林太郎が帰ると、私は事務所で1人の時間を過ごした。
『フルーティーズ』の振り付けを作ることができたが、難し過ぎなものになってしまったかもしれない。
最近のアイドルの振り付けを見ていると、子供でもできる簡単なものにわざとして流行を作り出している気がする。
「さようなら」
生徒さん達を全て見送って事務所の鍵を閉める。
生徒さんは授業が終わると、自習して帰る子が多かった。
事務所にとにかくいることを要求され、あまり人と話したりしないこの仕事は割と孤独だ。
(林太郎と仲良くなっておいて良かったかも)
結局、ハローワークにも行きそびれてしまった。
明日は午前中『メディサテライト』での仕事で、午後芸能事務所に行くからその後に行けば良い。
早く部屋に帰って休みたかったのに、マンションの前には最も会いたくない人が私を待っていた。
「きらり! お前なんで俺の電話無視してるんだよ。昨日もせっかくレストラン予約したのに来なかったし」
私を責めるように言ってくる雅紀は違う世界線から来た雅紀かもしれない。
昨日の記憶があったらこんなことが言える訳がない。
「昨日、私達お別れしたよね。まさか、ルナさんに振られたから私のところに来た訳?」
「違うよ。本命はきらりに決まっているだろ。俺たち14年以上も付き合って来たんだから」
雅紀が悪びれもせずに迫ってきて殺意が沸いた。
「結婚までして、ルナさんのお腹には子供までいるんだから、ルナさんのこと大切にしなさいよ!」
「それが、今、離婚するって方に話が向かっているんだよ。きらりがもっと上手くやってくれれば良かったんじゃないか? そうすればルナから金銭的援助を受けられて、きらりに楽をさせてあげられるって俺は思っていたんだ」
14年前、高校2年生の時に目立たないけれど懸命に裏方の仕事をやっている雅紀を好きになった。
思いやりを持っていた彼がどうしてこんな自分勝手な男になってしまったのか。
最大の原因は甘やかし過ぎた私な気がする。
「とにかく、ここ、私のマンションの前だから帰ってくれる? もう、雅紀とやり直すとか考えていないし。一生あんたとは関わりたくない!」
雅紀は自分が自分の家の前で騒がれたら嫌だろうに、私の生活圏では平気で揉めてくる。
「ちゃんと、話そう。とりあえず、部屋に入れてよ」
私の腰に手を回してこようとする雅紀に気持ち悪さを感じて避けようとしたら、雅紀の手をねじ上げる手があった。
「痛っ! 何するんだよお前!」
「渋谷さん! どうしてここに」
私はもう2度と会うことのないと思っていた渋谷さんの出現に驚いてしまった。
あっけに取られていると、渋谷さんは私の手を引いて自分の方に引き寄せた。
「渋谷院長、俺のプライベートのことまでは関係ありませんよね」
昨日は渋谷さんの前でヘコヘコしていた雅紀が今は反抗的だ。
「あるよ。僕は梨田さんと結婚するつもりだ」
渋谷さんが、にわかには信じがたいことを言っていて私は思わず彼の顔をまじまじと見てしまった。
「はぁ? きらり、てめえ浮気してたのかよ。このアバズレビッチ女が!」
私は渋谷さんの言葉に激怒して、今にも私に殴りかかろうとする雅紀に失望した。
雅紀に暴力などふられたことはなかったが、彼は浮気だけでなく暴力も振るような男だったということだ。
そして、自分は浮気するのに女の浮気は許せないらしい。
(そもそも、私、浮気していないし⋯⋯)
「僕の片想いだよ。でも、梨田さんのことは一生俺が守るって決めたから。これ以上騒ぐようなら警察呼ぶよ。それから系列病院への紹介の話もなくなると思ってね」
雅紀の腕を掴みながら射抜くような目で言う渋谷さんをじっと見つめてしまった。
そして、どうやら雅紀は新渋谷病院から他の病院に行くようだ。
(ルナさんの希望かしら⋯⋯彼女も雅紀に怒っていたみたいだし)
「ふっ! なんか金持ちに目をつけられて良かったな。貧乏きらり!」
