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第3話:一人ぼっちの大和撫子

「狐島教頭、あちらには何があるんですか?」


 案内してくれる方向とは真逆の方へ首を向け、尋ねる。

 すると狐島教頭は「ああ、やっぱり興味ありますか?」と下から覗き込むように言ってきて、


「向こうは剣道場です。生徒の人格形成に役立つ、ということで剣道部があるんですよ」

「そうだったんですか」


 ならば、やはり。さっき聞こえた音は勘違いじゃないらしい。

 竹刀が空を切る音。鋭く短い、「メンッ」という気勢の声。


 乾いた音はしなかった。おそらくは一人稽古の素振りをする声。今日は始業式だというのに、熱心な生徒もいたものだ。


「気になります?」と聞かれ、「ええ、まぁ……」と生返事をする。


「じゃあちょっと見てあげてください」


 言うや否や、俺の背を押して剣道場まで連れていく教頭。

 ──今思えば、何故この時俺は抵抗しなかったのだろうか。


 もう指導はしないと決めたはずだ。であれば、剣道場に近付くのは非合理的だ。

 それでも体を運ぶ足に力が入らないのは、きっと──。


「はい、どうぞ!」


 狐島教頭が緑色の鉄扉を開ける。そして背中に回って中に押し込まれた。

 ずいぶんと強引だなぁ……まぁいいや。ちょっと顔を出したらすぐに帰ろう。

 道場を視界に入れた瞬間、


「やぁッ!」


 一人ぼっちの大和撫子が、美しい弧を描いて竹刀を振り下ろす。

 前に出て一振り、後ろに下がって一振り。

 見てるだけで相当な努力を積み重ねてきたのだと分かる動きだった。


「あ、こ、こんにちは……新しい先生ですか?」


 俺の気配に気づいたのか、素振りを止めてこちらを見る。


 狸のように濃くて丸い眉。くりくりとした瞳が俺を見つめている。

 頬が上気し、微かに汗をかいていた。


 紺の道着と袴姿で、すり足をしながら俺の方へ向かってくる。

 暗めの色のポニーテールが揺れていた。

 俺は道場に対して礼をし、靴を脱いで上がる。


「ああ。初めまして。俺は霧崎 剣一。今日から赴任する保健体育の教師だよ」

「新しい先生……剣道経験者……新しい顧問ですか!」

「え?」

「せやんね! 絶対そうや! やったぁ! これで大きな問題が一つ解決したぁ!」


 俺の手を取ってぴょんぴょんと跳ねる関西弁女子。

 ちょっと待て。どうして俺が剣道経験者だって分かった? 顧問になるなんて一言も──。


「先生、剣道経験者やろ! だって道場に対して礼したもん! そんなん剣道経験者しかせぇへん! あと、手! めっちゃマメあるもん! ガッツリやってなこんなんならん!」


 そう言えばそうか。体に染みついてすっかり意識してなかった。手のマメも。


「この前、顧問の先生が辞めてもーて……剣道部どないしよ~って思ってたんです。三年の先輩たちもみんな卒業してもーたから、残ってるのウチだけで……」

「ん? みんな卒業した? ってことは他の部員は?」


「おらへんです」

「マジか」


「元々剣道やってた友達はいるんやけど、ちょっとその子は訳アリで~……」


 たはは、と自嘲しながら後頭部撫でる少女。

 剣道部は今この子一人なのか、気の毒に。


「やから、部員が団体戦に出れる最低限の三人おらんと、廃部って言われてるんです。部員の数だけならまだしも、顧問の問題もあってどないしよ~って……」

「入学式で勧誘しなかったのか?」


「したんやけど……なんていうか、剣道部って不人気やないですか。手応えも微妙で……」


 ああ、それはしょうがない。

 確かに剣道は『臭い、暑い、痛い』と人が嫌う要素が他のスポーツに比べて多く含まれてるから……。


「ウチ一人じゃどうしようもないな、って思ってたところに先生が来てくれたんです! 嬉しいです! ホンマにありがとうございます!」


 ぺこーっと勢いよく頭を下げる少女。


「ウチは春瀬はるせ 涼花すずかって言います! よろしゅうたのんます、霧崎先生!」

「ちょ、ちょっと待ってくれ、話を勝手に進めるな」


 とんとん拍子で進んでいく流れに待ったを掛ける。


「……俺は確かに剣道経験者だが、剣道部の顧問をするつもりはない」

「え、どうしてですか……?」


 あからさまにショックを受けたような顔をする春瀬。

 期待されていただけに裏切るような感じになってしまって非常に心苦しい。


「すまない、理由はちょっと言えないが、できないんだ……」

「……そう、ですか」


 気まずい空気が流れる。数秒の沈黙が心に重くのしかかった。


「一人で盛り上がってしまって、ごめんなさい」


 悲しそうな顔をしたままだったが、素直に頭を下げてくる春瀬。


「……期待に応えられず、すまないな」

「いえ、道場に来てくれただけでも……嬉しいです。それって、まだ剣道が好きってことやから。いつか剣道を教えようと思ったら、絶対に来てな」


 剣道を、好き、ね……。

 果たして今の俺は、剣道が好きなのだろうか。


「ああ、約束するよ」と俺はまた大人の笑顔を浮かべ、春瀬と握手をする。


 ザラザラしてる。彼女の手には、努力の証が確と刻まれていた。


「……頑張ってな」

「はい、ありがとうございます」


 始業式に遅刻しないようにな、と別れ際に述べ、道場に礼をして立ち去る。

 眩しいな。眩しい。あんな懸命な子ならば、どうか報われてほしいものだが。


 でも、今の俺にはどうしようもできない。その事実が心の深いところでささくれた。



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