた瞬間だった。
相手は集中が乱れたのか、不用意に手元を浮かせて前に飛び出した。
そこだ、春瀬ッ!
俺の念が通じたのかは分からないが、春瀬は俺の思った通りの打突を繰り出した。
「コテェェェ──────────ッッ!」
パコォンッ! 乾いた炸裂音が道場内に響いた。春瀬が相手の脇を抜けて残心を取る。
「小手アリィッ!」と三人の審判が同時に赤い旗を上げる。春瀬の小手アリだ。
「シャッ! ナイス涼花ァッ!」
「今のは綺麗に決まりましたわねッ! 小手、ですの?」
拍手をしながら興奮気味に騒ぐ獅子堂と雅坂。
「ああ。剣道の一本集とかでも四割くらいが今の技だろうよ。
出小手は代表的な出ばな技だ。相手が飛び出してくるのを待つ、というよりかは相手の打突を引きずり出してその出ばなを打ち抜くイメージ。
春瀬のヤツ、追い込まれた振りをして油断を誘ったのか? 大したヤツだ。
そのまま時間切れとなり、先鋒戦は春瀬が小手の一本勝ちを収めた。
「ナイス涼花ァ!」「ナイスファイトでしたわ、いいんちょさん!」
「おおきに~! 雅坂さんも頑張ってや!」
春瀬が雅坂に小手を突き出す。試合で次の仲間へのハイタッチ代わりだ。いいよなそれ。厳密にはマナー違反らしいけど、そんなことを注意するほど俺も野暮じゃない。
春瀬に勢いをもらった雅坂が小走りで試合場へ向かう。
「春瀬、いい試合だった」
「えへへ、ありがとうございますッ!」
「だが、機会はもっとあったはずだ。積極的に攻め込む戦法を身に着けるといい」
はい! と例のごとく良い返事をして着座し、防具を外す。
中堅戦が始まる。勢いが大事な先鋒戦とは違い、ここは勝負のターニングポイントになる地点だ。より堅実な実力者を配置するのが定石だが……、
「ま、三人戦だしな。ンなのはどうでもいい」
のびのびやってくればいい。相手の選手もどうやら初心者のようだ。周囲から見たら退屈かもしれないが、それでも初めての試合というのは生涯で一度切り。俺は見ているぞ雅坂。負けてもいい。思い切りやれ。
と思っていたら、雅坂が相手の面打ちを小手で狙おうとした。
しかし、雅坂の小手打ちは相手の竹刀の鍔に弾かれ、逆に面を取られてしまった。
「面アリ!」と審判の声が響く。
「アイツ、今出小手を狙ったな」
「タイミングは悪くなかったけどな。たぶん打突の時に右手を握ったろ」
獅子堂が同意する。小手打ちは右手を握ると、軌道が相手の竹刀に吸い込まれるように歪むので、面打ち以上に注意しなければならない。初めての技を前に体が固くなったんだろう。しかし、結果はどうあれ良いチャレンジ精神だ。そこはしっかり褒めてやらねば。
雅坂は胴打ちや引き技など、習った技をひたすら試していたが決定打にはならず、そのまま一本負けとなった。
「負けてしまいましたわ」
「ドンマイやで雅坂さん! ええ剣道やった!」
「そだぞー。いきなり出小手狙うとはいい度胸してんじゃねぇか」
春瀬と獅子堂がちょっとヘコんでいる雅坂に声を掛けている。
「雅坂、どうだ。初試合の感想は」
「すごく緊張しましたわ」
「だろうな」
「でも、今自分はこの舞台で戦っている、と思うと……すごく高揚してきました」
「ああ、それでいい。勝ち負けなんか気にするな。自分がもっとやってみたい、チャレンジしてみたい、そう思えたら万々歳だよ。出小手も良いチャレンジだった。今後の稽古でもっと技を教えてやるからな」
「はい、ありがとうございます」
綺麗にお辞儀をして、自分の位置に下がる雅坂。
さて、最後は獅子堂だ。アイツに関しては特に声を掛けることはないが……、
「獅子堂、足、ちゃんと伸ばしてるか?」
「あたぼーよ。毎日二時間のストレッチを欠かさねぇ女だぜ、アタシゃ」
ふむ。なら大丈夫か。
「間合いに気を付けろよ」
「あいあい」と手を振って試合場へ入る獅子堂。
