「左手は柄頭……柄の先端だな。右手は鍔元。大事なのは小指と薬指に引っかけるような意識を持つことだ。中指と人差し指、そして親指はほぼ力を抜き、雑巾を絞るように握る」
「ぎゅ、っと握ってはいけませんの? そっちの方が力の入る気が……」
「雅坂さん、全部の指で握っちゃうとね。竹刀の動きの幅が狭まるんや」
春瀬が隣で力強く握った動きと力を抜いた動きの両方を実践してくれる。これはけっこう初心者あるあるというかよくある勘違いなのだが、竹刀を握っているのは小指と薬指の二本だけである。
やってみると分かるのだが、全部の指で握るより、小指と薬指の二本だけで握っている方が竹刀の可動範囲が違うのだ。
「……竹刀って意外と重いのですね」
「ああ。女子用は確か四百二十グラム以上が規定だ。五百ミリリットルの飲料水より軽いが、端を持って振るとなると相当重いだろ」
「はい。これは確かに……ダイエットにもなりそうですわね。ここに防具も着けるのでし
ょう? 道理でいいんちょさんはスリムだと思いましたわ」
「そ、そうかな~?」と言いつつ春瀬はくねくねと体を捩じっていた。
「雅坂、あの面に向かって左手で振り下ろすんだ。右はほぼ握らなくていい」
「どうしてですの? 両手で振った方が速いのでは?」
「左手は柄頭にあるだろ? そこが一番リーチを稼げる。だから竹刀は左手をメインにし
て振るんだ。右に力が入ってると、せっかく左手で伝えた力が乱れる。必要以上の力は体
を固くして、逆に剣の速度を遅くしちまう。だから大事なのは脱力。力を抜くことだ」
雅坂の疑問に答えてやると、「へぇ……」と感心したような返事をした。
「そして、脇を締めつつ振りかぶる──そうだ。左拳が額よりもちょっと上に来るくらい」
雅坂の握る竹刀の角度を調整してやる。
いいぞ、と竹刀から手を離すと、雅坂が「やぁッ!」と気合を入れて竹刀を振り下ろす。
しかし、動作を確認しながら振った竹刀は面を掠めて逸れていった。
「あ、あら?」
「「右手に力が入って(と)るな」」
左手の伝えた力が右手の力で歪んだのだ。初心者あるある。特に利き腕が右の人とかこ
ういったことはよく起こる。利き腕が左の人の方が振る感覚は体得しやすいんだよな。
俺の指示と春瀬の修正で少しずつ雅坂の体から力が抜けてきて──、
「せい、やッ!」
面の布に、綺麗な打突が命中した。
「ナイス打突~ッ! 良い一本や!」
「うまく当たると気持ちいいですわね」
「だろ。後は打った直後の一瞬だけ右手を握って、切っ先を上げてやるといい」
「なぜですの?」
「今は当たったが、実戦では当たらないこともある。そんな時、剣先が下に行ったままだ
と次の打突が出ないだろ? 反撃も防げない。次の動作への移行をスムーズにするために、
打突した後は軽く握ってやるんだ。素振りにも影響するぞ」
「……そういうことでしたのね。一回振るだけでも随分と意識することがありますのね」
「最初はなぁ。でも、慣れたら無意識にやれたりするで」
「頑張りますわ」
雅坂が胸の前で拳を握って気合を入れる。春瀬もやる気な新入部員を前にご機嫌なよう
だった。部員同士のコミュニケーションもあるだろうからちょっと席を外そうとしたら、
「む……?」
剣道場の窓の外に一瞬だけ何かが映った。見間違いじゃなければ明るい茶髪だった。も
しかしてと思った俺はゆっくりと窓の外を見る。そこにいたのは案の定、獅子堂だった。
「おう獅子堂。おまえもやってくか」
「うわっ! びっくりした! だ、誰がやるか!」
どうやら第三の作戦、『剣道楽しそうアタシも混ぜて混ぜて作戦』は功を奏したようだ。
「遠慮すんなって。おまえもいたら俺は雅坂の初心者講座に集中できるんだ」
「うるせー。アタシには関係ねー」
スタスタとこちらを振り向くことなく去ってしまう獅子堂。
……まぁ、一日でどうにかできたら春瀬がここまで苦労することもなかったわな。幸い、
まだ時間はある。雅坂も入部してくれた。前進はしてるんだから焦らなくてもいいか。
「明日も学校来いよ!」
小さくなっていく背中に声を掛ける。獅子堂はいつも通り無視した。
でも、なんとなく俺には分かった。その背中からは寂しさが滲んでいることに。