──そこから一週間ほど、獅子堂を説得しようとしては無視されるもしくは強く突っぱねられるの繰り返しだった。クソ。あの問題児め、マジで強情だな……。
「いや、でもそれだけ根深いってことか……」
次はどうするか。考えながら道着に着替え、剣道場に足を運ぶ。
扉を開ける。飛び込んできた光景に、俺は目を剥いた。
剣道場の真ん中で、竹刀を持った獅子堂が漆黒の道着姿で俺に背を向けて立っていた。
「おまえ……」
とうとう剣道をする気に──
「おい、勘違いすんなよ。アタシは剣道部に入るつもりはねぇ」
なってくれたのか、という俺の幻想はあっけなく打ち砕かれた。
「いい加減、アタシもうんざりなんだよ。毎日毎日凝りもせずに誘ってきやがってさぁ。だから
「なに……?」
春瀬と雅坂が剣道場にやってくる。背後で驚いているのが分かった。
獅子堂が振り向いて、竹刀の切っ先を突き付けてくる。
「アタシが勝ったら二度とアタシを剣道部に誘うな」
「……俺が勝ったら?」
「そん時はしゃーなし入ってまた剣道してやるよ」
なるほどな。
「先生……」「霧崎先生……」
春瀬と雅坂が心配そうな目で俺を見つめる。
「防具はあんのか」
「自前のがあるよ。それよりも、やんのか、やんねぇのか、どっちだよ」
……ちょっとだけ、悩んだ。俺が過去にやらかした事故を思い返し、その時の原因を探る。指導をしないと決めたのは、あの事故の条件から遠く離れるためだった。
それを考えると、試合を始めとした勝負形式の稽古はするべきじゃない。
だが、この状況。やらないという選択肢を取ればコイツは絶対に剣道部に入らない。勝負を吹っ掛けられて逃げる指導者から学ぶものなどないと見限るだろう。
ったく、指導者ってのはここが面倒だ。おまえたちを指導するに相応しい存在だと、勝負でもいい、精神的にでも献身的にでもいい。そういう一面を見せることが重要になる。
ならば、俺の選択肢は一つしかなかった。
「……やるに決まってんだろ」
俺の両脇にいる二人が息を呑んだ。
「へっ、バカだなおっさん。タバコなんざ吸ってるようなヤツにアタシは負けねぇ。アタシは県内二位だぜ? これでこのうざってぇ日々から抜け出せるってんだ」
獅子堂が防具の前で着座し、テキパキとした動作で着け始める。
「先生、防具は……」と春瀬が気を使って聞いてくるが、俺は手で制する。
「……一身上の都合でな。俺は防具無しでやる」
「え?」「正気ですの?」
二人がぎょっと目を見開いた。
これが俺の打てる最善手。事故の条件から離れつつ、されど獅子堂の勝負からは逃げない方法だ。その代償として俺の安全は限りなく保証されないが。黒い道着と袴。そして竹刀だけ。あまりにも軽い出で立ちに獅子堂が握る竹刀を軋ませた。
「舐めてんのか?」
「そう見えたなら謝る。しかし、決しておまえ馬鹿にしているワケじゃない」
「どこがだよっ! どっからどう見てもアタシを舐めてんだろ! 女子だからって、ケガしてたからって……殺されても文句言うんじゃねぇぞ!」
「安心しろ。死んだら何も言えねぇから」
春瀬に審判を頼む。
「雅坂、ストップウォッチで時間を測ってくれ。これも勉強だ。試合時間は五分。三本勝負。春瀬が止め、と言ったり一本が決まったりしたら時計を一度止めるんだ」
「……分かりましたわ」
雅坂が備品を詰め込んでいる棚からストップウォッチを持ってくる。
試合場を示す白線の外側に立つ。正面に獅子堂を見据える。面越しでも分かる。アイツめっちゃキレてる。まぁ、普通に考えたら防具も着けずに試合とか何様だ、って話だよな。
でも悪いな。こっちも事情が事情なんだ。
一歩、白線の内側に大きく入り、礼をする。三歩すり足で進んで竹刀を抜く。開始線につま先を当て、竹刀の切っ先を相手に向けたまましゃがむ。蹲踞だ。
……改めて向き合うと、腹を空かせた獅子の檻に放り込まれたみてぇだな。
気を引き締めよう。息を吸う。外で男子が空き缶を蹴る音と笑い声が聞こえた。
「始めッ!」
俺と獅子堂とで二等辺三角形を作るような位置に立っている春瀬が、開始を宣言した。
同時だった。漆黒の獣が飛び掛かってくる。
「オラァアアアアアアアアアアアアッ!」
女子とは思えぬ鋭さで飛び出してくる。まっすぐに振り抜かれた太刀を見ただけで獅子堂の練度がハッキリと分かった。竹刀を振りかぶって振り下ろす──その動作は間違いなく一級品だ。
コイツの積み重ねた夥しい数の素振りを想像して背筋が震えた。
しかし、驚いたのは初見だけ。二の太刀からは、違和感を覚えた。
微かに、飛び出しに連動性がない。上半身の勢いに対して足が出遅れている。