始め、の合図が響いた瞬間、獅子堂は鋭い動作で上段に構え──、
「おるぁあああああああああああああああッッ!」
開幕早々、開始線から猛獣の如き跳躍で飛び掛かった。虚を突かれた相手が防御の形をとるよりも早く、獅子の牙が獲物の頭蓋を噛み砕いた。
「面アリィッ!」
一撃かよ。とんでもねぇバネしてんなアイツ。
しかし、最初は苦戦していた間合いの問題なんてまるでなかったかのようだ。
中段だと間合いは竹刀の剣先が相手の竹刀のどこにあるかで測ることが多い。それに比べて上段は竹刀同士が触れ合わないので、必然的に間合いを測るよりどころがなくなるのだ。なのにアイツは間合いを正確に捉えて打ち抜いた。
底なしの剣道センス。超人的な身体能力に加え、この成長速度でアイツは中学時代に県二位まで勝ち上がったのか。……逆に決勝で誰が勝ったんだよ、って思うわな。
名前なんだっけ? 確か……辻……。
と頭を捻っていたら、先の一撃で委縮してしまった相手を獅子堂が舌なめずりでもするかのように脅している。行くぞ行くぞと見せかけて相手の心がもたなくなるのを待ってやがる。うわぁ、相手に同情するわ。アレはプレッシャー半端ないぞ。
「じゃおらあああああああああああああああああッッ!」
面を打つと見せかけ、即座に軌道が切り替わる。小手打ちだ。
ズパァンッ! と痛そうな音が響き渡った。
相手は何かを堪えるように上体を曲げていたが、やがて竹刀を落としてしまった。
「小手アリィ!」
一分かかるまでもなく獅子堂の二本勝ち。マジで獅子が獲物を狩るみたいな手際だった。
「いぇーい、勝ったぜ!」
「瞬殺でしたわね」
「相手の子、泣いてたんちゃうか?」
多分泣いてたと思う。
「獅子堂、相手は上段に不慣れっぽかったらあんなにすんなりいったんだぞ。上段は片手で竹刀を振るう以上、一度躱されると後がキツイ。もっとタイミングを見極めてだな」
「開始直後や再開直後は一本が決まりやすい、剣道のセオリーだろ?」
「……それはそうだが、言ったろ。練習試合だ。おまえはどっしりと構えて威圧感を」
「やーだよめんどくせぇ。取れる時に取る! これがアタシの剣道だ!」
鼻息荒く胸を張る獅子堂。ったく、まぁ、自分なりの考えがあるなら良しとするか。
「分かったよ。しっかりクールダウンしとけ。すぐに二回目の試合が始まるからな」
はーい、と試合後だからかちょっと間延びした返事になる三人。
「アイス食おうぜ!」だの「愛奈ちゃん、中学の時にそれでお腹壊したやろ……」だの口々に言いながら遠ざかっていく背中を見つめる。
そういやぁ、昔こんな風に教え子たちの背中を見送ったことがあったな。
あれは……そうだ。あの高校の夏のことだ。部員たちにねだられて、渋々購買でアイスを買ってやったことがあった。あん時ぁ、楽しかったなぁ。
「俺は、前に歩み出してもいいのかな」
アイツらが眩しい。でも、俺もその光の中にいたい。
アイツらに剣道を教えるにつれて、未来に進みたいと、そう思うようになっていた。
「俺は……また指導者をやっていいのかな」
脳裏に、一人の少女が浮かんだ。
俺の、罪そのものが。
「なぁ、柊」
瞬間、
「──はい?」
と。俺の、背後から、
「今、名前をお呼びしましたか?」
懐かしい声がして、
「って、あら。あらあらあらあら。剣一先生じゃないですか。お久しぶりです」
ひょこ、っと。顔を覗かせてきた。無理やり俺の視界に入ってきた。
──アイツの髪は黒いポニーテールだった。長い、長い、腰まで届きそうなほど、長い。
いつも覗き込むようにして来ては、艶やかな髪を垂らしているのが印象的だった。
アイツはまっすぐに見つめてくる。
曇りないまなざしで。
信頼溢れる瞳で。
瞳孔の開いた、目で。
「会いたかったです、先生」
──過去は。