「お好きな紅茶の銘柄はありますか?」
「あ、お気遣いなく」
スリッパに履き替え、リビングに通された。明るい色の床板には埃や髪の毛の一本も見当たらない。
壁に掛けられている絵画は一体いくらくらいするのか。四人暮らしでも余りあるほどの広さを誇るリビングに圧倒され、思わず部屋の中を見回してしまう。
「……散らかっていてごめんなさい。お恥ずかしいです」
「どこがですか?」
むしろ整いすぎているくらいだ。重厚な振り子時計の音だけが聞こえる。微かに漂う空気は吸い込むだけで体から疲れが取れそうだ。
目に優しい色合いをしたソファも絶対に高級品。男一人暮らしの俺の家にある安物ソファとは感触の質が全く違う。
長方形のガラステーブルを挟んで俺と獅子堂母が座っている。さっきから漂うバターの香りは中央に置かれたクッキーか。これも有名店の人気クッキーとかだよ。
どうぞ、と結局差し出される紅茶。すっげぇ良い匂い。ありがとうございますと言って受け取る。
「あの子、また何か粗相をしたのでしょうか」
互いに紅茶を一口含み、獅子堂母が沈痛な面持ちで尋ねてくる。
どうやら、今朝の一件はまだ伝わっていないようだ。
そしてこの口ぶり、獅子堂はやはり過去に何度も暴力事件を起こしていると見た。
「今朝、原付で校舎内を走り回る生徒を飛び蹴りで止めていました。しかし、娘さんは特にこれと言ったケガはないようで、原付の生徒も命に係わる怪我ではないとのことでした」
「……そうでしたか。娘がとんだご迷惑を……」
「いやいや、むしろ僕と教頭先生は娘さん──愛奈さんに助けられた、とも言えます。愛奈さんがいなければ、最悪僕らは撥ねられていた可能性もありましたから」
「それでも、あの子がまた誰かを傷付けた事実には変わりありません」
獅子堂は悪くない、と伝えたはずだが、それでも獅子堂母は頑として譲らなかった。
まるで自罰的だった。
「また、ということは……」
「ええ、あの子が暴力事件を起こすのはこれが初めてではありません。高校に入学してから、いえ、あの日から……」
あの日?
「……お母さん、申し訳ないのですが、愛奈さんに何があったのですか?」
深く踏み込む。獅子堂母はしばらく俯いたまま黙ってしまう。
振り子時計の音がやけに大きく聞こえてくる。気まずい時間が流れる。悪手だったか。
「すいません、いきなりこんな……不躾でしたね」
いくら担任と言えど、早計だったか。後頭部を掻きながら苦笑いで誤魔化す。
「クッキー、いただきますね」と用意されたクッキーに手を伸ばそうとした時だった。
「……少々お待ちください」
獅子堂母は唐突に立ち上がり、重い足取りでどこかへ歩いて行った。
どうしたんだろうか。クッキーを齧り、芳醇なバターの香りを堪能することしばし。
「どうぞ」と俺の目の前に置かれたそれは──一冊のアルバムだった。見ろということか。
失礼します、と言いながら分厚い表紙をめくる。フィルムに覆われた写真には、犬歯を剝き出しにして力強い笑みを浮かべた少女が、賞状を持ちながらカメラに向かってピースをしていた。中学一年生くらいか? 道着を纏っていた。背景には『剣道大会』の文字が映っている。
「ほー……剣道の大会で優勝した時のお写真ですか。良い笑顔ですね」
「それは娘です」
「──はい?」
「小学六年生だったころの娘です」
……脳を整理する。娘。ここは獅子堂の家。今話しているのは獅子堂の母。娘。獅子堂。
「──はい?」
「娘なんです」
「え、えええええっ!?」
叫びながらページをめくっていく。すると出てくるわ出てくるわ、一枚目の少女が防具を付けて試合に挑んでいる姿、負けて号泣している姿、友達──おそらく春瀬だ──と肩を組んで楽しそうに笑っている姿。
喜怒哀楽の差はあれど……少なくとも、今朝見た獅子のような目付きをした少女と同一人物とはとてもじゃないが思えなかった。だが、確かに度々映っている特徴的な犬歯は、獅子堂の犬歯の感じとどことなく一致する。
「あ、愛奈さんは剣道をやっていたんですか……?」
「はい。強かったと思います。剣道に詳しくありませんが、それでも分かるくらいに。小学校の頃から大会に出ては相手が男子だろうが上級生だろうが勝っていました。中学の頃には、県で準優勝にまで登り詰めて……剣道の強い高校から声も掛けていただきました」
「そ、それがなんで今の高校に……」
「ケガです」
思考が止まった。
「……進学が決まって、そこの高校に向けて稽古に励んでいる時に」
獅子堂母の口が震える。言葉がだんだんと掠れてきた。
一度、何かを堪えるように目を強く瞑って、
「左足のアキレス腱を、断裂……してしまったんです」
金槌で頭を殴られたみたいな、衝撃。
──俺の脳裏に、
