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第19話:再び剣を握るために

「クソッタレが! アイツ足速すぎだろ!」

「どこ行ったんやろ愛奈ちゃん」

「荷物は道場に置きっぱなしですから、そんなに遠くではないと思うのですが」


 全力疾走なんて何年ぶりだ。やはり体がおっさんになってやがる。呼吸がしんどい、足が重い。鉛で出来てるみたいだ。学生の頃はビュンビュン走り回ってたんだがなぁ……。


 とりあえず思いつくところは見たはずだが、それでも獅子堂は見つからなかった。


「どこだ、ったく……学校の外にいたら探しようがねぇぞ」


 最悪のパターンを考えたその時だった。


「先生っ! こっち!」


 春瀬が手招きして俺を呼ぶ。目立たない校舎の角から春瀬が奥を覗いていた。


「オラァッ!」


 光景より先に、男子の敵意溢れる声と、長物で空を切る音が聞こえてきた。まさか──


「あ……アイツ喧嘩してやがる……ッ」


 飛び込んできた光景に眩暈がする。獅子堂は道着姿のまま、不良の男子十数人と素手で喧嘩をしていたのだ。非常にまずい。この前の職員会議で喧嘩云々が問題視されたばっかりなのに。獅子堂がまた喧嘩した、なんて噂が立ったら取り返しがつかなくなる。


