夜になった。
俺は風呂上がりに、ベッドに転がりながらスマートフォンを眺めていた。
裏では同じようにして音尾もみかんちゃんのライブに参加していることだろう。
定刻になると画面が切り替わってケモミミ美少女のみかんちゃんが現れて頭をふりふりと振った。
『お兄ちゃぁん、みかんだよぉ』
そっと耳元に囁く彼女の声に虜になった俺は本来の目的を忘れそうになる。
いかんいかん、と気を確かに持つ。
『ふふっ。お兄ちゃん、今日はどうしたの? すごく愛情いっぱいだねえ』
「え? なんの話だ?」
『そんなに好きって言ってもらえると、みかんとっても嬉しいな』
みかんちゃんと声にばかり意識が向いていたが、チャット欄を見るとひとりのリスナーが連投で愛を叫んでいた。
ハンドルネーム、至高なる低音。
確認するまでもない。こいつ、音尾だ。知っていたらなんてわかりやすいハンドルネームなんだ。
『みかんちゃん、愛してる』『結婚してくれええ』などと、やり過ぎると逆に荒らしに捉えられそうなコメントを何度も書き込んでいる。
いったいどういうつもりなのかわからないけど、あいつなりの考えがあってのことだろう。垢バンされないよう祈るしかできない。
『みかんもお兄ちゃんのこと愛しているよぉ。いいんだよ。兄妹なんだから大好きで当然なんだから』
『だよね。俺も大好き』
と音尾に追随するようなコメントがいくつか流れる。
ただそんななかでも、やはり音尾のコメントは目を引いた。要望するようなリスナーはほとんどいないからだ。
というより、あんまりしつこいとルール違反になるかもしれないから垢バン回避でみんなやらない。
『大好きって言ってー』
『ええ、もう、しょうがないお兄ちゃんだねえ』
一拍置くと左耳から少し恥ずかしそうな声がした。
『お兄ちゃぁん、だぁいちゅき』
「はぅっ」
ベタベタだが、赤ちゃん言葉に俺はときめいてしまった。
ロリボイスだから、言葉足らずな言い方がとてもよく合っている。もちろんそれも狙ってやっているとわかっていてもファンにはたまらない。
『えへへ。かんじゃった。でもいっか。ちゅきちゅき。だぁいちゅき』
『俺もだいちゅき』
気持ち悪いコメントが流れても、みかんちゃんは嫌な声を出したりしない。俺たち紳士を優しく受け止めてくれる。
『嬉しい。お兄ちゃんの愛を感じる』
俺含めてみんながデレデレしているなか、またも音尾が動いた。今度はウルトラチャットで千円も払ってのコメントだ。
『でもたまには叱ってほしい』
『叱ってほしいのぉ? みかんだけがお兄ちゃんの味方なのになあ』
さすがにこれには彼女も困惑している。
基本的にこのチャンネルは妹(という設定)のみかんちゃんが俺たち兄(という設定)を甘やかしてくれるがコンセプトだからだ。
リスナーも日々の疲れやを癒やしてほしくここに来ている。
ゆえに、音尾のやっていことは完全に場違いだ。『叱って』『叱って』と連投を見たチャット欄も『そういうのは他所でやってほしい』と少し荒れ気味になっている。
「おいおい、いったいどういうつもりなんだ」
わざわざ荒らしのようなことをするメリットがあるのか? 俺も共犯みたいで罪悪感が半端ない。
心がズキズキする思いでいると、モデレーターが火消しに動いた。音尾の書き込みがすべて削除された。
安心したのか、少しホッとした様子で、みかんちゃんは何事もなかったように雑談に戻った。
俺もいっしょになってホッとしてしまう。
画面に向かって手を合わせる。さらば音尾。なにがしたかったのかまったくわからなかったけど、お前のがんばりは忘れない。
垢バンされたあと、まだライブ中だというのに音尾がメッセージを送ってきた。
『作戦成功』
『は? なにが作戦だよ』
『いいんだよあれで』
『ただ垢バンされただけだろ』
『かまわん。今日のライブに荒らしが現れたと印象付けることが目的だ』
はあ? と俺はスマホの画面を見ながら大きく首をかしげた。
『ちゃんと説明しろって』
『まさにそれだ。人間、イラッとしたときに素が出る』
『いつもとそんなに変わらなかったと思うけど』
『いや。無視すればいいのに黙ってしまっただろう』
モデレーターがコメントを削除するまで少し間があったのは事実。だが、それだがいったいなんだと言うのか。
『困った相手がいても怒ったりしない子だってことだ』
「ああ、なるほどな」
つい画面に向かって感心してしまった。
わざわざ投げ銭機能を使ってまで、雰囲気を悪くするような書き込みをする輩はいる。
そういった困ったリスナーをどう躱すかも配信者による。キャラを忘れてブチギレた女性VTuberが暴言を吐きまくったのを見たときは、怖っ、と思ってしまったぐらいだ。
それとは違い、みかんちゃんの中の人は、冷静に状況判断し、モデレーターに対応を任せた。
黙ってしまったのはびっくりして声が出なかったと見るべきか。言い返すような子ではないというのは、雑談を再開したときの安堵した様子からも伺えた。
となると、七海は違うかなあ。あいつもいい子なんだけど、俺との会話を聞くかぎりでは、イラッとすると言い返してしまいそうな性格をしている。
不測の事態でも動じることがなさそうなのは椎名。事務的に淡々と起きたことを処理しそうである。
『そうなると消去法でマリナということになるかな。でも、う~ん……』
ただし、会話自体はまったく問題なくても、マリナの話し方はやはり片言が入った外国人風である。
すると音尾はとんどもないことを言い出した。
『普段のあのしゃべり方を疑ってみたらどうだ?』
『まさか、わざとやっているとか言わないだろうな?』
『そのまさかだ。調べてみる価値はあると思うぞ』