「君の指導は人気があったけどね」
桜が産声を上げようとしている枝を見つめながら、隣でタバコを吸う校長のぼやきを聞く。
五十になったおっさんは、禿げ上がった頭を撫でつつ「本当だよ?」と重ねて言ってくる。
信楽焼の狸像のような腹をぽぉんと叩いていた。グレーのスーツがはち切れそう。
「それは嬉しいんですけどね」
校長の吐く紫煙の臭いを感じながら空を見上げる。
四階建ての校舎裏。曇り空が正方形に切り取られている。
グラウンドの喧騒も遠いここは、特定屋外喫煙場所という校内でもタバコを吸える区画である。
分煙が厳しくなっている世の中、やはりタバコを吸う人間の肩身は狭いらしい。
俺もタバコに火を点ける。
「あれ、タバコ吸うようになったの?」
「ええ、まぁ。まだこの苦さには慣れないですが」
「ははは。すぐに体に馴染んでくるさ」
「そういうもんすかねぇ」
咥えて火を点けようとすると、「ほら」と校長がライターを差し出してくれる。
「あ、すいません」と顎だけでお礼を言い、咥えながらタバコを挟んで火を受ける。
煙を肺に送り込む。喉に刺激が走り、思わず噎せ返ってしまう。
「本当に慣れてないんだね」
「ゲホ……まぁ、吸い始めたのなんてここ最近ですからね……」
「おすすめの銘柄を教えてあげようか」
「何すか?」
「ココアシガレットだよ」
「それ、タバコじゃないっすよ」
このおっさんは俺がそんな駄菓子も知らないと思っているのだろうか。苦笑いしながら返すが、校長はどこか優しさを滲ませた笑みを浮かべていた。
「分からないかい?」
煙が視界を埋める。校長の顔がよく見えなくなる。
黙っていると、校長は手に持った携帯灰皿の上でタバコをノックして、
「君は剣道の指導を続けるべきだ」
なるほど。そういうことかい。
「君と剣道をすることを楽しみにしている生徒は確かにいたんだ。誰にも求められてないことなら即座に身を引くべきだが、誰かに求められていることなら、やるべきだよ。剣で子どもたちを導くから、剣道ならぬ剣導……なんつってね」
「オヤジギャグじゃないすか」
「ええ? けっこうセンス良いと思ったんだけどなぁ……」
おかしいなぁと首を捻る校長。
しょうがない、フォローは入れておくか。
「いやぁ、ホント、そんな風に言ってもらえるなんて、僕には勿体ないですよ」
「冗談で言ってるんじゃないぞ」
ちょっと校長の口調がキツくなった。
「あの事故は確かに不幸だった。しかしね、こんなことを言っては教師失格かもしれないが、君がそこまで自分を責める必要はない。君に責任は──」
「いいや、僕の責任です」
ぴしゃりと、切り捨てた。校長が口を噤んだ。
気遣ってくれているのは分かる。
でもダメなんだ。それに縋っちゃダメなんだ。
「僕の責任なんですよ、校長」
そうか、と言いながら校長が俺から目を背ける。沈黙が流れる。紫煙を吐く音だけが反響する。どこに向かえばいいか分からなくなっている煙を見つめる。
「すいません、若造が生意気言って」
「構わないさ。君は今年で三十だっけ?」
「まだ二十九っす」
ここは断固としてこだわらせていただこう。二十代と三十代の違いは大きいのだ。
「そりゃすまん。私がそんな歳のころなんてね、授業で失敗して親御さんにどれだけクレームをつけられたか。教育委員会からのお𠮟りなんてしょっちゅうだったよ」
「ははは……」
あー、始まった。おっさん特有の「儂の若い頃は」ってヤツだ。
ありがたいよ? 気持ちは嬉しい。慰めようとしてくれているのは分かる。
でも正直、もう自分の中で踏ん切りが付いていることに対しては余計なお世話の域を出ないのだ。
武勇伝のように語る校長の若き失敗談を愛想笑いで流していると、
「あ、霧崎先生いた!」
意識の外から、女生徒に声を掛けられた。
振り向くと、俺が指導していた剣道部の女子部員だった。三人いる。
「先生! 学校辞めちゃうんですか!?」
「あー……、辞めるっていうか、高校が変わるだけだ。県内のな」
苦笑いで返すが、残りの二人が悲鳴を上げるように言ってきた。
「でも、この高校の先生じゃなくなるんですよね?」
「寂しいですよ!」
……どうやら、校長が最初に言ったことはウソじゃなかったらしい。
部活中とかはなかなか気付けないもんだが、いざ別れるとなるとちょっと胸に来るな。
「すまんな」
しかし、それしか言うことができない。
視線を下げた俺の心情を汲み取ったのか、「先生……」と言うだけでそれ以上言ってくることはなかった。
タバコが短くなった。灰が落ちる前に、携帯灰皿に押し付ける。
「すまん」
顔を上げると、教え子……いや、元教え子たちが寂しげな表情で俯いていた。
「──
言った瞬間、空気が凍った。
桜が芽吹こうという季節なのに、今吹いた風はやけに冷たかった。
「柊さん、転校しちゃったんですよ」
なんだって?
「あの一件から……戻ってくる前に、お父さんの言いつけで転校しちゃったって……」
「あ、あぁ……そう、だったのか」
そうか。じゃあ、もう。
俺は、柊に謝ることもできないのか。
「……校長、すいません。僕はそろそろ行きます」
「ん、そうか。新天地でも頑張ってな。君なら大丈夫さ」
ありがとうございます、と返して喫煙スペースから去ろうとする。
凍ったままの女子部員の間を抜けて。
振り返らずに歩き続けていると、
「先生ッ!」と一人の女子がどこか湿った声で呼び止めた。
「──また、剣道教えに来てくださいッ!」
振り返る。笑顔を作る。
ウソだとしても、慰めだとしても、この瞬間だけは生徒たちの不安を和らげてやるために。
「ああ。また来るよ」
踵を返す。もう振り返らない。
未練を断ち切るように、俺は歩く足を速めた。
また来るよ、だと? よくそんなことが言えたものだな。
「クソがよ……」
つくづく自分が嫌になる。
「