竹刀の速度は十分。太刀筋にも乱れはない。しかし──届かない。軽く顎を引くだけで容易に安全圏へと避難できる。獅子堂の打突で空を切らせ、打ち終わって死に体となった竹刀を側面から打ち払う。
足腰のついてこれていない獅子堂の体が流れた。面ががら空きになる。
「ほれ」
スパンッ! と小気味いい音が鳴る。一瞬だけ春瀬が旗を上げかけたが、俺が残心を取り切っていないことを察知してすぐに旗を下げた。
「今のは一本ではないんですの?」
「雅坂さん、剣道には『気剣体の一致』っていうのがあるんや。単に竹刀を当てるだけやなくて、気が充実してるか、剣はしっかり振ってるか、体が入ってるかっていう基準が」
そうだ。今の俺は『気』の部分で重要な残心が不足している。よって一本にはならない。
っていうかしまったな。普通に三本勝負なのに、昔のクセで指導する感覚になっていた。
「この……舐めやがってェ!」
案の定、一本を取れたはずなのに取り切らなかった俺に獅子堂が怒りを露わにする。
憤慨しながら打ち込んでくるが、やはり上半身と下半身がバラバラだ。
「肚が浮いてるぞ獅子堂ッ!」
竹刀で受けて即座に胴を打ち抜く返し胴。面を着けていないから音が鼓膜に強く響いた。今度は残心までしっかり取り切る。獅子堂の脇を抜ける形で足を捌く。
「ど、胴アリッ!」
春瀬が俺に赤い旗を上げる。雅坂がハッとした様子でストップウォッチを止めた。
「い、今のは綺麗に決まりましたわね。鮮やかすぎて思わず見惚れてましたわ」
「剣道のカウンター、返し技ってヤツや。文句無しの一本やね」
春瀬の正確な解説に感心しながら、悔しそうに地団駄を踏む獅子堂の背に声を掛ける。
「獅子堂、やっぱケガか」
「チッ……っせぇんだよ。ケガはもう治ってんだ! もう走れるし跳ねれる!」
「でも、イメージ通りには動かない──だろ?」
スポーツや運動におけるケガはこれが怖い。
俺たちは人間だ。ロボットじゃない。ならば当然、心がある。恐怖心がある。
一度心に根付いた恐怖ってのはなかなか消えてくれない。ああ、痛いほど分かるぜ。上手く力が入らない感じ。打ち込もうとすると脳裏を過るんだ。またケガするんじゃないかって。あり得るはずのない囁きが筋肉を硬直させ、どうしても力をセーブしてしまう。
自分が一度ケガをした動きに酷似していればなおさらだ。
「まぐれで一本取ったからって調子に乗るなよヒゲ! アタシは……アタシはもう……」
「文句あるなら竹刀で語れ。タバコ吸って心肺機能ガタ落ちの俺はまだ息も切れてねぇぞ」
「黙れってんだよこの野郎ッッ!」
春瀬の合図を待たずに、獅子堂が飛び出してくる。また、上半身と下半身が連動できていないガタガタの体捌きで。
「クソ……クソがッ! もっと動ける! アタシは動ける! こんな剣道はアタシのやってきた剣道じゃねぇ! こんなクソみたいな剣は、アタシの剣じゃねぇんだ……ッ」
鍔迫り合い。獅子堂の必死の叫びが、表情が、面越しに俺の網膜に焼き付く。
どうしてなんだという心の呻きが、足掻きが俺の心の深くまで響いてくる。
「ああ……くそったれ。痛いほどよく分かるぜ」
「何がだよッ! 大人はみんなそうだよな! 上っ面だけ分かったフリしてよォッ!」
暴風の如き連打で俺の体を滅多打ちにしてくる。一本となる面、小手、胴、喉には触れさせはしないものの、それ以外の部位には竹刀が直撃する。肘が痺れてきた。
「先生ッ!」
「いや、大丈夫や……霧崎先生、とんでもないな」
獅子堂の連打を捌く俺を見ながら、春瀬が唸るように呟いた。
「直撃させないように捌くのはもちろんやけど……愛奈ちゃんの次への起点を全部潰しとる。愛奈ちゃんの思い通りにさせないように力を受け流しとるんや」
気付くか、春瀬。その通りだ。剣道には流れがある。厄介なのは一撃目を防いだ後でこっちの構えが崩れること。そうなると向こうからしたら隙だらけになる。
獅子堂の剣戟はまさしくそれだ。至近距離からの連続攻撃でこっちの構えの綻びを見出そうとしている。一瞬でも竹刀が体軸から外れたら額を割られるだろうな。
だが、そうはさせねぇ。おまえの気が乱れるまで鉄壁を敷かせてもらうぜ。
いやらしいと言ってくれるなよ。これがおまえにケガをさせない最善手なんだから──。
「こんなの……。こんなの間違ってんだよォッッ!」
獅子堂の声が、少しずつ涙声になってきた。
コイツがケガを負って以降身につけてなかった防具の重さや竹刀の感触が、どうしても過去の自分を思い出させているのだろう。眩しい過去に照らされ、真っ暗な闇の中で蹲る今の自分がどうしても浮き彫りになってしまうから。
