「まずは礼だ。剣道は稽古を始める前に礼をし、稽古が終わったら礼をする。礼に始まり、礼に終わる。それが武道だ。相手への敬意を示すんだ。だからこそ、中学とか高校では武道が必須科目になっているんだがな」
教師が必ずと言っていいほど触れることになる学習指導要領の保健体育、その中の武道の欄にはこんな感じで記載されている。武道に積極的に取り組むとともに、相手を尊重し、伝統的な行動の仕方を守ろうとすること。
よって、武道の教育的価値の半分は礼儀が占めていると言っていい。
「礼には座礼と立礼の二つがある。春瀬、雅坂に手本を見せてやってくれ」
はいっ! と元気よく返事をし、雅坂の隣に気を付けするジャージ姿の春瀬。
剣道場にやってきていた俺たちは、まず雅坂の初心者講座を開くことにした。
春瀬が左足を半歩引いて膝を立て、次に右足を引いて爪先を立てたまま腰を下ろす。
「そうだ。そして足の甲を床に着け、踵の上に腰を下ろす。武道ってのは左座右起(さざうき)という『左足から座り、右足から立つ』のが習わしだ」
「なるほど……どうして右足から立ちますの?」
「良い質問だ。これは特に剣道では顕著なんだが……刀ってのは左腰に差してるよな。正座をしている時にいきなり相手から斬りかかられるとしよう。すると刀を抜くのに最適な姿勢はどうなる? 左足から立てると刀を抜きにくくないか?」
「あ、確かに……」
「だから、『いつでも刀を抜けるんだぞ』って感じで油断を見せないため、と言えるな」
「なるほど。左座右起、ですね。覚えましたわ」
春瀬とシンクロした動きで着座をする雅坂。
「それじゃあ次は座礼だな。膝の前の床に手を着ける。親指と人差し指で円を作る感じだ。そこに額をゆっくり近づけるが──春瀬、この時どれくらいの秒数、礼の姿勢を維持する?」
「はい、三秒くらいです!」
「正解だ。相手の目を見ながら、がポイントだぞ」
雅坂が初めてとは思えないほど美しい所作で座礼をする。ほう、上手だ。
「綺麗だな雅坂」
「え、ワタクシが綺麗だなんて……ありがとうございます。でも、不意打ちは照れますわ」
ポッ、と顔を上げて頬を染める雅坂。
「先生! 急に生徒を口説くのはあかんと思います!」
「口説いてねぇよ! 座礼の姿勢が綺麗だ、っつったんだよ!」
「あ、な、な~んだ……」と春瀬が露骨に安堵の息を吐いた。
「オラ、次いくぞ! 立礼からの足捌きだ!」
立礼はそんなに複雑じゃない。パターンは二つあるがな。
「まずは神前、正面、上座への立礼だ。角度は三十度、下を見る感じだな」
「ふむふむ。もう一つの立礼は?」
「相手との相互で礼をする場合だ。今回で言ったら春瀬への礼をする場合になる。その時は角度が十五度。下を見るのではなく、相手を見る感じだ」
春瀬が意図を読み取って雅坂の正面で立礼をしてくれる。
「……いいんちょさんの目はまっすぐでキラキラしてますわね」
「え、ちょ、雅坂さん、照れるやん……でも、おおきに」
ポッ、と頬を朱に染める春瀬。禁止! 生徒同士でイチャイチャすんな!
「次は足捌きだ。竹刀を振るよりも前にこの基本的な足捌きができないとな」
「最初は慣れへんから難しいけど、慣れたらこんなんもできるで~」
春瀬が頭の上に竹刀の鍔を乗せ、まるで床から数ミリ浮いているかのように移動する。
「凄いですわ……って、普通の歩き方とはなんか違いますのね」
「そうだ。すり足だ。右足前、左足後ろ。体重はどっちかに偏りすぎてもいけない。まぁ後ろ六、七割くらいかな。前後の間隔は足一個分空ける感じで、左右はほとんど空けない」
「……なんとなく窮屈ですわね」
「そんなもんだ。爪先が両足とも前を向いて、左足で床を押し、右足を出す」
スッ、と腰の入った雅坂の体が前に出る。
「そして、左足を引き付けて最初の形に戻る。右足を追い越すなよ」
「追い越してはいけませんの?」
「継ぎ足っつってそういう足捌きもないワケじゃないんだが、それだと相手から動きを見切られやすい。このすり足ってのは相手に悟られにくい足捌きなんだ」
「へぇ……剣道の動きって一つ一つに意味があるのですね」
「ああ。なんせ何百年と研鑽、そして研究を重ねてきた歴史の塊だからな」
「伝統、ってヤツですわね」
「そうだ。意味不明な伝統は変えてもいいだろうが、こういう意味ある伝統には敬意を払って、俺らも勉強させてもらうんだよ」
「素晴らしいお言葉ですっ! ワタクシ感動しました! さすが先生ですわ!」
初心者とは思えぬ鋭い足捌きで俺の懐に入り、手を組んでは潤んだ瞳で見上げてくる雅坂。漂う香水で頭がクラクラしてきやがる。
しかし、雅坂の接近は突如として鳴ったホイッスルに堰き止められた。
「はい、不用意な接触は避けましょう!」
「それどこから持ってきた春瀬」
「風紀委員の持ち物です! 二人がなんかいやらしい雰囲気になりそうならウチがこの笛を吹いて止めたるからな!」
「あら、いやらしい雰囲気だなんて。そんなつもりはなかったのですが。ひょっとしてそう思えてしまういいんちょさんの考えがいやらしいのでは?」
邪魔された不満からか、雅坂がニコニコとしながらとんでもない毒を吐く。一瞬で顔面を真っ赤にした春瀬が癇癪を起こす赤ん坊のように笛を吹き散らかした。
「あーもう、次いくぞ! 竹刀振るぞ竹刀ッ!」