翌日の放課後。春瀬と雅坂に挟まれて道場の扉を開けると、
「おっせーぞ、おっさん」と獅子堂が黒い道着姿で柔軟を行っていた。
「おまえ、最後の連絡の時にいないと思ったら」
「あんなの出るだけ無駄だろーが」
堂々と言い放つ姿にもはや感心すら覚える。思わず額に手を当てるが、もう獅子堂はこういうヤツだと認識するしかない。今日は一限から授業も全部出席したことだし、勘弁してやるか。
「まぁいい。とりあえず本格的に部活を始めるが、三人の当面の目標を用意しようと思う」
目標? と三人が口をそろえる。
「ああ。っつっても方針みたいなもんだ。雅坂はまず剣道に慣れること。春瀬は獅子堂の相手をしてもらうことになるが、獅子堂にまだ実戦はさせない」
「なんでだよ」
「おまえこれから上段に切り替えるんだろうが。上段の基本的なことを知らないでいきなり防具着けて実戦なんぞ言語道断だ」
「めんどくせっ」と舌を出す獅子堂だが、準備の重要性は理解しているようだ。それ以上文句は言わなかったし、先ほどから念入りなストレッチを欠かさない。
「そもそも上段の構えってどうやんだよ」
「中段の状態から左足を前に出し、竹刀を上に振り上げ、自分から見て右に少し傾けろ。だいたい角度は四十五度。左拳が左眉からちょい上あたりに来る状態が基本だ」
獅子堂の正面で上段の構えを取る。
「大事なのは腰を落とすことだ」
「あ? 上段って相手を威圧するためにでっかく見せんだろ? なんで縮こまるような」
「剣道は腰だ。腰が出なきゃ足が出ねぇ。だからおまえの打突は肚が浮いてんだよ」
「この……ッ、一言多いんだよ」
取られた返し胴を思い出したのか、腹を押さえて歯を食いしばる獅子堂。
「悔しかったらここで矯正しろ。無理に大きく見せようとせずとも、しっかり腰を落としどっしりと構えれば十分だ。特におまえはデカいんだから──」
「せーんせ、女子に『デカい』は禁句やで」
背中を軽く叩かれた。誰かと思ったら春瀬だ。
「背が高いって言いなぁ」
「お、おぉ……すまん」
しかし、獅子堂がそんな繊細なことを気にするかな? と思って横目で窺うと、予想と反して獅子堂は頬を膨らませていた。
「……どうせデカブツだよ、アタシゃ」
存外、気にしているようだった。
「悪かったよ。言い方に気を付ける。とりあえず後は足を開きすぎないことだ。これも中段と変わらんがな。形が分かったら足捌きをやるように。春瀬、付き合ってやってくれ」
「かしこまりっ!」「チッ、退屈だなぁ」
敬礼する春瀬。腕を組んでそっぽを向く獅子堂。
「そんで、雅坂にはこれだ」
どすん、と今朝に道場に置いていた黒い荷物を取り出す。
「これは……?」きょとんと雅坂が首を傾げる。
「道着と袴、そして防具だ。新品のな」
「こ、これをワタクシに?」
チャックを開けて防具を引っ張り出す。藍染の匂いが一気に解放された。うわ、懐かしいなこの匂い。新品の防具とか道着ってのは藍染が一番濃く染まってる時だから、その分匂いもすごいんだよな。苦手なヤツは苦手らしいが──、
「せ、先生からの……プレゼント、ですか」
「言い方はアレだが……まぁ、そうだな。剣道入門セットみたいなもんだ」
「先生すっご! これ全部で十万は超えとるやろ!」
「そんな高価ですのっ!?」と雅坂が口を押さえていた。
「ははは。いやいや安モンだよ。ちょうどセールやっててな」
大丈夫だ。せいぜい福沢諭吉のサッカーチームが消滅した程度でしかない。
……今月はモヤシ生活だな。
「先生……ワタクシ、ワタクシ」
寒い懐に手を突っ込んでいると、雅坂が手で口を覆いながら目に涙を浮かべていた。
「今まで色んな先s……男性からプレゼントをいただきましたが」
「サラッと自慢入ったなぁ雅坂オメー?」
「今先生って言おうとせんかったか? ん?」
二人のツッコミを雅坂は華麗にスルー。
「これほど嬉しいと思ったプレゼントはございません! 一生大事にしますわ!」
「いや、こき使ってやってくれよ。使い潰してくれた方が俺も嬉しい」
「でしたら、ワタクシの初体験は剣道着のまま道場で、というシチュエーションで」
「ハイハイハーイ! そこまで! それ以上はアウトや雅坂さぁーん!」
トリップしかけている雅坂の隣で春瀬が風紀委員の笛を吹く。
「え、なに。雅坂ってこんなやべぇヤツだったのか?」
「やべぇヤツ、っておまえが言えたモンじゃねぇけどな」
むしろ筆頭まであるんだがな、獅子堂。
「はぁ……春瀬、雅坂の着替えを手伝ってやれ。ついでに道着に着替えてこい」
「分かりましたっ!」
「あら、いいんちょさんと更衣室で二人きり、ですのね」
そうだけど、なんでそんな意味深な言い方を?
