タクシーの中、私は富田ルナに向き合った。
彼女に私の職場で大暴れしたことについて、注意をしようと思った。
「富田ルナさん。私、あなたを名誉毀損で訴えるかもしれないから学校名と住所から教えてくれますか?」
まだ、若い上に妊婦の彼女を訴えるつもりはない。
そんなストレスを与えて、罪もない赤ちゃんに何かあったら大変だ。
それよりも、2度と大きな騒ぎを会社で起こしにこないように脅しの意味で私は彼女にプライバシーを尋ねた。
「赤山音楽大学2年富田ルナでーす。実家の住所は港区白金⋯⋯今は、雅紀とパパが買ってくれた実家近くのタワーマンションに住んでまーす。貧乏不倫ババアの家は調べたから教えてくれなくて良いよ! うちの玄関くらいの広さの部屋に住んでるんだね」
ルナはあっけらかんと自分のプライバシーを晒してきた。
よく見ると彼女のカバンは100万円以上するものだ。
住んでいる場所からも、かなりのお金持ちのお嬢様といった印象だ。
ルナは私を咎めなければ済まないようだが、私は明日、会社で何を言われるのかが怖くてそれどころではない。
不倫の事実はなくても、あれだけの騒ぎを職場で起こされてしまっている。
彼女のことを非難したい気持ちを、彼女は妊婦だと言い聞かせて沈めた。
「今、何歳なの? 三十路くらい? そんな年で結婚してないってやばくない? その年まで誰にも選んで貰えなかったの?」
ルナは私を咎めるように言ってくるが、彼女も私の存在に動揺しているのか唇が震えている。
「私は今日で30歳です。私は⋯⋯自分は将来、雅紀と結婚すると思っていました。私、彼しか男を知らないし」
10歳も年下の子が煽るように言ってきた言葉にダメージを喰らった。
選ぶも選ばないも何も初めての彼氏が雅紀で、彼のために尽くして生きてきて、それがこれからも続くと思っていた。
本当に雅紀が二股をかけていたら許せない。
(新渋谷病院のロビーで暴れてやろうかしら⋯⋯いや、病院だし他の患者の迷惑になるわ)
「不倫ババアの名前、きらりって超キラキラネームじゃん。親、低学歴のヤンキーなの? よく、そんな名前で就職できたね」
唐突に富田ルナが私の名前について話題を変えてきた。
彼女は沈黙に耐えられずに必死に私を責める話題を探しているように見える。
(私も、若い頃は無言に耐えられなくてひたすらに喋っていたな⋯⋯)
彼女の言葉に私は沸々と込み上げてくる怒りを必死に抑えた。
彼女はお金持ちかもしれないけれど、言葉使いも乱暴だし我儘な子だ。
(雅紀、本当にこんな幼い子と浮気したの?)
「ルナさん、近い未来あなたもお腹の子供に願いを持って名前をつけると思いますよ。私の親も私に願いを持って名前を付けているんです。私を非難したくて仕方ないのは我慢するけれど、うちの親を咎めるのは許せません。ルナって可愛い名前ですね。さあ、着きましたよ」
タクシー料金をカードで払うと私はルナと共に、病院のロビーに行った。
総合受付で雅紀を呼んでもらおうと思い受付の人に声をかけた。
「あの、研修医の⋯⋯」
「ルナ!」
エスカレーターを駆け降りてくる14年以上付き合った私の雅紀が見えた。
明らかに彼は私を無視して、隣にいる富田ルナに声を掛けて駆けつけている。
(嘘⋯⋯私が不倫相手なの?)
