「やめてください!」
私は思わずキスしてきた渋谷さんを押し返すとエレベーターに飛び乗った。
彼が何を考えているのか全くわからない。
私より若くてスペックの高い女の子にだって言い寄られるだろうに、私のような捨てられた三十路女に迫る彼の真意が理解できない。
14年以上も尽くしてきた男に捨てられて、すぐに恋愛モードになれるわけもない。
「はあ、もうなんなのよ」
もう一度恋愛するには最低でも7年は回復期間が欲しい。
その頃には誰も相手にしてくれなくても、それはそれで良いと思うくらい私は恋することを恐れていた。
「林太郎とバカな話がしたいかも⋯⋯」
私は友達のように接してくれる林太郎を思い出していた。
しかし、目を瞑って夢に出てきたのは14年一緒にいた雅紀でも、新しい友人りんたろうでもなく渋谷さんのキスだった。
♢♢♢
私は朝イチで『メディサテライト』に向かうと成田さんと正式な契約をした。
「じゃあ、今日の午前中は宜しくね」
成田さんはそう言うと、また予定があるのか楽しそうに出て行ってしまった。
今日は私はここで14時まで仕事をして、14時以降に3人娘に会いにいく。
それまでに、振り付けの最終確認と曲を作りたいけれど作曲はやっぱり難しい。
(林太郎は来るかなあ)
私はお昼に来ると約束した林太郎が来るのを楽しみにしていた。
ラララ製薬で働いていた時も、玲香と美味しいものを食べて愚痴を言いながらランチをするのが楽しみだった。
『メディサテライト』での仕事は、決してそこを動けない1人ぼっちの警備員のような孤独さがある。
でも、やりたいことをしながら1日5千円程稼げる仕事がすぐに見つかったのはありがたい。
12時過ぎに林太郎が顔を出した。
「こんにちは。今日は近くにサラダ専門店ができたから、サラダにしてみたけどどお?」
「ありがとう。実は、その店気になってたんだ。こんな大きいボールみたいな入れ物にサラダが入っているのね」
私はちょうどサッパリしたものを食べたかったから嬉しかった。
「できたばかりの店だから行列とか並ぶの大変だったんじゃ⋯⋯」
「そんなことないよ!」
優しく気遣ってくれる林太郎の言葉に、昔の優しかった雅紀を思い出した。
14年もの長期間付き合っていたせいで、私の中から雅紀がすぐに消えてくれない。
教室の生徒さんはお弁当の子が多く、お昼時のせいかチラチラとこちらを見てくる。
昨日のように14時以降にランチをしていた時の方が生徒が授業に集中していて視線が気にならなかった。
「午前シフトの時は、ここで一緒にランチ食べるのはやめない?」
「え、どうして?」
「生徒もお昼休みだからか、こっちを見ているのが気になる⋯⋯私の彼氏と間違われたら嫌でしょ。私も嫌だし」
私は見た目が派手で遊んでいるように見られる。
だから、生徒さんから三十路女が年下の若い子を誑かしてるように見られてそうで怖かった。
「俺は嫌じゃないけど、きらりが嫌なら午前シフトの時は13時以降に来るね」
「林太郎の仕事ってそんなに自由が効くの? 外回りの営業とか?」
「⋯⋯うん、そんなとこかな」
時間まで合わせてもらって、奢ってもらって自分が何様だという気分になってきた。
私も彼と話すのは息抜きになるし、友人関係を維持するなら奢ってばかり貰っては良くなさそうだ。
「林太郎、今日と昨日いくらかかった? やっぱり自分の分はちゃんと出すよ」
「え、いいよ。俺、男だし奢らせて」
「何、そのジェンダーバイアス! それだったら年上の私が奢るわよ」
経済的に厳しい時だが、買ってきてもらう手間賃を考えたら私が奢っても良い気さえしてきた。
「俺が奢る! 最初に約束したでしょ。あのさ、俺のこと対等に見て欲しいんだけど」
私は林太郎の言葉に息を呑んだ。
確かに、友達といいながら、年下扱いして偉そうにアドバイスしたり奢ろうとしたり私は間違ってたかもしれない。
「ごめん。じゃあ、奢って林太郎。実は金欠でとても助かってるの」
私が言うと林太郎は歯を出して嬉しそうに笑った。
(めちゃくちゃ可愛いな、おい!)