分かる。分かるよ獅子堂。俺にはおまえの辛さがよく分かる。
俺だってあんな不幸を味わいたくなかった。どうしてと何度叫んだことか。
神を、運命を呪って家の中の物に当たり散らかしたさ。
こんなの間違ってる。こんなはずじゃない。俺は。俺は。俺は──。
そんな言い訳なんざ百どころか千も万もやってきた。
それでも、それでも何も変わらねぇんだよ獅子堂。蹲ってるだけじゃ、何も変わらねぇ。
可能性を、未来を信じて前に進むしかねぇんだよ。
……俺とは違っておまえはまだガキだ。無限の可能性に満ちた未来があるんだよ。こんなところで蹲ってその可能性をフイにするな。
自分で立ち上がれないならしょうがねぇ。
俺だって立ち上がれてねぇけどな、それでもおまえのケツを押すくらいはできるからよ。
俺がおまえを導いてやる。俺の剣道でな。
ああ、なんだ。あの校長が言ってたことも、あながちハズレてねぇな。
俺がするのは、剣道ならぬ
「うぁああああああああああああああああああああッ!」
獅子堂の癇癪じみた打突が迫る。軌道はグシャグシャで、洗練さからは遠くかけ離れた不細工な打突だ。だけど、その打突には……魂が宿っていた。
奈落の底でひとりぼっちで泣いている、少女の魂が。
だから、俺は。
ズバンッ! と鋭い炸裂音が脳内で木霊する。
「あッ……」「先生……ッ!」
意識の遠いところで春瀬と雅坂が喉を干上がらせるのを感じた。
視界に火花が散った。まともに見れねぇ。変な臭いがする。竹刀かこれは?
眉間が熱い。唇の横を何か液体が伝った。温かい。ああ、血か。
「お、おいおっさん……」
正面から獅子堂の戸惑った声がした。
だから俺は、自分の額をかち割った竹刀を右手で掴んだ。
「なッ……おい離せ! 反則だぞ!」
「獅子堂……俺はな」
離さない。獅子堂の竹刀から手を離さない。獅子堂の心から──手を、離さない。
「稽古の最中に、一番の教え子の腕を折ったんだ」
道場の時が停まる。
「その子は恐ろしく強かった、部の中で最強だった。まだ一年だったが全国も夢じゃないほどの逸材だった。試合の二日前さ。最後の調整で実戦形式の稽古を行った。相手は俺だった。正面から衝突した。その子は女子だった。俺の方が重かったから、俺が覆いかぶさるような形で転倒した。嫌な音がした。枯れ木の圧し折れるような音だった。大量の血が道着を染めた。その子は痙攣しながら悲鳴を上げた。そっからは覚えてねぇ」
獅子堂が面の奥で目を見開いたまま、凍り付いていた。
「左肘の骨折だった。剣道において左腕がどれほど重要かは知ってるだろ? 選手として再起するのは絶望的だと言われた。俺はその子に土下座した。その子は何も言わなかった。罵倒すらされなかった。挙句の果てには転校しちまった。もう二度と会えねぇだろう」
俺は、何もできなかった。何も。何も。
「じゃ、じゃあ……あんなしつこくアタシを誘ってたのは」
「……獅子堂、頼む。剣道部に入ってくれ。過去に囚われてんじゃねぇ。おまえにはまだ可能性があるんだ。ここで剣の道を諦めるんじゃねぇ。おまえには未来がある! おまえの全てを──俺に預けてくれ! そしたら俺が絶対に……おまえを幸せにしてみせる!」
なぁ、柊。あの時してやれなかった贖罪を、今度こそ。
「先生、それもはやプロポーズやで……」
「獅子堂さんが羨ましいですわ~。ワタクシも先生から言われてみたいですわ~」
春瀬と雅坂が背後で何か言っているがどうでもいい。
さぁ、どうだ獅子堂。俺の本気が伝わっただろう!
「うぅぅぅ、うがぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~ッッ!」
しかし、獅子堂は顔面を真っ赤にして叫び、渾身の右ストレートをぶちかましてきた。無論、躱せるはずもなく小手による頬へのキッスを甘んじて受けることになった。
「ぶべらぁっっ!」
「うるせぇこのロリコン野郎ぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」
獅子堂は脱兎のごとく駆けながら防具を放り投げ、道場から走り去った。
「ええええええええ愛奈ちゃんッ! ちょ、これ勝負どうなるん!」
「胴アリと面アリ……引き分けですの?」
「っくそ……ええい、どっちでもいい! いいから獅子堂を追うぞッ!」
割れた額の血を拭うのと頬を擦るので両腕が慌ただしいが急がねばなるまい。
獅子堂にもう一度──剣道をさせるために。
ケガを乗り越えて前へ、未来へ踏み出させるために。