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3章…7話

「美亜か。今日帰ってきたから、連絡してみた」


「お疲れさまです。…あの、すみません。今日はお休みだったので…」


「いや、いいよ。電話したのは、声が聞きたかっただけだから」



着信はケンゾーから。


声が聞きたいなんて言われても、なんて返事をしたらいいのだろう…



「なんだよ。直球で行くって言ったろ?ストレートに口説いてるんだが?」


「は、はぁ…あの、お手やわらかにお願いします…」



ケンゾーは少し含んだように笑って、次に明るい口調になる。



「ところで下にいるんだ。出てこいよ」


「…えっ?!」


声を聞いたから、そろそろ切ってくれる、と思ったら意外なことを言われた。


咄嗟にベランダから見下ろすと…確かにエントランスに見覚えのある車が停まっている。


車に寄りかかって携帯を耳に当ててる人…ケンゾーだ。


しかも、スーツじゃない。




上から覗いていることに気付かれて、降りていかざるを得なくなった。



「…ルームウェア?」


「あ…これは…はい」


ミスった…嶽丸の黒いTシャツを、また拝借してる私。ハーフパンツは蛍光ピンク。


とんでもないコーデだ…


「オーナーも、めずらしく、ラフな格好ですね」


濃いグレーのTシャツと、セットらしいスウェットパンツ。

ラフながら、物がいいのは一目でわかる。


嶽丸のホワイトムスクとは違う、スパイシーなウッド系のコロンが香った。



「ちょっとドライブしない?…話したい事がある」


「はい…」


ここまで来て嫌だなんて言えない。

頭の中で、ちゃんと戸締まりしてきたことを確認して、1週間前にも乗せてもらった高級車に乗り込んだ。



「食事はしたの?」


「はい…パンと、白ワインを…」


魚肉ソーセージとは言えなかった。

ラグジュアリーな空間…という難しい言葉がよく似合う静かな車内で、そんな言葉は似合わない…と咄嗟に思ったから。



「なんだよそれ…タンパク質もビタミンもないな」


呆れたように言うケンゾーに、私はここぞとばかりに声をあげる。


「私、女子力ないんです。料理できないし、掃除は逆に散らかるし、洗濯すれば色ムラ作るし…」


呆れてくれ…という内心の願いは、楽しそうな笑い声に消された。


「美亜っぽいな…!可愛い」


「…は?可愛いですか?この年で何もできないのに?」


「俺は美亜にそんなもの求めてない」


ちょうど信号で停まったタイミングで、不意に伸びてきた手に気づかなかった。


「柔らかい。スベスベして…すっぴんも可愛い」


そこまで言われて思い出す。

…化粧をまるっと落としたところだった…


何か食べに入ろう…と誘われたのを、私は丁重にお断りした。


……


車の中で、ケンゾーは私の緊張をほぐそうと、いろんな話をしてくれた。


大学生のときに自転車で日本一周にチャレンジしたこととか、初恋の失敗とか…

中でも興味深かったのは、子供の頃のこんな話だ。


「5歳違いの妹がいてな。その子は病弱で、ほとんど家から出られなかったんだ」


ケンゾーはそんな妹を不憫に思って、小学校6年生のとき、両親に内緒で近くの河原に連れ出したという。


「はじめて見る川の流れを見て、妹も喜んでくれたんだ。でも…」


夏の終わりの、天気が目まぐるしく変わる日だったという。


「急に青空が曇って、真っ黒な雲が空をおおい始めた。すぐに雨が降ってきて…やがて土砂降りになった…」


少し遠い目をしているケンゾー。

まさか…最悪の事態を想像してしまう。


「車椅子を無理やり原っぱの中に入れたからか、妹を乗せたそれが、帰りはまったく役に立たなくなってな」


雑草に車輪が取られそうだと簡単に想像がつく。

それを引き剥がすって、どれだけ大変だっただろう。

想像しただけで胸が痛む。


「でも、原っぱは抜け出せたよ。病気がちの妹は、普通よりずっと痩せていて軽かったから、片手で妹を抱いて、片手で車椅子を持ってな」


聞いてホッとして、笑みがこぼれる。自分の体験と似てると思ったけど、違う結末に胸をなで下ろした。


「じゃあ…今もその時のこと怒られますね?」


ほとんど外に出たことのない人が、いきなりの土砂降りを経験したら、恐怖を感じて怒るかもしれない。

…そう思って聞いたんだけど…


「…いや。妹はもう亡くなったよ」


「え…?」


「…生きていれば、ちょうど美亜と同じ年だったな」


まさか…オーナーが勝手に連れ出した事が原因で亡くなったのか…



「す…すいません」


急に思い出して怖くなった…

子供の頃の記憶と勝手にリンクして、勝手に体が震えだした。


驚いたケンゾーは、すぐに車を停めてくれた。



「ごめん…変な話を聞かせたな。…大丈夫か?」


すごく自然に抱き寄せられた。

そういえばこの車、ベンチシートだ…


初めて感じるケンゾーの胸は、私の震えを次第に鎮めていった。



「す、すいません…もう、大丈夫です」




「もう少し…」



え…っ?という驚きの声はかき消されてしまった。


頬に手を添えられて、何ごとかと反射的に上を向く。


そこに、仕事の話をしている時とは全然違うケンゾーがいて、焦る…



「あの…」


とっさに下を向うとしたのは、その雰囲気が、キスを連想させたから。



「…美亜」


聞いたことない、甘い声。


別に、その声に惹かれたわけじゃないけど…名前を呼ばれれば、誰だってそちらを向くでしょう…?


せっかく下を向いたのに、伺うように上を向く私の隙を見つけたように…私の唇はケンゾーのそれに塞がれてしまった。


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