「きらりは、普段、家で何をしてるの?」
「スポーツ観戦しながら、筋トレしているかな」
私の返しに林太郎が爆笑している。
(本当に彼はよく笑う⋯⋯ハッピーオーラに癒されるわ)
私はスポーツ観戦みたいな本気のやりとりが好きだ。
『フルーティーズ』をプロデュースする以上、視野を広げるべきとは分かっている。
「そうだ! 今日、この仕事後って時間ある?」
「ない。この後は上の階の芸能事務所に行って、その後ハローワークに行くから」
今日は平日なのに林太郎は遊びに行こうとでも思ってたのだろうか。
(ここは、年上として社会人の心得を彼に伝えといた方が良い気がする)
「あのね、林太郎。私、20代はなんとなく仕事してきちゃったの。そんな適当な時を過ごしたせいか辞めた時、会社になんの未練もなかった。20代は働き盛りなんだから、仕事をもっと真剣に必死に頑張った方が良いよ」
林太郎には私を反面教師にして、しっかりと仕事に取り組んで欲しい。
人生は1度きりで過ぎてしまった時は悲しいけれど戻らない。
「俺のこと心配してくれてる? 心配とかされたことないから、なんか新鮮。きらりは芸能事務所になんの用事? モデルでもやってるの?」
口うるさいおばさんだと思われる覚悟で注意したけれど、林太郎は全く怒らず私の話を聞いていた。
「『フルーティーズ』ってアイドルグループのプロデュースをしようと思っているんだけど知っている?」
「この前、脱退した黒田蜜柑が『イケダンズ』の倉橋カイトと写真撮られてたよね。『フルーティーズ』の子は蜜柑しか知らないや」
どうやら知名度が一番高い子が抜けてしまったのが、今の『フルーティーズ』らしい。
「写真って何? にゃんにゃん写真でも撮られたの?」
私の言ったことが余程変だったのか、林太郎はお茶を器官に詰まらせてむせていた。
「そんな訳ないでしょ。ファンタジーランドでのデート写真を撮られたんだよ。まあ、黒田蜜柑が売名で撮らせたんだと思うけどね」
「え! どういうこと? アイドルって男女交際は御法度なんじゃないの?」
アイドルといえば、交際でもしていた日には坊主にして謝罪したり卒業したりするものだと思っていた。
それに、蜜柑は『フルーティーズ』のメンバーなら中学生くらいのはずだ。
中学生が、男の子とデートするなんて早熟過ぎる。
それに倉橋カイトは昨日の写真では18歳くらいに見えた。
「倉橋カイトは超有名だけど、黒田蜜柑なんてほとんどみんな知らないよ。おそらく、グループ抜けてピンになるから箔付けに倉橋カイトと写真を撮らせたんだろ」
「いや、年の差がえぐいけど、長く付き合ってなきゃファンタジーランドには行けないよね。アトラクションの待ち時間3時間とかだよ」
中学生と大学生が付き合っているようなものだ。
そんなのは漫画の世界でしかあり得ない年齢差だ。
「アトラクションにいちいち並ぶ訳ないでしょ。普通に接待して貰ってゆっくりお茶飲んでから、アトラクションに乗ってるよ」
「そっか、確かに芸能人が並んでたら騒ぎになりそうだもんね。林太郎は実は芸能通なの? よくそんなこと知ってるね」
「きらりも、アトラクションに並ばずに乗りたい?」
「いや、私は実はお喋りしながら長時間並ぶのも醍醐味だと思っているから」
私は大学合格祝いで雅紀とファンタジーランドに行ったのを思い出していた。
アトラクションまで4時間待ちという長さで疲れた私を、彼は自分で空気椅子を作り座らせてくれたりした。
「今、元彼のこと思い出してたでしょ。早く、忘れて次にいった方が良いよ」
「そうだね、まあ、私は恋愛はあと7年はする気はないよ。今は『フルーティーズ』のプロデュースと就職活動に全力投球しなきゃだし」
『フルーティーズ』の3人娘はとても可愛く懸命なのに知名度がないらしい。
知名度ナンバーワンの蜜柑とは仲違いしたけれど、3人娘は1枚岩だと信じていた。
しかし、3人娘はそれぞれ全く違ったベクトルでアイドル活動をしていて、気持ちのすり合わせに私は苦労することになった。