──本格的に稽古が始まって一か月が経った。中間テストも終わって今日から部活動が再開される。
この時期の保健体育の教師ってのはテストがないので暇……なワケがない。これからの授業計画や記録のまとめなど、やることがてんこ盛りだ。
さらに俺の場合、剣道部の問題児三人をどう稽古するかも考えねば。
砂のついたボールやコーン、少し汗臭いスポーツ用のウェアなどが散乱している体育教官室の片隅で、俺は剣道部の稽古メニューと向き合っていた。もたれたチェアが軋む。
「獅子堂はガツガツ攻めれるけど粗が目立つから、もっと一発を重視したスタイルを意識させるか。雅坂も防具や打突に慣れてきたみたいだし、試合をさせてみてもいいだろう」
それで、春瀬はと考えている時だった。「失礼します」と誰かが体育教官室に入ってきた。
「霧崎先生、剣道部の調子はいかがですか?」
「おや、狐島教頭。お疲れ様です。いやぁ、三人ともクセが強くてまとめるの大変ですよ」
「ふふ、でも、そうおっしゃりながらも口元は楽しそうですよ?」
そうだろうか。デスクの隣にある小さな鏡を覗き込むと、確かに少し口角が緩んでいた。自分で言うのもアレだが、俺の笑顔気持ち悪いな。
「先生方で噂になっています。最近の獅子堂さん、真面目に授業に出ていると」
「本当ですか? 獅子堂が?」
「はい。あの子、本来は真面目なんですよ。ただ、今までは……ほら」
「ああ、そうですね。自棄になっていたというか、いじけてたというか」
「まだ教師に反抗的な態度は取るそうですけどね。それにこの前の中間テストといい、成績や言動はちょっと眉をひそめるところはありますが」
「え、アイツ何点だったんですか?」
ス、と狐島教頭が目を逸らした。あのバカ。
「期末もこの調子だと、ちょっと夏休みが補習漬けになるかもしれません」
「……そうさせないよう努力します」
「お願いしますね」と言って狐島教頭が頭を下げる。
「ところで、先ほど霧崎先生へ折り返しのお電話がありましたが」
「そうでしたか、ありがとうございます。すぐに掛け直します」
狐島教頭に礼を言って、すぐに職員室へ向かうために立ち上がる。
「霧崎先生、どういった要件だったんですか?」
「練習試合ですよ。そろそろ実戦を経験させてみようかと」
街にある市民武道館。一階が受付および卓球場の施設となっていて、二階が柔道場、三階が剣道場となっている。受付に天凛高校の名前を伝えて用紙に必要事項を記入する。
「これから武道場に向かうぞ。今日は練習試合をしに来たかもしれんが、あくまで稽古だからな。交流も兼ねていることを忘れるな。だから他校の生徒に喧嘩売るなよ獅子堂」
「ンなことするワケねぇだろ」
「いや、しそうですわ」
「うん、愛奈ちゃんホンマにやめてや」
「なんだよおまえらっ!」
援護射撃ありがとう二人とも。ぶつくさと文句を垂れる獅子堂を無視して続ける。
「大事なのは礼。何度も言ってきたが道場と他校の生徒、そして指導者に挨拶を忘れるな」
「「はいっ!」」
「ったく、ガキじゃあるめぇし」
誰が生意気言ったかは割愛する。春瀬がソイツの頭にチョップを入れた。
「行くぞ。道場に入ったら柔軟、防具を着けてアップを始めろ」
剣道場の扉を開ける。中で充満していた藍染と汗の臭いが一気に開放された。
気勢を漲らせる甲高い声。竹刀同士が接触する乾いた音。かんしゃく玉が破裂したかのような踏み込みの音。そのすべてが魂を燃焼させている証拠だ。
ここまで届く熱気に思わず目を細めてしまう。久しぶりに体感したな、この空気。
指導を辞めると決めた時から、二度と味わうことはないと思っていたが。
俺の礼に合わせて三人も礼をする。さぁ、天凛高校のデビュー戦だ。
「おお、こんにちは。私は
スーツを着たちょっと小太りの先生が汗を拭きながら俺の方に来る。どこか無機質な笑顔を浮かべながら手を差し出してきた。握手で応じる。
「はい、どうぞよろしくお願いいたします。僕は天凛高校の霧崎と申します」
「ほほう、あの天凛ですか」
無機質な笑顔に、僅かな侮蔑が混ざったのを俺は見逃さなかった。
「……どういう意味でしょうか?」
