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3章…15話

「美亜ちゃん、すずくんのこと、ちょっとだけ見ててね」


「はぁい…お母さん、どこ行くの?」


朝から雨が降る3月の肌寒い日、6歳だった私の、ある日のこと。


お父さんは仕事に出かけ、お母さんも用事があって出かけるという。


「すぐに帰ってくるから。頼むわね」


お母さんが出て行った家の中で、私は弟の涼(すず)と留守番することになった。


おもちゃでご機嫌に遊んでいた3歳の弟。…あの頃は私も子供で、弟の年齢とか、あまりわかってなかったと思う。

ただ小さい子、ってだけの認識。


「お母さん遅いね…」


すぐに帰って来るって言ったのに、お母さんはなかなか帰ってこなかった。


窓辺で通りを見ながら、強くなる雨に、小さな不安を抱いていたのを覚えている。


「ママ…」


そのうち弟がむずがり始めた。


「大丈夫だよ…お母さん帰ってくるから…ね?」


私も少し不安だった。

だって雨はやまないし、昼間なのに暗くて…部屋の明かりをつけようにも高いところにスイッチがあって届かないから…


弟はそのうち泣き出してしまった。


私はそんな弟を小さな胸に抱いて慰めた。でも…泣きやまなくて。


私は弟のご機嫌を取るように言った。


「すずくん、お姉ちゃんと一緒に、お母さん迎えに行こうか?」


「うんっ!」


途端に笑顔になった弟を見て、私は正しい判断をした気になっていたと思う。


家の鍵のありかなら知ってた。

いくつかある玄関ドアの鍵穴のうち、低いところだけなら当時の私でも閉めることはできた。


…なんの問題もないはずだった。


玄関で先に自分の靴を履いて、弟の靴を履かせてやろうと思った。

その時…家の前に車が停まる音がして、とっさにお母さんだと思った私は、玄関を開け放して外へ出た。



「お母さん…っ」



弟から目を離したのは…ほんの数秒だったはず。


あっ…!と思った時には、私の脇をすり抜け、広い通りに走り出る弟の小さな背中が目に入った。



「…すずくんっっ…!」



凄まじいほどの急ブレーキと、何かがぶつかった鈍い大きな音。


いつの間にか駆け出してきた、隣の家のおばさんに名前を呼ばれた気がする。



「美亜ちゃんっ!!」


何が起きたのかは、当時の私には…すぐに理解できなかった。

隣のおばさんは慌てて私を抱きしめ、何も見ないようにしてくれたけど…その脇から、見えてしまった。



道路に広がっていく赤い血溜まり。

玄関先に転がっていた、弟の白い運動靴。


その光景を、私は今でもずっと忘れられない。





すずくんが、わたしのせいで、くるまにひかれてしんじゃった…




その後のことは不思議なことに…あまり記憶に残っていない。


少し大きくなってから、叔父さんに「覚えてなくていい」って言われた気がする。


気づいた時には、私はいつも母の顔色を伺って、その日の機嫌を予想する子供になっていた。


時折母は狂ったように泣きながら、タンスの中に入っている小さな男の子用の服を取り出して、泣いていた。


その声は細く、高くて…離れた部屋で耳をふさいでも聞こえてきて…


私は心の中で何度も「ごめんなさい…」と謝った。


そんな生活が、どれくらい続いただろう。


いつしか母の泣き声に、父の怒声が交じるようになって、何かが割れる音がしたり倒れる音がして、そのたびに震え上がるようになった。


母の金切り声は、私の耳にも入ってきた。


「美亜のせいで涼が死んだ!」


何度も…何度も叫ぶ母。


…そんなの、わかってる。

お母さんに言われたのに、

私がちゃんと、涼を見てなかったから…


そう思うと割れそうなほど頭痛がするようになったけど、私はそれを、母だけではなく父にも言えなかった。


父は弟の事故の前から、いつも帰りが遅くて、いつも疲れた顔をしていた。


でも私がそばに行くと笑顔になってくれて大好きだったのに、弟がいなくなってからは、笑わなくなった。


当然だ。

だって私は悪い子だから。

お父さんに嫌われても、仕方ない。


そのうち父は帰ってこなくなった。朝になると髪を振り乱した母が、あちこちに電話をかけていた。


心配して声をかけると、母は怖い顔でこう言ったんだ。



「あんたのせいで…涼だけじゃなくて、お父さんまでいなくなったっ…!」


…あんたのせいだ。

…美亜は悪い子。

…家族をバラバラにした悪い子。



気づけば母は精神を病んでいて、時折様子を見に来ていた叔父に、精神科へ連れられ…家に帰ってこなくなった。


私は叔父の家に引き取られることになり、叔母が身の回りのものをスーツケースに一緒に詰め込んでくれた。


そして家を出て以来…私は家族で暮らしたその家に、1度も帰っていない。




穏やかな叔父と叔母、そして3歳年下の従兄弟、健と4人の生活は安全で、平穏だった。


そこには金切り声を張り上げて泣く母の声も、父の怒った声も聞こえない。

ただ何度か、涼が生きていれば…と、健の後ろ姿を見て、そう思った事はある。


そのたびに、胸が焼け付くほど熱くなって、もう泣きたくないのに涙が溢れた。


優しい叔父一家を心配させたくなくて、知られないようにタオルを噛みしめて、声を押し殺して泣く。


私なんていなければ良かった。

私のせいでお母さんが病気になった。

私のせいでお父さんがいなくなった。

私のせいで、家族がバラバラになった。


だから…私は幸せになっちゃいけない。


そう思うのに、時間はかからなかった。




高校を卒業してすぐに、父からまとまったお金が振り込まれたと聞かされた。

そのおかげで美容学校に進学、寮に入ることもできたけど、ありがとうは言えなかった。


父がどこにいるのか…私は何も知らなかったから。


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