 今すぐ止めねば──と足を踏み出そうとした瞬間、


「先生、待てですわ」


 俺は犬か。そうツッコミたかったがしかし、雅坂が俺の袴をしっかりと握っていた。


「獅子堂さん……さっきから一度も拳を振るっていませんわ」


 何だと? 雅坂の発言にぎょっとして獅子堂を見る。

 獅子堂が攻撃を躱し、すぐさま反撃に転じようとするが、


「──……チッ」


 拳が止まった。何かを思い出して躊躇するように。攻撃ができないのならば躱し続けるしかない。だが、十数人もいる相手にそんなことが長続きするとは思えなかった。


「オイどうした獅子堂ッ! ポンポンペインですかぁッ!? でも関係ねぇ! ボコれる時にボコらせてもらうぜ恨むなよォッッ!」

「よく喋る口だなオイッ!」


 反論するが反撃はできない。獅子堂が少しずつ壁に追い込まれていく。


「アイツ、なんで殴り返さないんだ……」

「……道着」と春瀬が呟き、「道着を着とるから、やと思う」

「なに?」

「今の愛奈ちゃんはどっからどう見ても『剣道部員』や。もしそれで喧嘩なんかしたら」


 そういうことか。アイツは幼馴染である春瀬のために。

 やっぱりアイツ、優しいじゃんか。

 そう思ったら、体が勝手に動いていた。


「あ、先生ッ!」「危ないですわよッ!」


 生徒二人の制止を振り切り、俺は全身を晒す。


「何やってんだおまえらッ! 今すぐ止めろ!」


 シン、と場が静まり返る。


「……誰だあの野郎」「知らね。新任じゃね?」「だっる。ボコるか?」


 不良たちが剣吞な会話しているが無視だ。俺は目的の獅子堂に歩み寄る。


「行くぞ獅子堂。手は出してないな? 道場に戻るそ」


 壁に追い込まれた獅子堂の手を掴んで引っ張るが、獅子堂が「離せよッ!」と言って無理やり千切った。俺を睨みつける。


「邪魔すんじゃねぇよ……いちいち、いちいち絡んできやがってうぜぇな」

「そりゃあ構うさ。俺はおまえの担任だからな」

「余計なお世話なんだよッ!」


 獅子堂の荒い呼吸だけが木霊する。


「なんでなんだよ……なんでそんなにうぜぇんだよ」


 ぐずり出す子どものように、小さな声で悪態を吐く。

 俺は頭を掻きながら返した。


「何もできねぇ自分が嫌なんだよ」


 かつて俺が選手生命を絶ってしまった生徒。俺はあの子に何もしてやれなかった。


「あんな思いはもう……したくねぇ」


 だから、俺は。


「獅子堂、おまえの剣には可能性がある。未来がある。こんなところで捨てるんじゃねぇ」

「はぁ!? さっきの試合見てたら分かんだろ! アタシの打突は、もう……」


 それ以上は認めたくないのか、唇を噛んで言葉を塞いだ。

 だから俺は──そうやっていじけるコイツのケツを押してやるんだ。


「ああ、中段はな」

「だろ。もう左足が死んでる以上、アタシの剣道は──」

「上段だ」

「は……?」


 上段とは剣道の構えの一つだ。竹刀を頭上に構えたまま試合を行う攻撃特化の構え。胴も喉も晒す代わりに、剣道において最大の攻撃範囲と火力を誇る。


 この構えの特徴の一つに、姿勢があげられる。


「上段は中段とは違って左足が前で右足が後ろの半身になるんだ。おまえの左足が十分に跳べなくても関係ねぇ。まだ生きてる右足で跳べばいいんだからな」


 頭上から振り下ろすことにより絶大な威力を誇る上段は、背が高いほど間合いが広がり、有利になる。獅子堂は身長が百八十を超えているのだから上段を取るにはうってつけだ。


 しかし、女子にしては規格外の高身長を持っているにもかかわらず、獅子堂が上段を取らない理由はおそらく一つだ。


 上段は高校生以上にならないと公式試合で使ってはいけないという規則がある。


 中学の段階でアキレス腱を切ってしまったのならば、上段に触れるという発想すらなかっただろう。だから獅子堂は俺との勝負の時にも身長に似合わない中段を使っていたのだ。


「上段をやれ、獅子堂。そうすればおまえはまた剣道ができる。おまえの振りは間違いなく一級品だ。バカの一つ覚えで素振りしてきたんだろ? あの太刀筋が証拠だ」

「……ッ、知ったような口を」

「この手を見れば分かんだよ」


 獅子堂の手を掴む。目の高さまで持ち上げる。自然と獅子堂を壁に押し付けるような形になった。コイツのギラついていた瞳が今じゃ雨に打たれている犬のように潤んでいた。


「……こんなにボロボロになりやがって。どんだけ頑張ってきたんだよ、おまえ」


 獅子堂の手は、何度も皮膚がめくれて黄色く変色していた。女子特有のフニフニした手じゃない。岩のように硬く、針くらいなら刺しても痛みなど感じないだろう。


「俺はおまえの頑張りを否定したくねぇ。だから、また剣道やらねぇか? 俺がずっと、近くで見ていてやるからよ。おまえの未来の可能性を、俺が紡いでやる」


 獅子堂が沈黙する。俺の手を振り払おうとはしなかった。


「前を見ろ獅子堂。前に進め獅子堂! いつまでもケガを理由に蹲ってんじゃねぇ。泥に塗れてもなお、前に進むんだよ獅子堂 愛奈ッ!」


 獅子堂が息を呑んだ。くしゃりと歪んだ表情で、俺の目を見ていた。


「愛奈ちゃん」


 すると、いつの間に接近していたのか、春瀬が声を掛けてきた。雅坂も春瀬を守るように背後で立っていた。


 突如として出現した新たな人物に不良たちは驚いたのか、「うげっ」だの「やべぇ」だの少し焦ったようにざわついていた。……なんか変だな?


「なんでウチがこの学校でも剣道部に入ったと思う?」


 獅子堂は返事をしない。


「ずっと愛奈ちゃんを待ってたんや」


 ピクリ、と獅子堂の肩が僅かに震えた。


「ウチは愛奈ちゃんの剣、好きやもん。また稽古できたらええな、ってずっと思ってた」


 ──やから、また稽古しよ?