散々私に貢がせてきた雅紀は、私に捨て台詞を吐くと走り去ってしまった。
「渋谷さん、今日は何かご用事でしたか? とにかくここで話すと目立つので中に入ってください」
私は彼をマンションのエレベーターホールまで連れてきた。
エレベーターホールには今誰もいなくて、すんっと静かな空気が流れている。
「お部屋には入れてくれないんですね」
渋谷さんが呟いた言葉に私は押し黙ってしまった。
私は彼を部屋に入れることに、なぜだか抵抗がある。
「雅紀は新渋谷病院から異動になるのですか?」
「あんな酷いことをした男が気になりますか? 彼はうちの病院の研修医をクビにしました。職員に対してパワハラやセクハラに該当する行為もあったので妥当な処分です」
渋谷さんが言う言葉に、私は雅紀が今の職場を追い出されることで苛立っていたのだと推察した。
「富田雅紀のことを考えないでください。さっき、僕、梨田さんにプロポーズしたんですが、それについては受け入れて貰えてますか?」
切なそうに私を見つめる渋谷さんに動揺した。
(あのプロポーズは雅紀を追い払う為のパフォーマンスなんじゃないの?)
「すみません。渋谷さんのプロポーズが本気でも冗談でも私には受け入れられません。私は今後誰かを好きになる予定はありませんし、誰かと結婚したいとも思ってません」
私は正直に渋谷さんに自分の思いを告げた。
過去、これ程何を考えているか分からない相手がいただろうか。
昨日会ったばかりなのにプロポーズしてくるなんて揶揄われてるとしか思えない。
「でも、僕は梨田さんを諦められません。初めて見たあなたは泣きそうな顔をしていた。次に見たときはイキイキと歌っていた。時に迷惑を掛けられたはずのルナを気遣っていた。髪を切った後、耐えきれなくなっただろう涙を流すあなたを見て僕は一生梨田きらりを守りたいと思ったんです」
真剣な表情で、私に訴えかけている彼に心が揺れた。
私は14年付き合って尽くした相手に捨てられて、今、全く恋愛をする気がない。
目の前で会ったことのないような素敵な人に求婚されてても恐れの方が先立ってしまう。
しかも、彼は私が見られたくない姿を全て見ている。
できれば、もう彼とは関わりたくないのが本音だ。
「渋谷さん。本気にしろドッキリにしろあなたのプロポーズを受け入れることはありません」
私の言葉に渋谷さんは一瞬悲しそうな顔をすると、また微笑んでポケットからネックレスを取り出した。
私の後ろに回って静かにそのネックレスをつけてくる。
よく見るとその花のような形をしたネックレスは何十万円もする高価なハイブランドのものだ。
「昨日、誕生日だったんですね。お誕生日おめでとうございます」
「ありがとうございます。でも、プレゼントなんて頂く仲ではないですよね」
私はこんなプレゼントを貰っても困ってしまう。
つけていくような場所もないし、渋谷さんがどういう意図でくれているのかも分からない。
彼のような誰が見ても完璧な人に思われるような人間ではないと自分でわかっている。
「僕が梨田さんが生まれたことに感謝したいんです。会社も辞めてしまったのですね。ルナが謝りたいと言ってました。でも、僕は彼女とあなたを会わせたくありません。ルナを見たら富田雅紀をあなたが思い出しそうで」
私にネックレスをつけた体勢のまま、私の首に顔を埋めて渋谷さんが語り出した。
「私に惹かれていると思うのは渋谷さんの錯覚だと思いますよ。昨日の今日でするような恋は明日には忘れます」
私に一目惚れと寄ってきた男を追い払うと、すぐに他の女ところにいっていた。
渋谷さんが彼らと同類とは思わないが、可哀想に見える私に同情しただけだ。
私は何もかも持ってそうな彼と上手くいく未来も、恋する未来も見えない。
そんな風に考えていたら、いつの間にか私は抱きしめられて彼にキスをされていた。
「忘れません。一瞬で僕の心を奪ったあなたは僕のアイドルです」