その夜。空野が自宅に帰宅しようとしている時に事件は起こった。
突如スマートデバイスから着信音が鳴り響く。急な仕事の話かと思ったが知らないIDだ。訝しみながら出てみると聞き覚えのある機械音声が鼓膜を叩いた。
「大変デス。スグニ来テクダサイ」
「ん? お前、まさか……」
「病院ニ来テクダサイ」
「いやちょっと待て。なんでお前が俺のIDを知ってるんだよ?」
「病院ノログニアリマシタ。ソレヨリモ早ク。緊急事態デス」
「急ぎなら病院の職員か警察にでも連絡すればいいだろ?」
「ソレガデキナイヨウニロックヲカケラレテシマイマシタ」
「ロック? 誰に?」
「黒瀬杏サンデス。オフラインデ繋ガレテソノママセキュリティヲ突破サレマシタ」
黒瀬の名前が出て空野は目を見開いた。
「なんでそんなことをするんだよ?」
「屋上ニ出ルタメデス。ワタシ経由デ屋上マデノ電子ロックモ解除サレテシマイマシタ」
「屋上って……」
空野は青ざめた。既に自由に動ける黒瀬がこんな夜中に屋上を目指す理由は一つしか考えられない。
アンインストール。いつの日かロボットが言っていたその単語が脳裏に浮かぶと空野はすぐさま駆けだしていた。
空野が病院まで辿り着くと通話中のままのロボットに中庭の池を通って非常階段を上がってくれと言われた。そこだけが唯一屋上にアクセスできるルートだった。
しかしそこも網状のドアで封鎖されている。すると奥から声が聞こえた。
「付けてみて分かったけど、やっぱりこれだけじゃダメなんだよ。必要なのは希望だったんだ」
空野は屋上の様子がどうなっているか分からないまま叫んだ。
「黒瀬! そこにいるのか? いるんだな!」
するとロボットが答えた。
「ソコニイマス。ソコ以外ハ全テ監視カメラデチェックシテイマス」
それを聞いて空野はフェンスを叩いた。
「欲しいものがあったら言ってくれ! 俺が作るから! だからまだなにも見ないで未来を決めるな!」
空野の必死の訴えだったが黒瀬から返事はない。ただ声だけが聞こえてきた。
「わたしには希望がなかったんだ。だからずっとダメだった。手とか足とかじゃない。それが一番大切だったんだよ。でもあなたは違うでしょ?」
空野は混乱していた。自分に言っているのかと思ったがそれも違うように思える。
黒瀬は他の誰かに話しかけているようだった。
「これはあなたが使うべきなの。その方がきっと良くなる。わたしはそれを見届けたい。それにね。わたしの夢でもあるんだよ。ずっと生まれ変わりたいと思ってたから。だからね。気にしないでいいの。これがわたしの幸福なんだよ」
「何を言ってるんだ!? お前の幸福は今から始まるんだよ!」
「そう。今から始まるの。だから終わらないとダメなんだよ。あなたが行きたいところに行けるなら、それが一番いいと思うから」
空野は見えなかったが黒瀬が微笑んだような気がした。そしてたしかにこう聞いた。
「生まれて初めて世界が綺麗に見える」
次の瞬間なにかが落下する音が聞こえた。そしてそれはドボンと音を立てて着水する。
空野はゾッとして一瞬力が抜けた。そこへロボットからの声が届く。
「中庭ノ池デス。ソコニ彼女達ハイマス」
「……彼女達?」
空野は我に返ると訳が分からないまま必死に階段を駆け下りた。そして先ほど通った中庭の池に向かう。
そこで見た光景を空野は一生忘れないだろう。
水面から静かに少女が体を起こした。月明かりが濡れた髪や肌を美しく照らす。何よりも抜き身のままの鋼の四肢が輝いていた。
まるでその瞬間新しい命が生まれたような気がした。
黒瀬の瞳は大きく見開かれ、ただ夜空を見上げる。彼女はフッと笑うとゆっくりと空野の方を向いた。そして弾んだ声でこう言った。
「はじめまして。先生」