「ふむ、このシチュエーション……分厚い道着に覆われているからこそ際立つ女子の柔肌……即ちギャップ。そのギャップを、合法的に撫で回せるということですわね」
「何言ってんだおまえ」
「たとえ相手が女性であろうとも
「ホント何言ってんのおまえっ!」
出会った当初の品行方正っぷりが欠片も見当たらないんだが?
たぶんものすっごいテンションが上がってんだろうなぁ。頬が上気して興奮状態なのがよく分かるし。喜び方はアレだが、ここまで気に入ってくれたのなら福沢諭吉のサッカーチームを解体させただけの価値はあったようだ。
「なぁ、ウチ何されるん? なぁ、何されるん? なぁ」
自分が何されるのか分からず怯えている春瀬の肩を掴み、雅坂が軽く跳ねながら道着一式を持って更衣室へ向かう。剣道場に俺と獅子堂だけが残された。
「……やけに羽振りいいじゃねーか」
「雅坂は剣道初心者だしな。どの世界でもそうだが、初心者は大事にしなきゃダメだ。特に剣道みたいなマイナー武道はな。興味を持ってくれること自体が珍しいんだし」
「そうだけどさぁ……」と獅子堂はよく分からないむくれ方をしている。
なんだ? 近頃のガキはよく分かんねーな。
「教えてくれよ」
「あ?」
「上段! 教えてくれんだろ!」
むくれてたと思ったら、俺の胸を拳で叩いて言い放つ。
ほほう、やる気じゃねぇか。感心だな。
「ああ、んじゃさっき言った形で足捌きをやれ。話はそっからだ」
「着替えましたわ」
ツヤツヤとした顔で剣道場へ戻ってきた雅坂と、どこかやつれた貌の春瀬。
「おーう、戻ってきたか……って、しっかり似合ってるじゃねぇか」
サイズだけは気になっていたが、どうやら問題なさそうだ。
「まぁ、先生ったら……ありがとうございます」
「春瀬も着替えを手伝ってくれてありがとうな」
ぎこちない動作で春瀬が親指を立てる。道場内で一歩一歩確実に足捌きをしている獅子堂に声を掛け、三人を並べる。俺が先に着座し、手で合図して三人を座らせる。
「稽古を始める前に、黙想をして精神統一をする」
黙想をする理由は諸説あるが、日常から剣道に没頭する切り替えるため、というのが主な理由だ。他にも集中力を高めたり、今日の剣道での課題を思い浮かべたり様々だが、最も大事なのは心を落ち着かせる、ということだ。
「黙想ォォォ──────ッ!」
目を閉じ、道場の空気に自分を溶け込ませる。この時に吹き込んでくる涼しい風が好きだ。聞こえてくる小鳥の鳴き声が好きだ。ただ己の心に没入する。
この瞬間──道場にいる人の心は一つになっている。息を吸った鼻から、爽やかな熱気が突き抜けてくる。意識が切り替わる。日常から剣道へと。
「止めッ!」という俺の合図で、三人は黙想を解く。
「正面に、礼ッ!」
「「「お願いしますッ!」」」
揃った動作で座礼をする。獅子堂が加わり、これで三人。雅坂が剣道に慣れれば練習試合にも出られるだろう。剣道部としての活動を続けていけば──獅子堂の退学も撤回されるはずだ。
「よし。それじゃあ稽古を始めるぞ!」
俺の心を縛る鎖はまだ解けていないけれど、それもいつか、きっと。
自分でも分かる。俺は少しずつ……前を向けると、思っていた。