 春瀬が微かに涙を見せながら、おねだりするように小首を傾げた。

 あの時のあざとさは欠片もなく、ただ、友達を想う心があった。


「本当か……?」


 どれくらいの時間が経過したか、獅子堂がボソリと呟いた。


「本当に、アタシの未来に希望があるって、言ってくれるのか?」

「ああ。そりゃな。顧問になるんだしよ」

「まだアタシの剣道に可能性があるって、信じてくれんのか……?」

「当たり前だろ。俺はおまえの担任だ」


 獅子堂が顔を上げる。今にも泣き出しそうな表情で、言葉を絞り出した。




「アタシの背中を、押してくれるのか?」

「言うまでもねぇ。俺はおまえの──先生だからな。おまえの剣を導いてやる」




 獅子堂をまっすぐに見つめる。声に力を込めた。

 やがて、やがてゆっくりと獅子堂が頷いて……、


「オイオイオイオイッ! なんか先生と生徒の感動のドラマみたいなことしちゃってっけどさぁ、俺たちの存在忘れちゃってますぅ?」


 突如として首に医療用のコルセットを巻いた男子生徒が叫び出した。


 しまった。すっかり忘れてた。そういえばコイツはあの時に獅子堂に蹴り飛ばされてた原付の男だ。最近退院したのか。多分今日あたりで退学を言い渡されているはずだが。


「まだこっちは獅子堂との話が済んでないんすわ先生。邪魔すんなら新任早々、休職になってもらいますけどいいっすかぁ?」

「お、おっさん……」


 獅子堂が心配するような声を出した。チッ、参ったな。お茶を濁すこともできなさそうだ。しょうがない。事態も事態だ。ここでは教育的指導ということで目を瞑ってもらおう。


「舐めてもらっちゃ困るな小僧共……」


 ポリコレとか知ったこっちゃねぇ。


「特別に補習をしてやる。ご〇せんよろしく鉄拳指導を食らいやがれェッ!」


 俺の背後には可愛い教え子が三人いる。何を犠牲にしても今ここで守らねばならない。

 角材やらバットやらを持つ不良十数人に殴り掛かるが──、


「ぶべるぁぁッッ!」


 すぐに返り討ちに遭ってしまった。現実はどうやらご〇せんのようにはいかねぇらしい。


「いや弱ぇのかよッ!」


 獅子堂から手厳しいツッコミが入った。悔しいが言い返せん。


「ったく、しょーがねーな。剣道が強いかと思ったら喧嘩は弱ぇ。ワケ分かんね」


 涼花、と獅子堂が声を掛ける。え? 春瀬?


「ハイハイ。もー、ウチの権力を盾にするのやめぇーや」

「でもさ、おまえとしても見過ごせる状況じゃねぇだろ?」


「まぁ、ね」と言いながら獅子堂の隣に春瀬が立つ。


 彼女のブレザーの袖に深緑の腕章が取り付けられていた。書かれている文字は『風紀委員』──え、ちょっと待ってどういうこと?


「大丈夫ですか、霧崎先生」


 すると、地面で大の字になっている俺の隣に雅坂が来てくれた。


「ああ、まぁ……何とかな」

「良かったですわ。獅子堂さんを想う熱い心、立ち向かう勇気……ワタクシは非常に感動しました。感動しすぎて思わず軽く……んっ……」


 なんか頬を赤らめてやけに色っぽく身を捩っているけど、深く触れないでおこう。


「ってか、待て。春瀬が危ない……」

「ああ、霧崎先生はご存じなかったのですね」


 上体を起こそうとすると、雅坂は俺の肩に優しく手を置いて、


「春瀬 涼花──一年生の頃、みんなから親しみを込めていいんちょさんと呼ばれていましたの。彼女が一年生にして『風紀委員』の長になったのは、これが理由ですわ」


 これとは? いや、俺の中では分かっていた、答えは出ていた。

 だけど、頑なとして認めたくなかったのだ。この学校における唯一の良心がそうであってあたまるかと、駄々を捏ねていたから。


「ああ、涼花ってな」と、俺の問いに、獅子堂が答えた。


 春瀬を前にして怯え出す不良十数人を見つめながら。




「喧嘩ならアタシよりつえぇぞ。不良を粛清すること早一年、付いたあだ名はバイオレンスいいんちょ。教師も不良を抑えてるってことで黙認してらぁ」




 ──神は死んだ。慈悲はない。


「ほな、一身上の都合に基づき、風紀委員を実行しよか☆」


 ごき、と春瀬と獅子堂が拳を鳴らした。


 そこから先は、喧嘩ではなかった。粛清という名の、蹂躙だった。

 ああ、春瀬……おまえも……問題児だったの、か……。



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