──四月。春先にしてはやけに陽射しが強く、暖かい日だった。
新天地の初日くらい服装をしっかりしようとジャケットまで羽織ったのはどうやら間違いだったようだ。
これで勤務先が変わるのは二度目か。
教員採用試験は落ちっぱなしの非正規雇用。
契約の期間が切れて各地の高校を転々としている。
俺はこの先こんな感じで生きていくんだろうな。
最近吸い始めたタバコの紫煙と同じように、芯もなく風に流されて生きるだけの根無し草。
「ああ、それが俺にはお似合いだ」
桜に覆われた空を見上げる。枝の隙間から覗く煌めいた太陽が睡眠不足の目に突き刺さる。
新入生などはこの華々しい通学路を潜り、これから始まる高校生活に対する夢と希望で胸を膨らませるのだろうが、俺はそうじゃない。
むしろ陰鬱だ。馬鹿にしてんのかとさえ思えてくる。
無論、そんなのはただの被害妄想で性根が腐っているだけなのも分かっている。
しかし、未だにあの事故を引きずっている俺からしたら、祝福するような空模様は酷く皮肉めいた気がして不愉快だった。
気分が悪い。俺はひっそりと、平々凡々に枯れ果てていきたい。
この先の人生とかどうでもいい。
だからこんな希望に満ちた青空を突き付けないでくれ。心に毒だ。
「お待ちしておりました。初めまして、霧崎先生!」
いつの間にか高校に着いていたらしい。校門の前には、ちんまりとした女性がいた。
ゆっくりとお辞儀して俺を迎えてくれる。
首当たりで切り揃えられた七三分けの栗色の髪。丸い目がハムスターを連想させた。
「どうも、このたび
「私は教頭の
なんと、教頭先生か。
失礼だから言わないが、見た目は完全に背の小さな高校生くらいにしか見えない。
「狐島教頭、わざわざお出迎えありがとうございます」
「いいえ、私としましても、剣道の経験者が来てくださるというのは心強いですからっ!」
狐島先生が「こちらです!」と元気よく敷地内を案内してくれる。
……なんで剣道を強調するのか? この学校には剣道部があって、顧問がいないから困っていた、とかだろうか。
だとしたら心苦しい。教頭の期待には応えられないのだから。
でもそれを出会って早々に言うのもなんていうか、社会人的に印象が悪いというか。
なので、話を逸らすことにした。
「にしても、この天凛高校は、その、言いづらいんですが……」
周囲に目を遣る。すると、「ああ……」と狐島先生が隣で苦笑した。
「荒れてますよね~……」
「荒れてますね」
ひび割れの目立つ三階建ての校舎に『夜露死苦』とか『喧嘩上等』とか、とにかく強い感じの四字熟語がスプレーで落書きされてたり、その技術をもっと上手に活かせたんじゃないかと言いたくなるほど芸術的なスプレーアートが描かれていたり。
左右の芝生があったと思しき場所には放棄されて野ざらしになった机や椅子、ゴミなどが散乱していた。風に煽られ、丸められたプリントが地面を転がる音がする。
鼻をなぞっていくこの甘ったるい匂いはエナジードリンクか? 誰かが零していたようだ。
乱雑に積まれた机の奥から猿のような笑い声が聞こえてくる。
ふと視線を向けると制服である学ランを改造した生徒たちがバッティングをしていた。
豪快な音を立てて打ち上がったボールは、校舎よりも高いフェンスを越えていった。
「よっしゃあッ! ホームランってことは一万円だな!」
「クソがァッ! 俺の課金用の金がァ!」
「俺の言うことに従ったら免除してやってもいいぜ」
「マジで!? 何したらいい?」
「校舎内を原付ダッシュな! 教師に捕まらずに一周したらいいぜ!」
「よっしゃやったらぁぁ────────ッッ!」
……ここは動物園か?