ぶつかる体。揺れる視界。枯れ木のへし折れるような音。蛙が潰された時と似た声。一瞬の沈黙。炸裂する悲鳴。道着越しに伝わる温度。湿った感触。痙攣する──教え子。
「──……ッ」
ぶわ、と全身から脂汗が噴き出る。
喉からバターの香りが立ち昇ってきた。だが、全神経を咽喉に集中させる。顎が軋むほどに歯を噛み締め、こみ上げる絶望をなんとか飲み込んだ。
「……推薦は取り消し。受験シーズン間近でしたから、勉強なんてする時間もありませんでした。そもそも、中学校生活すべてを剣道に捧げたあの子に勉強なんかできるワケがありません。それで……県内で最低の偏差値の高校に行くしかなかったのです」
左足は剣道の生命線の一つだ。中学なら規則上、全員が中段の構えを取らなければならない。右足を前に、左足を後ろにして一直線上に配置する。となれば必然、床を蹴り、体重を前へ通し運ぶのは左足の役目だ。
その要となるのがアキレス腱。そこが断裂してしまえば、バネを利かせることができなくなる。歩くことはなんとかできるらしいが……。
「それ以降、あの子はひどく荒れました。家庭内暴力こそしませんでしたが、学校で暴力事件を何度も起こすようになって」
獅子堂母が堪え切れないと言ったように顔を覆った。それでも掌から漏れる嗚咽が、事故当時の辛さを物語っていた。
……歯が震えた。気を抜けば意識が飛びそうだ。
アキレス腱、選手生命。そこを絶たれる絶望を、俺は……。
『──先生。私、先生と剣道ができて幸せです』
かつての教え子から言われた言葉がフラッシュバックする。
「……それを、他の先生は知っているんですか?」
「全員ではないと思いますが、狐島教頭先生を始め数人は」
何度もつっかえながら、獅子堂母は答えてくれる。
「なぜ、僕にこのことを?」
「あなたは……剣道を経験してらっしゃるのですね。先ほど取った手で、分かりました」
……春瀬の時といい、俺のマメってそんな分かりやすいかな。
「あの子は苦しんでいる。でも、あの子を理解してあげられるのは……少なくとも剣道に携わっている人でなければならない、そう思っています。私では結局、あの子の傷の重さを理解してあげられなかったから。あの子が辛さを吐き出す場に、なれなかったのです」
獅子堂母のやるせなさが痛いほど伝わってくる。
分かります。分かりますとも。何もできない自分が悔しくて仕方ないんでしょう。
目の前で大事な子が苦しんでいるのに、代わってすらやれない己の無力感がどうしようもなくて叫びたいんだ。ただ謝ることしかできない自分が情けなくてしょうがないんだ。
俺の場合は、向こうから消えてしまったから。
でも、この人はそうじゃない。家族だ。娘なんだ。逃げることは許されない。
大丈夫ですよ。僕が何とかします。娘さんは立ち直れますよ。
ざけんな馬鹿が。そんな上っ面だけの慰めなんざ、微塵の役にも立たねぇんだよ。
現に獅子堂は心の傷が癒えないままだから、ああなんじゃねぇかよ。
大人として、教師として、そういう発言でこの場をやり過ごすのは限りなく無難で正解に近いだろう。だが、俺にとっては論外だ。カスな回答もいいとこだ。
だから何も言えねぇ。この母の感じている痛みを、心に刻むことしかできない。
握った拳に湿った感触がした。
小さく開くと、スーツに赤いシミができた。血だった。
気付かなかった。こんなになるまで俺は拳を……。
「霧崎先生、あなたはお優しいのですね」
獅子堂母が、目元を濡らす雫を拭いながら、微笑みかけてくる。
「今まで、何人かの先生があなたと同じように家庭訪問にいらしました。でも、
鼻を啜る音が聞こえた。
「分かっています。この考えが歪んでいることも。けれども、私たちが求めているのはその場凌ぎの言葉ではないのです。真摯に向き合ってくれる、そんな心が欲しかった」
そりゃそうだ。こんな、手の出しようもないことに巻き込まれてたまるか──普通の先生ならそう考える。生徒を導く立場? 聖職? ハッキリ言ってやる。そんな新学期キラキラ一年生みたいな考えは、少なくとも三年以内には放棄される。
だって人間だから。みんな自分が可愛くて、自分が楽できればそれでよくて、自分が無傷ならばそれで万々歳な生き物だからだ。
ただ、自分にとって許せるラインと許せないラインが、人それぞれ違うだけ。今までの先生にとっては、この家族への介入を諦めることは放棄していいと許せることで、
俺にとっては、この家族への介入を放棄することが許せない、というだけ。
価値観の違いだ。過去の先生たちを責める気は──ない。
「……僕は別に、優しい教師ではないですよ」
だからこそ、俺は。
「ただ、他の先生と背負ってる事情が違う。それだけの話です」
この家族を、獅子堂を、見捨ててはいけない。そう、思えた。