朝のことを考えると厄介な相手だ。
この時にダース様がこの場にいたということを私は覚えていない。
それほど、以前の私はアンジェロ様一筋で他の男性のことなど眼中になかったのだ。
『アンジェロ様! お久しぶりですわね。社交界でお会いして以来ですわ。私のことを覚えておりますよね?』
「あぁ、マリーティム公爵令嬢。覚えているよ」
『ロザリンドとお呼びください』
「ではロザリンド。話を戻そう。なぜ彼女が君たちの侍女にならないといけないんだい?」
私は自分の記憶を頼りに慎重に話を進めていく。
『これは教育ですわ。爵位をもつことへの責任とプライドを持っていて欲しくてそう言っただけです。それに、身の程というものが大事ということも知っておくべきかと』
鋭い目でマーガレットを刺すように見ると、アンジェロ王子は諭す様に丁寧に言い返した。
「ここでは爵位など無意味な学舎だよ。彼女の言う通り、楽しく学園生活を送ってもらわないと。悪いけど私は、君の考えには賛同できない」
アンジェロ様はマーガレットの肩に優しく手を置いた。
「君、名前は?」
「マーガレット・ジャン・フェードルスです。殿下」
「アンジェロでいいよ。フェードルス令嬢。この学園を案内しよう。ついてきて」
私はキィィと悔しそうな演技を見せる。
「では、ロザリンド、その他友人達。これで」
アンジェロ様とマーガレット。それを傍観していたダース様がこの場から立ち去る。
私は肩を震わせて、取り巻き達に言った。
「あなた達、私を一人にしてくださる?」
ここで言葉を言おうと思うならば、舌を斬られると感じたのだろう。
取り巻き達は、無言で帰っていった。
誰もいなくなったところで私はもう一度芝生に寝転び、成功を喜んだ。
「はぁぁ! よし! これでいい! 大成功だわ!!」
緊張の連続だったが、一仕事終えた後の空気がこんなにも美味しいとは知らなかった。
私は深く深く深呼吸をして、青い空を眺めようと目を開ける。
そこには、立ち去ったはずのダース様の顔が飛び込んできた。
「!」
私は素早く立ち上がって、髪をさらりと払い、咳払いをする。
「ダース様。私に何かご用かしら?」
「さっきあのやりとりは、演技だったのか?」
変な汗がツーっと頬を伝う。
「なんのことですの?」
「フェードルス令嬢をわざと貶した」
「わざと? 何で私がそんなことしないといけないのですか?」
「それに矛盾している。君は朝、家柄のせいでいじめられていた男子生徒を助けていた。彼を励ますようなことまで言って。それなのに、さっきは身分このことで彼女をいじめている。どっちが本当の君なんだい?」
朝の出来事を全部見られていたなんて……。
だが、ここで認めてしまえば今後のルートに差し障る。
何としても誤魔化さなければ。
「本当も何も。どちらも私ですわ。朝のあれも遊びのひとつです。私があんな気休めな励ましを言ったことで、初めは頑張ろうと思うかもしれない。でも結局、自分の無力さを思い知らされる時が来る。その絶望感を想像すると楽しくってつい言ってしまったのですわ」
彼は無表情のまま私をじっと見つめていた。
「では、私はこれで……」
「嘘だ」
ダース様がジリジリと私に近づいてくる。
私はこれまでにないくらいの悪い笑みを見せ、逃げるようにダース王子と距離をとる。
「ご勝手にそう思っていただいて構いませんことよ。それでは、失礼しますわ。殿下」
「……」
私は早足で校舎裏から出ていく。あそこにはもう来ないようにしよう。
あの第三王子とは距離をとっておかねば。
***
寒い。
なぜ私は一人で、猛吹雪の中を彷徨い歩いているのだろう。
全てが真っ白で、何も見えない。
喉が切れて、白い息が凍ってしまいそうだ。
寒い……寒い。
誰か助けて……。
―ロザリンド―
聞いたことのない声が脳内に響く。
―お前に本当の紅蓮地獄を見せようとじゃないか。サイガーダなど非でもないほどにな―
「やめて……なぜこんな仕打ちを!」
―愚かな赤い花。これはお前の罪。罪人は、償いの道を果たせ―
あまりの寒さに皮膚が裂けて、血が流れていく。
「寒い……やめて、やめて」
次から次へと皮膚が裂けていき、私は怖くなって叫び声を上げた。
声の主はさらに大きな声で私に言い放つ。
―お前があの二人を救うんだ! 自分の使命を忘れるなロザリンド!―
私は一人雪原に取り残された。
「一人にしないで! アリッサ! どこなのアリッサ! 寒い、怖いわ! 一人は嫌よ。いやあああああ!」
勢いよく目を覚ました時、かけ布団はベッドの下に落ちて、窓は少しだけ開いていた。
明け方が近いのか、部屋の空気は肌寒かった。
「夢……」
急いで布団を引き上げて冷えた体を温める。
寒さで震えているのか、恐怖で震えているのかわからなかった。
「紅蓮地獄……あれが、使命の果たせなかった私の行き着くところ。なんて恐ろしい……」
***
早朝、私と侍女のカシスは寮生活のための荷物の準備をしていた。
着替えくらいしか持っていかないため、鞄二つで済んでしまった。
侍女のカシスはそれに驚いていた。
「それだけでいいのですか? アクセサリーや靴などまだまだございますのに」
「最小限でいいわ。私にはもう必要ないもの」
私は改まって彼女の名前を呼んだ。
「カシス」
「はい。お嬢様」
「色々悪かったわね」
カシスはとんでもないと言って、深くお辞儀をする。
「次のお帰りをお待ちしております。ロザリンド様」
「えぇ。待っていてちょうだい」
私は二度とここに戻るつもりはないけどね。
カシス。これからは何も恐れることなく仕事ができるのよ。
私を待たなくていいから、のんびり過ごしてちょうだい。
私が馬車に乗ろうとした時、エントランスからお父様が駆け足でやってきた。
「ロザリンド! もう行ってしまうのかい? 急に寮で生活したいというから何かあったのかと」
「なんでもないの。ただ自炊するのも悪くないなと思っただけ。それでは私はもう行きます」
「おぉ。私の愛しの赤い花。行っておいで。たまには帰ってくるんだよ。そうでなければ、私は寂しさで死んでしまう」
お父様は私をぎゅっと抱きしめた。
その言葉も、この温もりも全て嘘。
嘘だってわかってるのに、私はお父様の腰に手を回した。
これは、決別のハグだ。
「愛してるよ、ロザリンド。学園生活で何かあれば私にすぐに言うんだぞ」
私は眉間に皺をよせないように、代わりに小さく微笑んで見せる。
「さようなら。お父様」
そうして馬車を走らせるように言い、マリーティム邸を後にした。
朝日が窓から差し込み、眩しさで目を細める。
片方の目から一筋の涙が流れた。
きっと眩しさのせいだと、心の中で呟いた。