「お恥ずかしながら……天凛高校は、県内最低の偏差値なんです。うちには機械工学科とか電子工学科といった特殊なコースもありますので、ものづくりに興味がある子とかも来てくれるんですが、まぁ、その、やっぱり素行不良な生徒も他の学校より多いワケでして」
「なるほど、だから剣道経験者である僕に期待している、と」
生徒指導的な意味で。
「えと……霧崎先生の科目は保健体育でしたか?」
「はい」
「でしたら、そうですね。そういう意味でも期待させていただきますね!」
……? どういう意味だ? 咄嗟に理解ができない。
尋ねようとすると、
「こんにちは。新しい先生ですか?」
背後から艶を帯びた声が俺を呼び止めた。振り向くと、そこには──ラベンダーが咲いていた。
いや違う。髪の色があまりにも鮮やかすぎて、一瞬人間であることを忘れてしまった。
それほどに美しい紫紺の髪だった。
柔和に垂れた目尻。左目の下には泣きボクロ。
本当に高校生か? 纏っている色香が子ども離れしてる。
高い身長に抜群のスタイルは、モデルにいてもなんら不思議ではないほどだった。
「あ、ああ……今年からこの学校で保健体育を教えることになった、霧崎だ」
「ふふ、そうですか。大人の雰囲気がある御方ですわね」
声を掛けてきた超絶美少女がウェーブの掛かった毛先を揺らしながら一歩近寄ってくる。
うわ、香水の匂いが程よく漂ってきた。頭がクラクラしそうだ。
「ですが」と少女は俺の胸に手を伸ばし、スーツの襟を長い指で挟むと、
「ジャケットが歪んでおりますわ。男性のスーツ姿は女性にとって目の保養なんですから、キッチリ着こなさないと勿体ないですわよ」
「す、すいません」
つい素で返してしまった。大人として情けねぇ。
「おヒゲも渋くて素敵です。ぜひ、ワタクシのクラスの担任になってほしいですわ」
「そう、か……ありがとう」
どういたしまして、と悪戯っぽく笑って離れる少女。
「それではごきげんよう。またお会いしましょうね、先生」
そして、俺と狐島教頭の脇を通り抜けると校舎に向かって歩いて行った。
「今の子は、
「へぇ……ああいう子もいるんですね」
「ありがたい話ですよ~。先生の仕事も手伝ってくれるんです」
ニコニコと笑顔で先ほどの少女を絶賛する狐島先生。
いや分かるわ。ああいう子は大人ウケがいい。嫌う教師なんてまずいないだろう。
雅坂か。良い生徒に会えた。覚えておこう。
ああいう子もいるんだと思えればこの学校も捨てたものではないのかもしれない。
「さて、それでは職員室へご案内しますね」
どうも、と返事をして砂が散らばる昇降口へ入る。
あんなひどい見た目の外観だから中はどうなっているんだろう──と思いきや、
「あ、意外と綺麗ですね」
深緑の床。中央には白線が引かれている。
多くのトロフィーなどがケースに入っていることから部活動は盛んだったのだろうか。
塗装が剥がれていたり、窓ガラスの一部が割れていたりするが、思った以上にまともな内装をしていた。ちょっとホッとする。
「中でしたら業者の方とかも掃除をやってくれたりするので」
そりゃそうか。ところどころ彫刻刀とかで刻まれた文字などが目に入るが、外で見た荒れ具合に比べればまだマシなほうだ。
「昔はもっと酷かったそうですが、時代ですかね。だんだんと漫画の世界に出てくるような不良は減っていってる気がしますよ」
「まぁ、確かに。それならば良かったです」
俺が生まれた当初の高校生はスケバンとかパンチパーマ、そしてリーゼントとか、そんな時代だったと聞いている。しかし、俺が高校生になる頃には既に絶滅してたような。
となれば、さっき野球みたいなことしていた連中は、少数派の不良ってことか。
「さて、職員室はすぐそこです」と狐島先生が手で俺を誘導しようとした時だった。
「……?」
今、微かに何か聞こえた。
俺の勘違いじゃなければ……とても耳に馴染んだ、懐かしい音だった。