「いやいや、剣道は喧嘩ではないと、しっかりご理解していただけているか心配でしてね」
後ろで獅子堂の舌打ちが聞こえた。「やめぇ」と春瀬が抑えているようだ。
「そうですね。剣道は喧嘩じゃない。竹刀は暴力の武器じゃない」
「ははは、話が分かりますね。さぞ指導も苦労されていることでしょう」
「ええ、本当に。コイツらは手を焼きますよ」
くい、と親指で背後の三人を差す。「むっ」と三人が口を尖らせたのが分かる。
「でもね」と握った手に力を込める。木原先生の顔が少しだけ歪んだ。
「まっすぐで真面目な子たちだ。外面だけで中身を見ないのは教師失格では?」
「……ほう」
握手を終える。果たしてこれを握手と呼んでよかったのかは分からないが。
「試合が楽しみですな」
「お互いにね」
歩き去っていく木原先生。はぁ、やれやれだ。これだから頭でっかちの大人は嫌なんだ。
「おい、おっさん」と獅子堂が後ろから声を掛けてくる。
「アタシらぜってぇ勝つからよ、あのデブジジイの吠え面を一緒に眺めようぜ」
春瀬も雅坂も強く頷いていた。
「……あのな。ムキになるな。これ稽古だから。練習試合だから」
真剣になってくれるのは嬉しいが、無茶だけはしないでね。頼むから。
「団体戦は本来五人だが、俺たちは最低人数の三人だ。先鋒、中堅、大将の順番。実際に三人戦という形式の大会もローカルではあるから、今日はそれで行くぞ」
「アタシゃ団体戦って好きになれねぇんだよな。結局個人戦を人数分やってるだけなのに、わざわざ団体で括るのが気に入らねぇ」
唐突に団体戦という概念に対してケチをつけ始める獅子堂。まぁ、言わんとしてることは分かる。チームだからといって、試合は結局一対一で進んでいくからだ。
チームスポーツとかだったら仲間のフォローとかが勝敗に関与するのだろうが、剣道や柔道といった個人競技にはそういった一面は確かに目立たない。
だが、団体戦には個人戦にない魅力がある。
「言ってることは間違ってない。全国大会の上位で固めてるチームがあればそこは最強だ」
「だろ?」と獅子堂がヘラヘラと笑う。
「だけどな、団体戦は……仲間の敗北を取り返すことができる。仲間内で役割を考えて、自分がどうするべきかを判断する。それがミソだ。まぁ、結局チーム全員が確実に勝てるくらい強ければ無駄な考えだが、そんなチームは滅多にない」
「アタシらがそうなればいいだけだろ?」
「まぁ、な」
なんつーか、やっぱ獅子堂って考え方が極端だな。ゼロか百か、みたいな。
「さて、話を戻すぞ。これからの試合で三人を先鋒、中堅、大将に分けるワケだが──」
「はいはいはい、アタシ大将!」
言い切る前に手を挙げる獅子堂。言うと思ったわ。
「何回か試合できるはずだから、全部やらせるつもりだ。まずは獅子堂が大将でいいか?」
「ええよー」「問題ないですわ」と二人が返してくれる。
「それじゃあ、先鋒が春瀬、雅坂が中堅。あとはローテーションで回すぞ」
はいっ! と返事をしてくれる三人。獅子堂は「おっしゃあぶちのめすぜ!」と鼻息荒くしながら試合場へ行こうとする。
「待て獅子堂。こっち来い。たすきを付ける」
「お、そうだったそうだった」
剣道は試合の時、背中の胴紐が交差しているところに紅白どちらかのたすきを付ける。審判の判定はその色で下すのだ。もう既に試合場には紅白の旗を持った審判が三人いる。
一列に並んでそれぞれの背中に付けてやってから、「行ってこい」と声を掛ける。
白線の中へ入っていく三人を正座で見届ける。
……やっぱ、教え子が試合の舞台に立つってのはなかなか感慨深いもんだ。
君は剣道の指導を続けるべきだ──あの校長が言っていたことを思い出す。
そうかもしれないっすね。まだ防具を着けて行う、実戦形式の稽古は怖くてできないけど、いつまでもそう言ってられないだろうな。
いつか、俺は指導者として完全に復活せねばなるまい。応援してくれている狐島教頭のためにも。娘を想う獅子堂の母のためにも。
そして、真剣に剣道に向き合ってくれている、あの三人のためにも。
「互いに、礼ッ」
審判の合図で選手たちが礼をする。
「「「お願いしますッ!」」」