全身が怒りと悲しみで震えてきた。
今すぐこの場で暴れ出して、雅紀の人生もめちゃくちゃにしてやりたい。
(だって、私、明日どんな顔で会社に行くの? 不倫女扱いだよ? 14年以上私と雅紀は付き合ってたのに⋯⋯)
富田ルナの隣にいる私にやっと気がついたのか、彼が真っ青な顔で私を見ている。
彼の左手の薬指には、いつもはない結婚指輪がはめられていた。
「富田雅紀さんは、私の知ってる富田雅紀さんですか? 同じ高校だったんですけど覚えていますか? 梨田きらりです」
私は震える声を落ち着かせながら、最近では毎晩のように私の部屋に入り浸っていて結婚の話まで出ていた彼氏に挨拶をした。
「梨田さん。覚えているような、覚えていないような。今日は病院に何かご用ですか?」
昨晩は、私の家で寛いで結婚雑誌を見ていた男だ。
今、顔色ひとつ変えずに私を他人のように私を扱うなんて本当に酷い男だ。
彼は私が彼に惚れているのを心底分かっている。
私は彼しか男を知らなくて、彼と結婚する未来しか想像していなかった。
(私が雅紀との将来を夢見てる間、他の子と子供まで作って結婚までしてたんだ⋯⋯)
本当はここで私が富田ルナにされたみたいに大騒ぎしてやりたい。
雅紀の持っている全てをぶち壊してやりたい。
(ここは、病院だもの。そういうところじゃないわね⋯⋯というか騒いで何か変わるの?)
具合の悪そうな身内に寄り添う人や、幼いのに静かに順番を待つ子供の姿を見て、私は一呼吸おいてそこを去ることにした。
「いいえ、特に用はありません。奥様、お若くて綺麗な方ですね。どうぞお幸せに」
私は震える手でルナの腕を掴み、雅紀の前に押し出した。
私より10歳も年下のルナも私の様子を哀れみの目で見ている。
(さっきみたいに罵ってくれれば良いのに⋯⋯)
病院の外に出ると広い芝生が広がっていて、患者たちがお散歩をしていた。
うっすらと歌声が聞こえるので言ってみると、幼い車椅子の子供たちが歌手を囲んでいる。
(シャンソン? 何語?)
今、私がこの世界から離れたいと思っているからか歌声も知っている言葉として聞こえてこない。
「アンコール! アンコール!」
子供達の可愛い声が聞こえていくる。
(子供か⋯⋯)
別に子供が好きとか、そういう訳ではない。
でも、雅紀と結婚したら子供を産んで産休を取ってとか色々想像をしていただけだ。
雅紀にとって私はATMだったのだろう。
浪人するのにも、医学部での生活にも、彼にはお金が必要だった。
私は彼が勉強に集中できるようにお金を渡し続けていた。
彼の夢を応援しているつもりだった。
歌を歌ってた歌手がアンコールにこたえず帰ろうとしていた。
「え、帰っちゃうの?」
車椅子のニット帽を被った男の子が悲しそうにしている。
「みんなー! アンコールにこたえて、きらりが歌うよ」
私は手マイクで思いっきり歌い始めた。
即興で作った自作の曲『三十路で男も仕事も失ったけど、私は元気です』だ。
体をめいいっぱい動かしながら、子供にはまだ早いかもしれないアダルトな歌詞を歌い上げる。
自分を解放して、だって今の私を縛るものは何もない。
誰も縛ってくれない、誰にも必要とされていない、捨てられた私を見て!
歌い終わると周りの患者さんが私のことを拍手で称えていた。
(体が熱い⋯⋯何、この感覚!)
「次は、武道館で会おう!」
私は思わずその大きな拍手と歓声にノリで適当なことを言って手を振った。
「あなた、すごいじゃない! なんか、ものすごいマネーの覇王臭がしたわ。あなたからは金の臭いがプンプンする。正式にデビューしたらいいんじゃないかしら?」
先ほどのシャンソンのようなものを歌っていた男はオネエキャラだったようだ。
芸能事務所の人だろうか、よくみるとピンクの趣味の悪いカーディガンをプロデューサー掛けしている。
「セクシー女優にはなりませんよ? 私、グラマラスに見えるかもしれませんが、実は胸にはバナナパットが2枚入っています」
私は顔が派手な上に、胸の大きさを誤魔化しているせいか、1日最低2回はセクシー女優のスカウトに出くわす。
私がプロデューサー掛けの男の誘いを一刀両断すると、彼はゆっくりと首を振った。
「アイドルよ、アイドルグループ『フルーティーズ』って知ってる? 最近、1番人気の黒田蜜柑が脱退しちゃったんだけど、あなたから蜜柑以上の金の臭いがするのよ」
「すみません。私から金の臭いがするのは間違いではないと思いますが、そのアイドルグループは知りません。失礼します」
私に金の臭いがするのは間違いないだろう。
多分、今まで雅紀に貢いできた金は700万円を超える。
そして、今、私を金づる候補として私をロックオンしてきただろう男を無視して私はその場を立ち去ろうとした。